世界遺産NEWS 22/07/02:「ウクライナのボルシチ料理の文化」を無形文化遺産に緊急登録
7月1日、UNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)は無形文化遺産保護条約政府間委員会の第5回臨時委員会をオンラインで開催し、「ウクライナのボルシチ料理の文化(ウクライナ)」を無形文化遺産として緊急登録することを決議しました。
これで無形文化遺産は総計140か国631件となりました。
ボルシチについてはウクライナとロシアで起源論争が争われており、「ボルシチ戦争」と呼ばれています。
こうした背景もあり、ロシアの反発は不可避と思われます。
今回はこのニュースをお伝えします。
なお、無形文化遺産については最後にリンクを張った「UNESCO遺産事業リスト集2.無形文化遺産リスト:無形文化遺産一覧表」を参照ください。
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UNESCOの無形文化遺産の登録は毎年冬に開催される無形文化遺産保護条約政府間委員会で行われています。
しかし条約には、きわめて緊急の場合、委員会が関係する締約国と協議したうえで緊急保護リストに緊急登録することができる旨が記載されています(無形文化遺産保護条約第17条3項)。
「緊急保護リスト」は無形文化遺産に存在する3つのリスト(代表リスト、緊急保護リスト、グッド・プラクティス)のひとつです。
世界遺産の場合、世界遺産リストに登載されている物件の中で危機に直面している遺産が危機遺産リストに登載されます。
しかし無形文化遺産の場合、3つのリストはそれぞれ独立しており、遺産が重複することはありません。
「ウクライナのボルシチ料理の文化 "Culture of Ukrainian borscht cooking"」はウクライナが2023年の登録を目指して2021年に推薦をした物件です。
しかし、ウクライナはロシアによるウクライナ侵攻がこの文化に悪影響を与えているとし、委員会の加盟国に対して条約の規則と手続きに従って緊急登録の審議を進めるよう要請しました。
これを受けて2022年7月1日に第5回臨時委員会がオンラインで開催され、委員会は本件の緊急登録を決議しました。
委員会は決議の中で、「武力紛争が本件の存続を脅かしている。人々や文化の担い手が移動を余儀なくされ、ボルシチの調理やボルシチに使用する地元の野菜の栽培ができなくなるなど文化の実践が妨げられており、コミュニティの社会的・文化的福祉が弱体化している」と、その理由を述べています。
ボルシチは東ヨーロッパ全域で調理されているスープで、地域色が豊かであるうえに、ウクライナでは結婚式で振る舞われるなど各地の地理や社会・文化に深く根付いたものとなっています。
特徴はスープの赤紫色で、カブに似たテーブルビート(ビーツ/レッドビート/火焔菜)という根菜に由来します。
これに加えてハナウドというディルに似た葉を発酵させたものやキャベツを入れ、サワークリームやスメタナといった乳製品を加え、パンプーシュカと呼ばれる揚げパンやライ麦パン、茹でたジャガイモなどとともに食するのが一般的です。
しかし、テーブルビートを使わない緑ボルシチや白ボルシチ、黒ボルシチや、同じ赤でもトマトを入れるタガンログ・ボルシチなどもあり、地方によってブタやウシなど出汁もさまざまで、入れる具も野菜や肉・魚・卵と一定しておらず非常に多くのバリエーションを有します。
日本でいえば味噌汁みたいなものでしょうか。
無形文化遺産保護条約はレシピや料理そのものを保護する条約ではなく、無形の文化を保護するための条約です。
本件についてはボルシチを巡る文化、たとえば女性を中心に一族が力を合わせて大鍋で調理し、季節の節目で知人を招待するおもてなし料理としての文化、あるいは結婚式の3日目に新たな親族を訪ねてボルシチを食するという民俗文化、伝統的な野菜の栽培法や保存法との関係といったものが評価されています。
ボルシチの誕生は9~13世紀に繁栄したキエフ大公国(キエフ・ルーシ)の時代までさかのぼるといわれています。
キエフ大公国は現在のウクライナ-ベラルーシ-ロシア西部にまたがる国で、多くのスラヴ人国家の文化的祖国となっています。
キエフはウクライナの首都ですし、ベラルーシやロシアという名称もキエフ・ルーシの「ルーシ」に由来します。
これだけ長い歴史を持ち、地域色も大きいわけですから、当然のように起源論争も多彩です。
特に2014年のロシアによるクリミア併合以来、ウクライナとロシアの起源論争は「ボルシチ戦争」といわれるまでにエスカレートしています。
そして今回の決定です。
これを受けてウクライナのオレクサンドル・トカチェンコ文化情報政策大臣は「ボルシチ戦争における勝利」と叫び、さまざまな新聞が国際機関のお墨付きを得たものと評価しました。
一方、ロシア外務省のマリア・ザハロワ情報局長はこれをナショナリズムの発露であるとし、ウクライナのロシア系住民による一般的な料理を国家に帰属させる試みであると批判しています。
マリア・ザハロワ氏はかつてウクライナのボルシチ起源の主張を多文化の否定であり「ナチズム」と強く非難しています。
一方で、「保護することよりも実際に食されることが重要」と発言し、共有するものであるとも語ってもいます。
それに対してウクライナのマスコミは、もともとロシアが自国料理であると主張をはじめたと糾弾しています。
いずれにせよ、委員会がウクライナ寄りの決議を行ったことでロシアの反発は避けられないものとなりそうです。
2022年夏にロシアのカザンで開催予定だった第45回世界遺産委員会も延期されており、開催日程も未定です。
世界遺産委員会の議長国はロシアですから、こちらへの影響も考えられます。
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