世界遺産と世界史47.清・朝鮮・江戸の滅亡
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』
1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<清の開国>
■内外の圧力
19世紀、帝国主義の植民地拡大政策は東アジアにも及びました。
18世紀、清朝は乾隆帝の時代に最大版図を築き、人口も1億超から3億へと倍増しました。
それに伴って山岳地帯が開墾され、辺境や東南アジアへの移住も進行。
土地が減り、農作物の需要が増えた一方で、税負担は重く、農民は貧困化していました。
乾隆帝が1795年に退位して嘉慶帝が就任すると、翌年四川を中心とする山間部で白蓮教徒の乱(1796~1804年)が起こります。
白蓮教徒は救世主・弥勒(みろく)菩薩に対する信仰を持ち、共同生活を営んでいましたが、清が弾圧と課税を行ったことに対して不満がたまっていました。
この反乱は10年近く続き、清の軍だけでは鎮圧できずに私兵集団・郷勇の助けを仰ぎました。
このため清の財政は悪化し、政府に対する信頼も揺らぎはじめました。
内側からの反乱・反発に加え、18世紀後半になると列強が圧力を加えはじめます。
この頃、清は海禁(海外への渡航と貿易の禁止)を行っており、貿易港を広州に絞り、貿易を公行(コホン)と呼ばれる13の特権商人(広東十三行)に限定していました。
イギリスは茶・絹織物・陶磁器などをこうした商人から輸入していました。
イギリスはインドでしたように綿織物を売りたかったのですが、中国には高品質の絹織物があって思うように売れません。
このため大量の銀が流出し、大きな貿易赤字に悩まされました。
■アヘン戦争
増え続ける赤字に対し、イギリスは中国で売れるものを考えて秘密裏にケシから作られる麻薬アヘンの輸出をはじめます。
東インド会社がベンガル地方で栽培させたアヘンを密輸すると、需要は貧困層を中心に急速に拡大。
次第に貿易額が増して、「イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリス」という三角貿易が成立し、19世紀前半には茶の輸入額を上回るまでに成長します。
清ではアヘン中毒者が増える一方で、銀の流出を背景に庶民の生活状態が悪化し、財政難に見舞われました。
このため清の道光帝は1839年に林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣して取り締まりにあたらせます。
林則徐はアヘンの売買や使用に対し、一定の猶予期間を設けた後、死刑を勧告。
イギリス商人にアヘンの引き渡しを要求し、期限内に引き渡されないものについては強制的に押収してこれを処分しました。
アヘンの取引が違法であったにもかかわらず、イギリスは財産権の侵害を主張して賠償を要求。
これが無視されるとイギリスは海軍の軍艦や陸軍を派遣し、インドからもインド人傭兵シパーヒー(セポイ)を投入し、1840年にアヘン戦争(~42年)を開戦します。
林則徐は広州で迎撃する準備を進めていましたが、イギリス海軍は広州を通過して北上。
道光帝は首都・北京①②③④⑤に来るのではないかと動揺し、林則徐を解任して広州で交渉にあたらせます。
しかしながらこの交渉は決裂し、広州はイギリス軍によって略奪・破壊されました。
1841年、イギリス軍は厦門(アモイ)⑥や寧波(ニンポー)を占領し、翌年には長江に入って北京へ続く大運河⑦に侵入。
これを受けて清朝は降伏しました。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国)」
③世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国)」
④世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国)」
⑤世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
⑤世界遺産「鼓浪嶼[コロンス]:歴史的共同租界(中国)」
⑥世界遺産「中国大運河(中国)」
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■不平等条約の締結
イギリスは1842年に締結された南京条約で、賠償金支払い、5港(広州・上海・厦門・寧波・福州)の開港、香港島の割譲、公行の廃止(海禁の廃止と自由貿易の推進)などを認めさせました。
翌年にはさらに領事裁判権(イギリス人を清ではなくイギリス領事が裁く権利。治外法権)などを認める虎門寨追加条約を締結しています。
こうした不平等条約を見て、1844年にアメリカは望厦(ぼうか)条約、フランスは黄埔(こうほ)条約を結び、清にイギリスと同様の条件を強要しました。
アヘン戦争後、戦争による出費や賠償金で財政危機を迎えた清朝は重税を課して民衆の負担が増大。
貿易の中心が広州から長江下流の上海に移ったことで物流も変わり、特に中国南部で貧困化が進みました。
こうしたことや、後述する太平天国の乱などの影響で土地が荒廃したこともあり、広東省や福建省を中心とした多くの中国人が土地を追われて海外へ旅立ちました。
1833年に奴隷制を廃止したイギリスはこうした移民を歓迎し、クーリー(苦力。契約移民)貿易を推進。
クーリーたちは東南アジアの鉱山や、ゴールドラッシュに沸くアメリカ大陸の鉱山、大陸横断鉄道の敷設現場などに運ばれて労働に従事しました。
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■太平天国の乱
中国南部に留まった人々は生活苦に追われ、氏族や民族・宗教で結社を作って助け合って生活する者も少なくありませんでした。
力を持った結社の中には政府に逆らう組織もありました。
その中で最大の結社が拝上帝会で、最大の反乱が太平天国です。
拝上帝会はイエスの弟を名乗る洪秀全をリーダーとする宗教結社で、キリスト教のヤハウェを唯一神として崇めていました。
神の下の平等を説く教えは貧困層に受け入れられ、財産を共有して平等に分け与える思想も受けて信者を拡大していました。
1851年に挙兵すると太平天国の名で独立を宣言し、南京を占領して天京に改称して首都としました。
太平天国の目標は「滅満興漢」で、満州の国である清を滅ぼし、漢民族の国を興すこと。
満州族の風習である弁髪や纏足(てんそく。幼少期から女子の足をきつく縛って小さな足にすること)を禁じ、アヘンの吸引なども厳しく取り締まりました。
太平天国がキリスト教の一種であるということで当初は見守っていた列強も、中国南部が混乱して貿易が妨げられると清朝支援に転換。
アメリカ人ウォードンやゴードンは中国人義勇兵からなる常勝軍を編成して太平天国と戦いました。
1864年に洪秀全が病死し、その直後に天京が陥落して太平天国は滅亡。
この乱を通じて数千万人の犠牲者が出たといわれています。
清は勝利を収めはしましたが、政府や軍の無能ぶりは知れ渡り、信頼は大きく損なわれました。
■アロー戦争
イギリスはアヘン戦争に勝利して清との貿易を進めましたが、思ったほどの利益は上がらず、いっそうの自由貿易を求める機会をうかがっていました。
1856年、広州に停泊していた香港船籍のアヘン密輸船アロー号に対し、清朝の官憲が海賊容疑で取り調べを行い、中国人船員を逮捕します。
香港は南京条約でイギリス領となっていたことからイギリスが強く反発。
イギリスはフランスのナポレオン3世を誘って清朝と開戦します(アロー戦争/第2次アヘン戦争)。
英仏軍は広州を占領し、天津に迫ると清朝は降伏。
1858年に天津条約を締結します。
ところが批准書交換の使節を清軍が砲撃したことから再び武力衝突に入り、英仏軍は北京①②③④⑤を占領して円明園を焼き払い、1860年に天津条約を批准させて北京条約を締結しました。
これらの条約により、11港の開港、外国公使の北京駐在、キリスト教宣教、外国人の中国内地旅行の自由、アヘン貿易の公認、イギリスへの九竜半島南部割譲、賠償金支払いなどが定められました。
その後、アメリカとロシアも同様の条約を締結しています。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国)」
③世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国)」
④世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国)」
⑤世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
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<日本と朝鮮の開国>
■黒船来航
江戸時代、幕府は鎖国を進めており、四口(長崎口:オランダと清、対馬口:朝鮮王朝、薩摩口:琉球王国、蝦夷口:アイヌ)のみを開港して貿易を行っていました。
しかし、ロシアから1792年にラクスマン、1804年にレザノフが来日して開港を求め、1837年にアメリカのモリソン号が通商を要求してきたように(モリソン号事件)、欧米諸国の圧力はいよいよ日本に迫っていました。
モリソン号を砲撃して追い払ったように、それまで異国船打払令によって対処していましたが、アヘン戦争やアロー戦争を知った幕府は危険を感じて食糧や燃料を与えて返す方針に転換したものの、鎖国自体は継続していました。
こうした状況下で1853年、ペリー率いる東インド艦隊の艦船4隻が浦賀に来航します。
ペリーの目的は捕鯨船と太平洋航路の寄港地の確保です。
ペリーは親書を幕府に手渡すと、翌年の回答を要求して一旦上海に帰港。
1854年に再び来日すると日米和親条約を締結し、下田と箱館の開港、アメリカ船籍の補給、領事の駐在、最恵国待遇などを確保しました。
これを耳にしたイギリス、ロシア、オランダも次々と来日し、同年に同様の不平等条約を結んでいます。
■明治維新
アメリカは下田に総領事ハリスを送り込み、イギリスはパークス、フランスはレオン・ロッシュを派遣して自由貿易を推し進めます。
1858年には貿易の取り決めを定めた日米修好通商条約を締結。
これにより神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸と大坂の開市、外国人居留地の設定、領事裁判権の承認、関税自主権の放棄などが決定しました。
やはりこちらもイギリス、ロシア、オランダ、フランスとの間で同様の通商条約が結ばれています。
幕府の諸外国にへつらう態度や混乱、蒸気船をはじめとする欧米の強大な経済力を見た人々は、討幕・佐幕(幕府を中心とした政治を続けること)・尊皇(天皇を中心とした政治を目指すこと)・開国・攘夷(外国を追い払うこと)といった思想の中で揺れ動きますが、次第に尊皇攘夷派が力を握り、討幕に傾いていきます。
そして1867年に第15代将軍・徳川慶喜が京都の二条城①で政権を朝廷に返上(大政奉還)。
翌年、明治天皇を中心とする天皇親政が復活しました(明治維新)。
明治政府は藩を廃止して県を置くことで中央集権を強める廃藩置県や、軍事力を高める徴兵令、農・工・商などの身分をなくす解放令などを定め、鉄道・電信・鉱山・造船・牧畜などの官営工場・官営施設を設立して近代産業を推進する殖産興業を実施し、国を豊かにして強力な軍隊を創設する富国強兵を推し進めます。
こうした政策が実り、1890年代に製糸(絹糸の生産)・紡績(綿糸の生産)を中心とした軽工業が発達して第1次産業革命が起こり、1900年代に製鉄・造船・機械工業といった重工業が伸長して第2次産業革命が実現。
非西洋国として世界初となる産業革命をわずか50年ほどで達成しました。
富岡製糸場②は第1次産業革命、官営八幡製鐵所③や三池炭鉱③などは第2次産業革命を代表する遺産です。
※①世界遺産「古都京都の文化財[京都市、宇治市、大津市](日本)」
②世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)」
③世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業(日本)」
■琉球王国の滅亡
日本は清との間で1871年に日清修好条規を締結します。
対等の条約で、互いに領事裁判権や公使の駐在などを認め、相互不可侵を取り決めました。
この頃、日清間で問題になっていたのが琉球王国です。
1871年に琉球王国の船が台湾に漂着し、船員が殺害される事件が起こりました。
日清両国は互いに琉球王国の自国への帰属を主張して対立。
1874年に明治政府は台湾出兵を行って事件の首謀者たちを捕らえて殺害します。
清はこれに抗議しますが、まだ海軍が充実していなかったことと、イギリスの仲介もあって和解を受け入れましいた。
一方、明治政府は琉球王国の日本帰属が認められたものとして併合を進めます。
これ以前、日本は1872年に琉球藩を設置していましたが、1897年に琉球藩が廃止されて沖縄県となり、首里城※が明け渡されて琉球王国は滅亡。
日本の領土に組み入れられました。
※世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群(日本)」
■朝鮮王朝の開国
朝鮮王朝(李氏朝鮮)では儒教が浸透していました。
漢民族の明が滅びて満州族の清が誕生した時点で、朝鮮王朝は儒教思想の中心を自負し(小中華思想)、清に服属しながらも文化的には上であるという矜持を持ちつづけたといいます。
こうして清を夷狄(いてき)、日本を倭夷(わい)、欧米を洋夷(ようい)と見下して鎖国を行う一方で、大国には従う事大主義を採りました。
たとえば清には毎年燕行使(えんこうし)、日本には朝鮮通信使を送って交流を図りました。
19世紀後半になると欧米諸国が開国を求めますが、第26代国王・高宗の摂政(せっしょう。幼君に代わって政務を司る役職)である大院君(デウォングン)はこれらを拒否して攘夷を貫きます。
その後実権を握った高宗の王妃・閔妃(ミンビ)も鎖国を継続します。
1871年に明治政府は朝鮮王朝に圧力をかけて開国を要求しますが、これも拒否。
1875年、軍艦・雲揚号を江華島沖に進めて挑発すると、朝鮮王朝は砲撃で応えます。
これを理由に日本は永宗島(現在の仁川)を占領し、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結。
朝鮮に不利な不平等条約で、朝鮮王朝はイギリス、ドイツなどとも同様の条約を締結します。
開国と近代化は避けられないものになりましたが、その進め方については日本を模範として急進的な改革と独立を目指す独立党と、清との関係を重視して漸進的な改革を行う事大党の間で対立が起きます。
閔妃の一族である閔氏が日本にならって軍制改革を行うと、1882年に旧軍の兵士たちが反乱を起こし、日本公使館を襲撃(壬午軍乱)。
これに対して閔妃は清に救援を要請し、清は軍を送って鎮圧するとそのまま朝鮮に駐留します。
朝鮮半島で支配を強める清に対して独立党が反発し、1884年に独立党の金玉均(キム・オッキュン)らが日本公使の支援を得てクーデターを決行(甲申政変)。
日本軍とともに王宮(景福宮)を占領すると高宗の身柄を確保し、閔氏一族を殺害して新政権の樹立を宣言します。
しかし、袁世凱(えんせいがい)率いる清軍に鎮圧され、金玉均は日本に亡命。
日本公使館は民衆の襲撃を受けて焼き払われました。
こうして日清の対立が深まったことから両国は1885年に天津条約を結び、両軍の朝鮮半島からの撤兵や出兵する際の事前通告などを取り決めました。
* * *
<清の滅亡>
■日清戦争
この頃、朝鮮半島では庶民の間で東学と呼ばれる宗教が流行していました。
儒教を中心に仏教や道教をまとめて体系化したもので、キリスト教の西学に対して東学と名づけられました。
1894年、役人の不正に対して東学党の地方指導者・全琫準(チョン・ボンジュン)が農民を率いて反乱を起こすと、民衆の支持を得て瞬く間に膨れ上がります(甲午農民戦争/東学党の乱)。
政府は清に援軍を求めると、清は天津条約にしたがって出兵を通告。
これを受けて日本軍も出兵すると、朝鮮政府は農民と和解して撤兵し、日清両国に撤退を要請します。
ところが日本はこれを拒否して軍を進めて漢城①②③を占領。
閔氏を政権から締め出して親日政権を打ち立てます。
これを受けて1894年に日清戦争が勃発。
平壌・黄海・遼東半島・山東半島などで日本は有利に戦いを進め、翌年清は降伏しました。
1895年、伊藤博文と李鴻章が会談して下関条約を締結。
日本は遼東半島・澎湖島・台湾の割譲と、賠償金・通商特権などを得たほか、清は朝鮮に対する宗主権を放棄し、朝鮮王朝の独立が認められました。
しかし、日本の大国化と大陸への影響力の増大を恐れたロシアはフランス、ドイツとともに遼東半島の返還を要求(三国干渉)。
日本は返還を受け入れる代わりに東清鉄道の敷設権を獲得しました。
朝鮮王朝は下関条約によって独立が認められましたが、その代わり日本とロシアの干渉が強まって親日派と親露派が対立するようになりました。
閔妃がロシアに接近したため、1895年に日本公使が閔妃を暗殺(閔妃暗殺事件)。
これで反日機運が盛り上がり、親露派が勢いを増して親露政権が誕生します。
1897年、完全な独立を確認するために朝鮮王朝は国号を大韓帝国に変更。
高宗は清の皇帝や日本の天皇と同格になるために皇帝を自称したといわれています。
※①世界遺産「昌徳宮(韓国)」
②世界遺産「朝鮮王朝の王墓群(韓国)
③世界遺産「宗廟(韓国)」
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■戊戌の変法・政変
1898年にドイツ人宣教師が殺される事件が起こると、これを口実にドイツは青島(チンタオ)のある膠州湾(こうしゅうわん)を租借(他国の領土を借り上げること)。
これをきっかけに遼東半島南部をロシア、威海衛(いかいえい)と九竜半島をイギリス、広州湾をフランスが租借します。
さらに、ロシアは東北地方、ドイツは山東地方、日本は福建地方で優先権を認めさせるなど、諸外国は先を争って利権を追い求め、中国分割を進めました。
亡国の危機を前に、清では日本の明治維新をモデルとした抜本的な改革(変法)を求める声が高まります。
光緒帝は官庁を整理して教育を改革し、政治改革や西洋学の浸透を進めました(戊戌(ぼじゅつ)の変法)。
これに反対したのが西太后をはじめとする保守派です。
西太后は第10代皇帝・同治帝の母で、第11代皇帝・光緒帝の母の姉。
同治帝が5歳、光緒帝が4歳で即位するといずれも西太后が摂政となって権力を握りました。
光緒帝の成人をもって西太后は政権を返しますが、依然として大きな影響力を保っていました。
西太后は保守派を大臣に任命して改革に抵抗し、光緒帝は保守派の官僚を罷免して対抗。
光緒帝は悩んだ挙句、軍人・袁世凱(えんせいがい)に相談して西太后の排除を依頼しますが、袁世凱はこれを西太后に漏らしてしまいます。
この裏切りにより西太后一派はクーデターを起こし(戊戌の政変)、光緒帝は幽閉され、変法はわずか100日で終了しました(百日維新)。
光緒帝は、冬は紫禁城①②の庭園である中南海の瀛台(えいだい)、夏は頤和園③の玉瀾堂におよそ10年にわたって監禁されました。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
③世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国)」
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■日露戦争
中国の民衆の間でも欧米と日本に対する不満が高まり、外国人排斥運動や反キリスト教運動(仇教運動)が広がっていました。
そんなとき、白蓮教の一派である義和団は扶清滅洋(清を助けて西洋を滅ぼす)を掲げて教会や鉄道・電信設備を襲撃し、天津や北京①②③④⑤の一部を占領します。
政府は当初鎮圧にあたっていましたが、やがて保守派が義和団とともに排外運動を行い、諸外国に宣戦を布告。
これに対して英・米・仏・独・伊・墺・日・露の8か国は共同出兵を行って天津と北京を占領し、清を降伏させました(義和団事変)。
戦後、ロシア軍は中国東北部に留まり、大韓帝国へも接近していたことから日本との関係が急速に悪化。
イギリスもロシアの南下政策を警戒していましたが、この頃アフリカで南アフリカ戦争(1899~1902年。ブール戦争)を戦っていたことから兵力を割けず、「光栄ある孤立」を転換して1902年に日英同盟を結んでロシアを牽制します。
1904年に日露戦争がはじまると、日本は奇襲作戦だった仁川沖海戦、旅順要塞を攻略した旅順攻囲戦、最大の陸戦である奉天会戦で勝利を収め、日本海海戦ではロシアの主力艦隊であるバルチック艦隊を打ち破りました。
日露戦争が戦われている最中、ロシアでは1905年1月にサンクトペテルブルク⑥の冬宮殿(冬宮。現・エルミタージュ美術館)前で血の日曜日事件が起こります。
農民や労働者の苦しい生活が続く中で、労働者組織を指揮する正教会のガポン司祭は待遇改善や立憲政治を求め、労働者10万人を率いて冬宮殿に詰めかけます。
ところがロシアの警備隊は彼らに発砲して1,000人前後を射殺する惨事となりました。
この事件により帝政打倒の声が拡大し、日本海海戦後の5月には戦艦ポチョムキン号の乗組員が反乱を起こして艦を乗っ取り、黒海のオデーサ(オデッサ)⑦港に入ってオデーサの民衆に呼応しました。
農民蜂起や労働者のストライキが相次ぎ、軍でも反乱が起こるなど全国的な運動に発展し、ロシアは戦争継続が困難になりました。
血の日曜日事件以降の流れは第1次ロシア革命(第1革命)と呼ばれます
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「頤和園:北京の皇帝の庭園(中国)」
③世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国)」
④世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国)」
⑤世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
⑥世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)」
⑦世界遺産「オデーサ歴史地区(ウクライナ)」
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■協商国の成立
日本は相次ぐ戦勝に沸いていましたが、戦死者はロシアの3~4倍に達し、戦費は当時の歳入の7倍という信じがたい額に膨れ上がっていました。
この戦費はイギリスとアメリカが戦時国債(借款)を買うことで(つまり両国に借金をすることで)調達していましたが、以後日本は返済に苦しみ、1980年代まで返済が続いたともいわれます。
イギリスとアメリカは日本を支援しながらロシアにも融資を行っており、これによって莫大な利益を上げました。
こうした事情から両国とも戦争を続けることは難しく、日本はアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトに調停を依頼。
1905年、日本の小村寿太郎とロシアのウィッテはアメリカのポーツマスで講和会議を開催し、9月にポーツマス条約を締結しました。
これにより日本は大韓帝国の保護権、遼東半島南部の租借権、南満州の鉄道利権、樺太南部の領有権などを獲得しました。
ロシアは日露戦争の敗北によって東アジアでの南下政策を断念し、視線を再びバルカン半島に転じます。
このため東アジアでは各国と和解に向かい、1907年に日露協約を締結。
バルカン半島への進出を図るドイツに対抗するためにイギリスとも英露協商を結びました。
1904年には露仏同盟と英仏協商も締結されて三国協商が完成し、イギリス、フランス、ロシア、日本は協商国(連合国)と呼ばれて軍事ブロックを形成しました。
■韓国併合
大韓帝国について、日露戦争の結果、日本が保護国として認められました。
そして日本は日露戦争中を含む1904~07年の間に3次にわたる日韓協約を締結します。
第1次日韓協約では日本人を顧問として政府に登用させて外交を監視。
第2次では統監府を設置して初代統監として伊藤博文を送り込みました。
高宗は1907年の第2回万国平和会議(ハーグ国際平和会議)に密使を送って各国に日韓協約の無効を訴えますが(ハーグ密使事件)、日本の支配を承認したロシアやイギリス、アメリカに無視されました。
このため第3次では高宗を退位に追い込み、軍を解散させてしまいました。
1909年、義兵闘争と呼ばれる抗日運動の中で安重根(アン・ジュングン)が満州のハルビン駅で伊藤博文を暗殺します。
それでも日本は1910年に韓国併合条約を締結して韓国併合を実施。
こうして大韓帝国は滅亡しました。
日本は漢城を京城に改名して朝鮮総督府を置き、第2次世界大戦が終結する1945年まで35年にわたって支配を続けます。
■辛亥革命
辛亥革命前後の各勢力の推移。Qing Empire=清、Revolutionaries=武昌政府、Republic of China=中華民国、Mongolian Rebels=モンゴル、Urjanchai Republic=ウリャンカイ
ジャッキー・チェン監督・主演『1911』予告編。辛亥革命を描いた作品で、革命100周年を記念して2011年に制作されました
義和団事変に敗れた清は西太后が実権を握る中で近代化が進められました(光緒新政)。
1908年に大日本帝国憲法を範として憲法大綱を発布し、国会開設を約束して立憲政体への移行を決断します。
しかし、同年に光緒帝は毒殺され、西太后はその翌日に死去しました。
西太后の遺言で、第12代皇帝には宣統帝・溥儀(ふぎ)がわずか2歳で即位します。
しかし、人々はもはや清に国を治める力がないと考えて、清朝打倒を掲げる革命運動が広がります。
1905年、東京で中国同盟会が結成され、孫文が総理に就任。
中国同盟会は民族主義・民権主義・民生主義という三民主義を唱え、漢民族を中心とした共和国を設立し、貧富の差のない安定した政権の樹立を目標としました。
1911年、清が民間鉄道を国有化して外国から借款を得ようとすると、国の富を収奪して海外に売りさばく行為であるとして資本家や地方の有力者が反対し、四川省で暴動に発展します。
この四川暴動を鎮圧するために武漢の軍に出動を命じますが、10月10日に軍の革命派が蜂起して武昌を占領し、清からの独立を宣言(武昌蜂起)。
この知らせは各地に広がり、13省が武昌政府の下での独立を宣言します。
この一連の革命を辛亥(しんがい)革命といいます(第1革命)。
■清の滅亡
ベルナルド・ベルトルッチ監督『ラストエンペラー』予告編。最後の皇帝である宣統帝・溥儀の生涯を描いています。第60回アカデミー賞作品賞受賞作品
1912年、独立した諸省は首都となる南京に集まって中華民国の建国を宣言し、アメリカに亡命していた孫文が帰国して臨時大総統に就任します。
これに対して清は軍の実力者・袁世凱に鎮圧を命令。
袁世凱は近代的な装備を誇る北洋軍を率いており、中華民国の大きな脅威でした。
しかし、宣統帝の退位と共和政の維持を条件に孫文から臨時大総統の座を譲り受けると、1912年に宣統帝を退位させ、その翌日、北京①②③で臨時大総統に就任します。
これにより277年続いた清朝は滅亡し、2,100年以上の歴史を誇る中国皇帝の歴史に終止符を打ちました。
しかし、袁世凱は共和政の理念をまったく持っていませんでした。
中国同盟会を母体として国民党が誕生し、共和政と民主主義を掲げて1912年末の選挙で大勝すると、袁世凱は強い危機感を抱きます。
このため国民党を弾圧し、孫文や黄興らの武装蜂起(第2革命)を武力で鎮圧しました。
1913年には正式な大総統に就任し、国会を解散して独裁権を強化しました。
1914年に第1次世界大戦が起こると中立を宣言しますが、ドイツに宣戦布告した日本がドイツの租借地である膠州湾(青島)や南海諸島を占領し、翌年には山東のドイツ利権の継承などを定めた二十一か条の要求を突きつけます。
袁世凱は日本の軍事力に逆らえず承認すると、国内で非難が巻き起こりました。
この後、袁世凱は皇帝の復活を図りますが、帝政反対運動が起こり(第3革命)、諸外国も反対したためこれを断念。
そして1916年に病没します。
清が滅亡して以来、周辺部で独立運動が加速します。
1911年に外モンゴルが独立を宣言し、1913年にはダライ・ラマ13世がチベットの独立を布告。
外モンゴルでは1924年にソ連の支援を受けて社会主義国・モンゴル人民共和国が成立します。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「明・清朝の皇帝陵墓群(中国)」
③世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
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次回は世界分割を紹介します。