世界遺産NEWS 18/08/23:英国政府、イラクに古代シュメールの文化財を返還
8月10日、ロンドンの大英博物館は2,000~5,000年前のメソポタミア文明の遺物8点をイラク大使館に引き渡したと発表しました。
■British Museum to Return Looted Antiquities to Iraq(The New York Times。英語)
今回はこのニュースをお伝えします。
※18/08/28、60年ぶりにインドに返還された仏像のニュースを追記しました
* * *
メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川流域で生まれた世界最古の文明です。
紀元前10000~前8000年頃には農耕・牧畜がはじまり、紀元前3000年頃にはウル、ウルク、エリドゥ、ラガシュ、ギルスといったシュメール人の都市国家が誕生していました。
ウル、ウルク、エリドゥの遺跡はイラクの世界遺産「南イラクのアフワール:生物の避難所と古代メソポタミア都市景観の残影」の構成資産でもあります。
しかしながら2003年のイラク戦争以来の混乱で、こうした遺跡の保全状況は著しく悪化してしまいました。
反政府勢力の中には出土した遺物を展示している博物館や美術館に侵入して展示品を破壊したり盗むような組織も存在しました。
最たる例がIS(イスラム国)で、世界遺産に登録されているハトラや世界遺産暫定リスト記載のニムルド、ニネヴェなどに侵入し、遺跡を破壊する映像を配信しています。
ISは偶像崇拝禁止の厳守を破壊の理由に挙げていましたが、本当の狙いは文化財の売却にあるのではないかといわれていました。
実際、メソポタミアの遺物のいくつかがトルコなどで発見されています。
[関連記事]
世界遺産NEWS 16/04/21:ISIL、イラク・ニネヴェの遺跡をふたたび破壊
世界遺産NEWS 16/11/17:イラク政府軍、ニムルドを奪還
世界遺産NEWS 17/04/27:イラク民兵組織、ハトラを奪還
2003年5月、イギリスのロンドン警視庁スコットランドヤードは密売の疑惑で美術商を家宅捜査し、印章やブレスレット、お守り、円錐状の粘土装飾など文化財8点を押収しました。
正式な鑑定書がなかったことから大英博物館に持ち込まれて調査された結果、刻まれた楔形文字(シュメール文字)などからイラク南部のテルロー遺跡で盗掘された2,000~5,000年前の遺物と判明しました。
テルローはシュメール都市国家ギルスの遺構と考えられている遺跡で、遺物にはこの都市や守護神の名前が刻まれていたということです。
これらの結果を受けて8月10日、大英博物館はイラク大使館に8点を返還したことを発表しました。
今後これらの遺物は本国に送られて、首都バグダードのイラク国立博物館に展示される予定です。
* * *
このニュースを受けてチリやギリシアなど大英博物館に対して文化財の返還を求めている国々では期待が膨らんだようですが、そうはいきそうにありません。
今回の返還は1954年に採択された1954年ハーグ条約(武力紛争の際の文化財の保護に関する条約)や、1970年に採択された文化財不法輸出入等禁止条約(文化財の不法な輸入、輸出及び所有権譲渡の禁止並びに防止の手段に関する条約)に基づくものと思われます。
いずれもイギリス、イラク両国が批准していますが、法律不遡及の原則(後になって処罰する事後立法を禁止し、制定や採択以前にさかのぼって適用されることがないという原則)によって採択・批准以前にはさかのぼれないことになっています。
ですから略奪品であったとしても、旧宗主国は植民地だった国々に文化財等を返還する義務を持たないと考えられています。
ただ、人道的な措置として元の国に戻される例は少なくありません。
1996年にイギリス・ロンドンのウェストミンスター寺院(世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会」)からスコットランドのエディンバラ城(「エディンバラの旧市街と新市街」)へ戻されたスクーンの石や、2005年にイタリア・ローマからエチオピアの世界遺産「アクスム」に戻されたステッレ(オベリスク)などが一例です。
大英博物館に対してもさまざまな返還活動が行われていますが、特に有名なのがチリ・イースター島の世界遺産「ラパ・ヌイ国立公園」のモアイ像と、ギリシアの世界遺産「アテネのアクロポリス」のパルテノン神殿を彩っていたエルギン・マーブルです。
イースター島のモアイ像は「ホアハカナナイア」と呼ばれる風変わりな石像です。
島のモアイ信仰は17~18世紀に島を二分する大戦争「モアイ倒し戦争」で終了しますが、たった1体、その後も信仰され続けたモアイが存在します。
島の聖域であるオロンゴ岬の石室に収められていた高さ2.42mの小ぶりのモアイで、その背中にはタンガタ・マヌをはじめとする神々が刻まれています。
モアイに神像が描かれている例は他になく、モアイ時代とその後をつなぐ貴重な遺物と考えられています。
1868年、島を訪れた英国艦隊の一行がこのモアイを見つけ出し、ヴィクトリア女王への手土産として持ち去ってしまいました。
現在、イースター島では署名活動をはじめ島をあげて返還運動が行われており、チリ政府に大英博物館との交渉を要求しています。
しかしチリ政府は及び腰で、大英博物館も今年8月に「正式な返還要求は受けていない」「イギリスに置かれていることでより多くの人々がモアイを目にすることができる」とのコメントを出しています。
エルギン・マーブルについては下にリンクを貼った過去記事を参照してください。
* * *
日本もこのような話に無縁ではありません。
朝日新聞は8月15日、国宝や国の重要文化財・都道府県の文化財について、行政機関に対してこれまでに115件の盗難被害が届けられていることを発表しました。
このうち78件が国宝や重文ですが、戻ってきたのはたった1件で、全体の約半数は行方もわかっていないということです。
近年その被害は急増しており、逮捕されたある文化財泥棒は「仏像ならいくらでも売れる」と語っていたようです。
また、2011年には野田政権下で宮内庁が所蔵していた朝鮮王室儀軌と呼ばれる文書類5冊が韓国に戻されました。
日本側は日韓友好のための「譲渡」としていましたが、韓国側の報道では「返還」とされたことから議論が起こり、さらなる返還要求を呼び起こしました。
文化財の保全の問題に植民地の問題が重なって、2014年の対馬仏像盗難事件に端を発する観音寺への観世音菩薩坐像返還問題にも影響を与えています。
[関連記事]
世界遺産NEWS 16/08/28:大英博物館のモアイ返還運動が始動
* * *
※18/08/28追記
スコットランドヤードは8月中旬、12世紀に制作された仏像をインドに返還したことを発表しました。
この仏像は1961年に世界遺産「ビハール州ナーランダのナーランダ・マハーヴィハーラ[ナーランダ大学]の考古遺跡」があるナーランダの考古学博物館から盗まれたもので、盗品の発見を目的として活動を続けていたインド・プライド・プロジェクトとARCAと呼ばれる文化芸術保護団体が今年3月に開催されたアンティーク・フェアで発見しました。
主催者と持ち主はこの事実を知りませんでしたが返還の合意に至り、インドの独立記念日である8月15日にロンドンで開催された式典の場で返還が行われました。
イギリスに持ち込まれたルートの解明が急がれていますが、ブラックマーケットは予想以上に先進国社会に浸透しているようです。