世界遺産と世界史48.世界分割
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<アフリカ分割>
アフリカ分割の様子。Portugal=ポルトガル、Castile=カスティリャ(スペイン)、Spain=スペイン、Netherlands=オランダ、Sweden=スウェーデン、Denmark=デンマーク、France=フランス、England=イングランド、Great-Britain&United Kingdom=イギリス、Brandenburg-Prussia=ブランデンブルク=プロイセン(プロイセン)、Germany=ドイツ、Italy=イタリア、Belgium=ベルギー
■分割統治
19世紀後半から20世紀頭にかけて、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ、イタリア、ベルギー、日本という8か国の帝国主義国家が地球の陸地の過半数を領有し、世界人口の1/3を支配しました。
こうした帝国主義国家は19世紀末から好景気に入り、世紀末文化が栄え、ベル・エポック(すばらしき時代)を謳歌しました。
帝国主義国家は各地を植民地化する際、「分割統治」と呼ばれる方法を採りました。
多民族国家をあえて多数の民族が混在するように国境を引き、その中の少数派の民族を取り立てて他の民族を差別的に統治する政策です。
現在、アフリカや西アジアに直線の国境が多いのはこうした国境政策が原因です。
これにより民族の一体化を防ぎ、対立を煽って宗主国に対する反発・批判を防ごうとしました。
たとえばベルギー領だったルワンダにはツチ族とフツ族がいましたが、少数派のツチ族を政府や企業の要職に就かせ、教育・税・労働・教会等々、さまざまな場面で差別待遇を行いました。
これに対するフツ族の不満はベルギーではなく、支配層となったツチ族に向けられました。
これが第2次世界大戦後の民族紛争を引き起こし、やがて1994年の大虐殺に発展します。
同様に、スーダンにおいてイギリスは北部でアラブ人、南部でキリスト教徒を優遇して分割統治を行い、これが現在、南スーダンの独立やダルフール紛争にまで尾を引いています。
また、ジブチ、ソマリランド、ソマリアや西アジアのように同民族の国の場合(前者はいずれもソマリ人。西アジアはアラブ人)、部族や氏族で分断して対立を煽りました。
■奴隷貿易
15世紀、ポルトガルによるアフリカ航路やインド航路の「発見」以降、アフリカでは金や象牙や奴隷を供給する港市(こうし)が発達しました。
アフリカは巨大な大陸でしたがヨーロッパが関係するのは港と周辺の都市だけで、19世紀半ばまで内陸部はほとんど未解明のままでした。
奴隷貿易を行ったのはヨーロッパやアラブの奴隷商人でしたが、内陸で奴隷狩りを主導したのは主としてアフリカの民族で、先進国から武器を買い、その武器で奴隷を集めてヨーロッパやアラブ諸国に売りさばいていました。
一例がダホメ王国(首都アボメイ①)やアシャンティ王国(首都クマシ②)で、両国は17世紀から金や奴隷の貿易で繁栄しました。
16~19世紀のこうした奴隷貿易によって1,000万~1,500万人が大西洋を渡ったといわれています。
※①世界遺産「アボメイの王宮群(ベナン)」
②世界遺産「アシャンティの伝統的建築物群(ガーナ)」
○奴隷貿易の拠点となった世界遺産の例
- ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア)
- モンバサのジーザス要塞(ケニア)
- モザンビーク島(モザンビーク)
- ル・モーンの文化的景観(モーリシャス)
- クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア)
- ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ)
- ゴレ島(セネガル)
- サン・ルイ島(セネガル)
- アシャンティの伝統的建築物群(ガーナ)
- アボメイの王宮群(ベナン)
[関連サイト]
■アフリカ内部探検
19世紀に入るとそんな未知の大陸に足を踏み入れる探検家が現れはじめます。
19世紀前半にマンゴー・バークが西アフリカのニジェール川を探検してトンブクトゥ①に到達し、19世紀半ばにはリチャード・バートンがナイル川の源流を探索中にタンガニーカ湖やヴィクトリア湖をヨーロッパ人としてはじめて発見しました。
19世紀後半にはイギリスの伝道師デイヴィッド・リヴィングストンがやはりナイル川の源流を求めて探検中にヴィクトリアの滝②やマラウイ湖③を発見し、アフリカ東部~南部の多くを明らかにしました。
アメリカの新聞社の特派員ヘンリー・モートン・スタンリーは中央アフリカを流れるコンゴ川を下り、1878年からベルギー王レオポルド2世の依頼を受けて再びコンゴ川流域を探検しました。
ベルギーはこれを機にコンゴの植民地化を図りますが、議会が反対したことからレオポルド2世の私有地として管理しました。
※①世界遺産「トンブクトゥ(マリ)」
②世界遺産「モシ・オ・トゥニャ/ヴィクトリアの滝(ザンビア/ジンバブエ共通)」
③世界遺産「マラウイ湖国立公園(マラウイ)」
[関連サイト]
■先占権とベルギー領コンゴ
ベルギーのこうした動きに対し、イギリスやフランスといった先行国が反発。
この頃すでに産業革命が進んで奴隷貿易は廃止されており、アフリカは象牙や奴隷の供給地としてではなく、農場や牧畜・鉱工業の開発地、そして新たな市場と捉えられており、帝国主義的な植民地としての開発が期待されていました。
こうした利害を調節するためにドイツのビスマルクが調停して1884~85年にベルリン会議を開催。
最初に占領した国が領有権を持つという先占権や、占領はヨーロッパ人の安全や商業活動を保証する実効支配を条件とすることなどが確認されました。
この会議でコンゴをレオポルト2世の私有領として認め、コンゴ自由国が成立します。
レオポルド2世はコンゴ自由国でゴムの栽培や象牙の採取を強制し、重い人頭税と過酷な労働を強いて、逆らう者の手足を容赦なく切断するなど圧政を展開しました。
一説では当時の人口の半分、1,000万人以上が犠牲になったといわれます。
その残虐非道な行いが国際社会の非難を浴びると、レオポルド2世は1908年にコンゴ自由国をベルギーの植民地であるベルギー領コンゴに改め、行政府や教会堂を築き、資本を投入して農業や工業を促して植民地経営を行いました。
■イギリス・3C政策
先占権が認められてから欧米列強はアフリカに殺到し、植民地化を急ぎます。
イギリスはこの頃、エジプトのカイロ①とケープ植民地のケープタウン②を結ぶアフリカ縦断鉄道の建設を目指しており、この2都市とインドのカルカッタ(現在のコルカタ)を結ぶ3C政策を推進していました。
19世紀はじめ、アフリカ南部はオランダ人入植者の子孫にあたるブール人(ボーア人)が支配していました。
しかし、ケープ植民地がイギリス領になったことでブール人はイギリス人の手の届かない新たな土地を求めて奴隷とともに北上を開始します(グレート・トレック)。
ブール人は黒人奴隷を利用してプランテーションを経営していたので、1833年にイギリスが奴隷制を廃止したことも影響していたようです。
ブール人はコイコイ人、ズールー人らとの戦いを経て、1839年にナタール共和国を建国。
イギリスは1842年にナタール共和国を攻撃して併合しますが、難を逃れたブール人は1852年にトランスヴァール共和国、1854年にオレンジ自由国を建国します。
※①世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
②世界遺産「ケープ植物区保護地域群(南アフリカ)」
■南アフリカ連邦
ケープ植民地は3C政策に基づくアフリカ縦断政策を推進し、現在のザンビアとジンバブエにあたる土地を攻略してローデシアと名づけ、イギリスの植民地とします。
さらに1899年にトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を攻撃して南アフリカ戦争(ブール戦争)が勃発。
植民地政府が勝利して両国は消滅し、イギリスの植民地に編入されました。
1910年にはケープ植民地、ナタール、トランスヴァール、オレンジの4州からなる南アフリカ連邦が成立し、自治国となっています。
南アフリカ連邦にはブール人が多く残っており、長らく黒人奴隷を使っていたこともあって黒人に強い差別感情を抱いていました。
これがアパルトヘイトと呼ばれる人種隔離政策を生み出し、1912年には差別に対抗するためにANC(アフリカ民族会議)が設立されています。
イギリスが奴隷を廃止して労働力不足にみまわれると、クーリー(苦力)と呼ばれるアジア人、特にインド人労働者を投入してカバーしました。
使用者はクーリーと労働契約を結んだため「契約移民労働」と呼ばれましたが、労働は非常に過酷でした。
クーリーの移民施設の一例がモーリシャスのアプラヴァシ・ガート※です。
※世界遺産「アプラヴァシ・ガート(モーリシャス)」
■フランス・アフリカ横断政策
南北からアフリカ縦断を完成させようとするイギリスに対して、フランスもアフリカ進出を急いでいました。
フランスは1830年、国内で支持回復を狙ってシャルル10世がアルジェリアに出兵してこれを占領。
アルジェリアを拠点にフランスの植民地は拡大を続け、チュニジア、アルジェリアをフランス領北アフリカとし、サハラ砂漠とその周辺を押さえてフランス領西アフリカ、中央アフリカ周辺をフランス領赤道アフリカとします。
アフリカ東部については1888年に紅海の入口にジブチ港を造ってフランス領ソマリランドを建設。
さらに1890年にはマダガスカルのメリナ王国を保護国化しました。
フランスは西アフリカ-ジブチ-マダガスカルをつなぐアフリカ横断政策を計画し、西アフリカから東進してスーダンに侵入。
1898年、スーダンでイギリスのアフリカ縦断政策と衝突します。
フランスはファショダを押さえますが、イギリス軍のキッチナーがフランス軍を包囲(ファショダ事件)。
結局、フランスが撤退し、キッチナーは翌年マフディー軍を破ってスーダンを植民地化しました。
イギリスとフランスはエジプトやスーダンのほか、モロッコでも争いました。
モロッコでは1660年にアラウィー朝が成立していましたが列強の標的となり、19世紀に入るとフランスが軍を送り、イギリスと不平等条約を結び、スペインとスペイン=モロッコ戦争を戦い、ドイツもその領土を狙っていました。
こうした中、1904年の英仏協商でイギリスとフランスの妥協が成立し、イギリスはエジプト、フランスはモロッコの支配権を確立しました。
■ドイツ・3B政策
ドイツは1871年に帝国が誕生したばかりで国内統一に忙しく、植民地獲得競争に出遅れていました。
1884~85年のベルリン会議以後、ビスマルクはトーゴ、カメルーンに進出。
東アフリカではイギリスやフランスと協調して分割を行いました。
この頃、東アフリカではアラブ人政権のザンジバル・スルタン国が支配域を広げていました。
そのうちのタンガニーカ(現在のタンザニア)をドイツが獲得してドイツ領東アフリカ、ケニアにあたる部分をイギリス領東アフリカとし、ザンジバル島①はイギリスの保護領となりました。
1888年、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はビスマルクを解任すると、世界政策と称して植民地拡大政策を推進。
1890年にはロシアと締結していた再保障条約の更新を拒否し、イギリスやフランスとの対決も辞さない覚悟で海外進出を強化します。
ヴィルヘルム2世が目指していたのはベルリン②③、ビザンティウム(イスタンブール)④、バグダード⑤を結ぶ鉄道路線の敷設、すなわち3B政策で、これによりイギリスの3C政策やロシアの南下政策と対立しました。
1904年に英仏協商でフランスがモロッコの支配権を獲得するとドイツは強く反発。
1905年にモロッコのタンジールに上陸し(第1次モロッコ事件/タンジール事件)、1911年にはアガディールに軍艦を派遣します(第2次モロッコ事件/アガディール事件)。
結局ドイツはフランスの支配権を認める代わりとしてコンゴの一部を獲得しました。
フランスはアラウィー朝のスルタンと1912年にフェズ⑥でフェズ条約を結び、モロッコの保護国化が完了。
このあと計画都市ラバト⑦を建設して遷都しています。
※①世界遺産「ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア)」
②世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
③世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ)」
④世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
⑤イラクの世界遺産暫定リスト記載
⑥世界遺産「フェズのメディナ(モロッコ)」
⑦世界遺産「ラバト:近代都市と歴史都市が共存する首都(モロッコ)」
[関連サイト]
<太平洋分割>
太平洋分割の様子。Tonga=トンガ、Hawaii=ハワイ、Maui=マウイ、Kauai=カウアイ、Samoa=サモア、Spain=スペイン、Bora Bora=ボラボラ、U.K.=イギリス、France=フランス、U.S.A.=アメリカ、Netherlands=オランダ、Japan=日本、Germany=ドイツ、Australia=オーストラリア、New Zealand=ニュージーランド
■オーストラリア連邦
1606年、オランダ人ウィレム・ジャンツはヨーロッパ人としてはじめてオーストラリア大陸に到達しました。
1770年にイギリスのジェームズ・クックがシドニーのボタニー湾に上陸し、イギリスの領有を宣言してニュー・サウス・ウェールズと命名しました。
1776年にアメリカが独立したこともあり、それに代わるイギリスの植民地として1788年から入植がはじまります。
当初は流刑植民地として囚人施設①を建てて犯罪者を送り込み、やがて農地が開発されて自由移民も増加し、1828年に大陸全体が植民地になると海岸部を中心に開拓が進みました。
開拓と同時に先住民アボリジニの土地は収奪され、白人の持ち込んだ病気や弾圧によって人口は激減し、特にタスマニア②のアボリジニは絶滅しました。
オーストラリアでは50万~100万人いたアボリジニが10万以下にまで減少したといいます。
19世紀半ばに金鉱が発見されるとゴールドラッシュで沸き、多くの移民が移住。
特に発展したのがメルボルンで、19世紀後半にはイギリス領でロンドンに次ぐ大都市となり、1880年に万国博覧会を開催して「太陽の沈まぬ帝国」と呼ばれた第2帝国の繁栄を見せつけました。
ロイヤル・エキシビジョン・ビル③は万国博覧会のメインホールとして建てられた建物です。
1901年にはオーストラリア連邦が成立。
イギリスの連邦自治領として内政の完全自治が認められましたが、外交権についてはイギリスが継続して保有しました。
※①世界遺産「オーストラリア囚人遺跡群(オーストラリア)」
②世界遺産「タスマニア原生地域(オーストラリア)」
③世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園(オーストラリア)」
[関連サイト]
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次回は第1次世界大戦を紹介します。