世界遺産と世界史43.ウィーン体制
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<ウィーン体制>
■ウィーン会議
1814年、ナポレオン1世によって塗り替えられたヨーロッパの地図や秩序を整理するために、オスマン帝国以外のヨーロッパ各国の代表がオーストリアのウィーン①②に集まって会議を行いました。
各国の利害は一致せず、それにもかかわらず夜は華やかな舞踏会が開催されて時間を浪費したことから「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られました。
しかし、ナポレオン1世のエルバ島脱出に脅威を覚えた各国は妥協案をまとめ、1815年にウィーン議定書の調印に至ります。
そもそもこの混乱の原因はフランス革命にあります。
フランスはその点で責任を追及されて賠償金や領土の割譲を迫られましたが、フランス外相タレーランは正統主義を提唱。
もともとの王政や領土を正統として市民革命を否定するもので、これがウィーン会議の理念として受容されました。
といっても完全に元に戻されたわけではなく、ロシアやオーストリア、プロイセンといった大国主導で進み、大国間では勢力均衡が図られました。
※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
②世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
○ウィーン会議の主な決定事項
- フランス:ブルボン朝が復活し、ルイ16世の弟であるルイ18世が王位に就きました
- スペイン:フランス同様ブルボン朝が復活し、フェルナンド7世が復帰しました
- ドイツ連邦:神聖ローマ帝国は復活せず、ライン同盟を解消する代わりに、35の君主国と4つの帝国自由都市からなるドイツ連邦が誕生し、プロイセンやオーストリアを含んだ連合王国の形で成立しました
- オーストリア:ドイツ連邦の盟主となり、イタリア北部のロンバルディアやヴェネツィア共和国領を獲得し、ロンバルド=ヴェネト王国を建ててオーストリア皇帝が王位に就きました
- ポーランド立憲王国:ナポレオン1世が築いたワルシャワ大公国はポーランド立憲王国となり、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねました(第4次ポーランド分割)
- ロシア:ポーランド立憲王国とフィンランド大公国の王を兼ね、実質的にロシア領に組み込みました
- プロイセン:ザクセン王国、ワルシャワ大公国、ラインラント、スウェーデンなどから領地を獲得して東西に版図を広げました
- イギリス:フランスからマルタ島、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得しました
- オランダ:ネーデルラント連邦共和国は南ネーデルラントを獲得し、立憲君主政を掲げてネーデルラント王国となりました
- スイス:永世中立国として承認されました
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■ウィーン体制の動揺1:プロイセン、スペイン、ポルトガル
フランス革命によって自由主義やナショナリズム(国民主義)はヨーロッパ市民の間に広まりました。
ウィーン体制はこれらを否定するものでしたが、市民の勢いは押さえきれず、さまざまな抵抗運動を引き起こしました。
1815年、ナポレオン戦争に参加した学生を中心にイェーナ大学でドイツ学生組合ブルシェンシャフトが結成されました。
自由主義とナショナリズムの名の下にドイツの改革や統一を求め、1817年にルターが一時身を寄せていたヴァルトブルク城①で行われた宗教改革300年祭に際してその動きは他大学への広がりを見せました。
スペインではフェルナンド7世の復帰でブルボン朝が再興されましたが、絶対王政に対する反発は強く、自由主義や民主主義・近代化を求めて市民運動が活発化しました。
1820年に国軍が反乱を起こして1812年憲法(ナポレオン戦争下で成立した憲法)の復活を要求。
フェルナンド7世はこれを認めますが(スペイン立憲革命)、1822年に革命軍に捕らえられて王位が廃止されてしまいます。
これに驚いたヨーロッパ諸国、特に王政の強化を図るフランスとオーストリアは介入を主張し、1823年にフランス軍が侵入。
鎮圧に成功してフェルナンド7世は復位します。
1820年、ポルトガルでも自由主義革命が起こります。
ポルトガル王室は1808年にブラジルへ退避しており、1815年にポルトガル=ブラジル連合王国が成立していました。
スペイン立憲革命の影響を受けて1820年にポルト②で自由主義革命が起こり、リスボン③などに飛び火。
国王ジョアン6世は帰還要求を受けて1821年にリスボンに戻って再遷都を行い、1822年に憲法を起草します。
摂政としてブラジルに残ったジョアン6世の息子ペドロは、ブラジルの人々に担がれて1822年にブラジル帝国(首都リオデジャネイロ④)の独立を宣言。
初代皇帝ペドロ1世として即位し、1824年には憲法を制定して立憲君主政に移行します。
1826年、ポルトガルのジョアン6世が崩御すると、王位継承で混乱が起こり、ポルトガル内戦が勃発(1828~34年)。
ペドロ1世は自由主義側(反絶対王政派)に立って内戦に加わり、1834年に勝利。
立憲政府が復活し、ペドロ1世の娘であるマリア2世が女王として王位に就きました。
※①世界遺産「ヴァルトブルク城(ドイツ)」
②世界遺産「ポルト歴史地区、ルイス1世橋及びセラ・ド・ピラール修道院(ポルトガル)」
③世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル)」
④世界遺産「リオデジャネイロ:山と海の間のカリオカの景観(ブラジル)」
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■ウィーン体制の動揺2:イタリア、ギリシア
1820年、イタリアでも秘密結社カルボナリ(炭焼党)による反政府運動が起きていました。
イタリア北部ではロンバルド=ヴェネト王国が成立し、オーストリア皇帝フランツ1世がフランチェスコ1世として王位に就きました。
これに対し、自由と国民国家の樹立を目指して結成されたのがカルボナリです。
スペイン立憲革命の影響を受けてナポリ①で蜂起し、ピエモンテ②などに波及しますが、オーストリア軍に鎮圧されています。
ギリシアでもフランス革命の影響を受けて独立運動が活発化していました(ギリシア独立戦争)。
ギリシアはイスラム教を奉じるオスマン帝国下にあっても信教の自由を認められて「オスマンの平和(パックス・オトマニカ)」を享受していました。
しかし、ギリシアに対するトルコ人の土地収奪が進み、西ヨーロッパが近代化するとオスマン帝国に対する不満が広がります。
1814年に秘密結社フィリキ・エテリア(友愛会)が結成されると武装蜂起が起こり、1821年に独立戦争を開始。
1822年にはアテネのアクロポリス③を占領し、独立を宣言して憲法を制定します。
オスマン皇帝マフムト2世はエジプト総督ムハンマド・アリーの支援を受けると攻勢に転じ、1826年にアテネ奪還に成功。
ヨーロッパ諸国は当初オスマン帝国の正統を支持してギリシア独立を否定していましたが、キリスト教徒がイスラム教徒に虐殺される事態を受けて親ギリシアの空気が醸成されていきます。
ロシアはオスマン帝国が正教会の頂点であるコンスタンティノープル総主教グリゴリオス5世を処刑して以来、国交を断絶しており、オスマン帝国と対立を深めていました。
イギリス外相カニングもギリシアを支持し、フランスもギリシア支援に転じます。
1827年、英・仏・露の連合艦隊は帆船時代最後の大海戦と呼ばれたナヴァリノの海戦でオスマン帝国とエジプトの連合艦隊を撃破。
これを機にギリシア軍はペロポネソス半島を占領し、アテネをはじめとする諸都市を奪還しました。
1829年にオスマン帝国とロシアはアドリアノープル条約を締結し、ロシアは黒海北岸を獲得。
ギリシアの独立は1830年のロンドン会議で承認され、1832年のコンスタンティノープル条約で正式に認められました。
※①世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
②世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア)」
③世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
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<ラテン・アメリカ諸国の独立>
■ハイチ独立
アメリカの独立とフランス革命によって自由主義とナショナリズムはヨーロッパだけでなく、ラテン・アメリカ諸国にも広がっていきました。
独立運動の先駆けとなったのがハイチです。
ハイチのあるイスパニョーラ島は1492年にコロンブスが上陸した島で、スペインによる支配で先住民はほぼ絶滅していました。
その後、西部がフランス領となり、黒人奴隷を使ってコーヒーやトウモロコシ、サトウキビのプランテーション経営が行われていました。
やがて黒人の間で自由を求める声が高まり、1791年に暴動が勃発。
1794年にフランスで国民公会が奴隷制の廃止を宣言すると勢いづいて独立運動に発展しますが、ナポレオン1世がフランス軍を投入して鎮圧します。
しかし運動は押さえきれず、ジャン=ジャック・デサリーヌらの指導の下で1804年に中南米で初となる独立国家にして、黒人が主体となるはじめての共和国=ハイチ共和国が誕生します。
1806年、将軍アンリ・クリストフがクーデターを起こして政権を奪取し、イスパニョーラ島の北部を制圧。
アンリは王位に就くと(ハイチ王国の成立)、強力なシタデル(城塞)①を築き、ヴェルサイユ宮殿②を模してサン・スーシ宮①を建設してその力を見せつけました。
イスパニョーラ島東部は1819年に独立を宣言してドミニカ共和国となりましたが、1822年にハイチが併合。
改めて1844年に独立しています。
※①世界遺産「国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエ(ハイチ)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
■中央アメリカの独立運動
中央アメリカとカリブ海の版図の推移。Mayan Kingdoms=マヤ文明、Toltec civ.=トルテカ文明、Spanish emp.=スペイン、Dutch emp.=オランダ、British emp=イギリス、French emp.=フランス
1808年にフランス軍がスペインに侵攻し、ナポレオン1世の兄であるジョゼフ・ボナパルトがスペイン王に即位すると、フランスに対する大規模な反乱が勃発します(スペイン独立戦争/半島戦争)。
スペイン本国のこの混乱に乗じて1810年代に南米各地で独立運動が加速します。
この頃、中央アメリカの多くはスペインの領土でヌエバ・エスパーニャ副王領となっていました。
1810年9月16日、メキシコ・グアナファト州のドローレスでクリオーリョ(現地生まれの白人)のミゲル・イダルゴが演説を行い、スペイン支配の苦痛を叫んで独立を呼びかけます(ドローレスの叫び)。
これを機にクリオーリョやメスティーソ(白人と先住民の混血)に先住民が加わってメキシコ独立革命が勃発。
しかし、イダルゴはヌエバ・エスパーニャ副王軍に敗れて処刑されてしまいます。
1820年にスペイン本国で立憲革命が起こると、副王側についていたイトゥルビデが本国を裏切り、翌1821年にメキシコ帝国の独立を宣言。
アグスティン1世として皇帝位に就くと、副王領をベースにアメリカのテキサス、カリフォルニア、ニューメキシコからコスタリカにいたる大帝国が誕生します(メキシコ第1帝政)。
アグスティン1世は皇帝を頂点とする立憲君主政を敷きますが、皇帝は強権性を強めてすぐに議会と対立。
1823年に追放されるとイタリアに亡命し、翌年帰国した後、処刑されました。
ヨーロッパ諸国はメキシコ出兵を企図しますが、アメリカはそれに反発して1823年にモンロー教書を発表(モンロー宣言)。
アメリカがヨーロッパとその植民地に干渉しない代わりに、ヨーロッパ諸国に南北アメリカ大陸への不干渉を求め、これにイギリスが同調しました。
1823年にはグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、ロスアルトスが中央アメリカ連邦として独立。
しかし1838年にホンジュラスが離脱すると、これを機に連邦構成国が次々と独立していきます(ロスアルトスは1840年にグアテマラが併合)。
メキシコでは1824年に憲法を制定して連邦共和政に移行してメキシコ合衆国が成立しますが、1835年に憲法を廃止してメキシコ共和国に移行。
1836年にテキサス共和国が独立してアメリカへの加盟を決定すると、メキシコはアメリカ=メキシコ戦争(1846~48年。米墨戦争)を戦いますが、これに敗れてテキサス、カリフォルニア、ニューメキシコを失います。
■南アメリカの独立運動
南アメリカの版図の推移。Chimor=チムー王国、Inca Empire=インカ帝国、Netherlands=オランダ、Iberian Union=スペイン=ポルトガル同君連合、Viceroyalty of Peru=ペルー副王領、Viceroyalty of New Grenada=ヌエバ・グラナダ副王領、Viceroyalty of Rio de la Plata=リオ・デ・ラ・プラタ副王領、U.P. of R. de la P.=リオ・デ・リオ・デ・ラ・プラタ連合州、Gran Colmbia=大コロンビア
南アメリカのスペイン領の多くはペルー副王領となっていましたが、18世紀後半には北のヌエバ・グラナダ副王領、中央のペルー副王領、南のリオ・デ・ラ・プラタ副王領に分割されています。
1811年、クリオーリョのシモン・ボリバルはカラカスでベネズエラの独立を宣言します。
翌年スペイン軍に鎮圧されますが、ボリバルは一旦ジャマイカに逃れて兵力を整えると、再び南アメリカに上陸して運動を指揮。
カルタヘナ①でスペインに対する徹底抗戦を宣言し(カルタヘナ宣言)、抵抗運動を継続します。
そして1819年にボヤカの戦いに勝利すると、大コロンビア共和国の独立を宣言して初代大統領に就任します。
1810年、リオ・デ・ラ・プラタ副王領(現在のアルゼンチン)でも独立運動が起こります。
最初に独立したのがパラグアイで、1811年にいち早く独立を宣言し、独裁制を敷いた後、鎖国に入ります。
他の州も半ば独立して連合を組み、副王領はリオ・デ・ラ・プラタ連合州に再編されました。
この頃、スペイン本土で独立運動の報を聞いていたのがサン・マルティンです。
サン・マルティンはリオ・デ・ラ・プラタ副王領の生まれでスペイン軍の指揮官として働いていましたが、1812年に帰国して連合州の独立運動に参加。
そして1816年にリオ・デ・ラ・プラタ連合州はアルゼンチンとして独立を宣言します。
しかし、スペインの拠点であるペルー副王領の勢いは強く、これを排除してペルーを独立させない限り真の独立はないと思われました。
そこでサン・マルティンはチリとアルト・ペルー(現在のボリビア)を先に独立させ、その後ペルーを攻略する計画を構想。
1818年にサンチャゴを落としてチリの独立を宣言し、イギリスの協力を得てペルーを攻撃すると、1821年にリマ②に入城して独立を宣言します。
しかし、サン・マルティンのペルー統一はうまく進まず、その北で大コロンビアを打ち立てたシモン・ボリバルに協力を要請します。
ところがふたりの会見は決裂し、サン・マルティンが戦いから手を引く一方で、ボリバルがペルーに進出してペルー副王軍と戦い、1824年のアヤクチョの戦いに勝利して独立を成し遂げました。
その勢いのままボリバルはスクレ将軍を派遣してアルト・ペルーを攻略し、1825年にボリビアが独立します。
ウルグアイはブラジルとリオ・デ・ラ・プラタ副王領の間にあり、ポルトガルとスペインの利権が対立していました。
アルゼンチンで独立の機運が高まるとウルグアイも独立を目指しますが、1821年にブラジルが併合。
スペイン、ポルトガルも入り乱れての戦いになりますが、1828年にイギリスの仲裁で分離し、1830年に憲法を制定して共和国として独立します。
その1830年には大コロンビアが分裂してコロンビア、ベネズエラ、エクアドルが独立。
こうして1830年までに南アメリカの多くの国々が独立を果たしました。
※①世界遺産「カルタヘナの港、要塞群と建造物群(コロンビア)」
②世界遺産「リマ歴史地区(ペルー)」
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<七月革命と二月革命>
■七月革命と七月王政
フランスではルイ18世が王位に就いてブルボン朝が復活しましたが(復古王政)、同時に憲法が制定されて立憲君主政が成立しました。
憲法は基本的人権や法の下の平等、所有権の不可侵などをうたっていましたが、選挙権は貴族や地主に限られ、きわめて制限されたものでした。
1824年にルイ18世が亡くなると、弟のシャルル10世が即位します。
シャルル10世とそれを取り巻く貴族や聖職者らは極端に反動的な政策を取り、絶対王政の復活を画策します。
議会を解散したり、言論統制を行い、これらの批判をかわすために1830年にはオスマン帝国が支配するアルジェリアへの出兵を行いました。
アルジェリアではこれ以降1962年の独立までフランスの植民地支配が続きます。
1830年7月、パリ※で新聞の発行が停止されると不満が爆発して暴動が勃発(七月革命)。
「栄光の3日間」と呼ばれる戦闘の後、シャルル10世は退位し、ブルボン家の分家であるオルレアン家から自由主義者で知られるルイ・フィリップ1世が迎えられて即位します(七月王政)。
これにより選挙権は拡大しましたが、市民の一部に限られていることに変わりなく、なお不満はくすぶびました。
※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
■ベルギーの独立
フランス七月革命の影響はヨーロッパ各地に現れました。
1815年のウィーン会議でネーデルラント連邦共和国の支配下に入っていた南ネーデルラントで独立運動が一気に加速。
オランダの実質的君主でオラニエ公のウィレム1世はブリュッセル①に軍を派遣しますが、革命派はこれを退けて臨時政府を樹立し、独立を宣言します。
ベルギーの独立は1831年のロンドン会議で承認されましたが、独立の代わりに王政を採ることを要求されたため、ザクセン公レオポルドがレオポルド1世として王位に就いて立憲君主政を敷きました。
また、オランダは1839年にベルギーと和平条約(ロンドン条約)を結び、独立を認める代わりにフランスなどのカトリック諸国と結ぶことがないよう永世中立を宣言することを求めました。
こうしてベルギーは永世中立国となり、中世以来の毛織物産業や金融産業、豊富な炭鉱を活用してイギリスに続く産業革命を成し遂げました。
※①世界遺産「ブリュッセルのグラン=プラス(ベルギー)」
②世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド)」
[関連サイト]
■二月革命と第2共和政
七月革命以降の運動は、ベルギーを除いてほとんど鎮圧されました。
フランスでは産業革命が本格化して資本家がさらに躍進しますが、富裕層を除く中小資本家や労働者の不満は募りました。
ギゾー内閣は高まる選挙法改正要求に対して集会や宴会を禁止して取り締まりを行いました。
1840年代後半に凶作と不況が続くと国民生活が悪化。
1848年2月、パリで違法行為にもかかわらず改革のための宴会が開催され、これに多くの市民が参加します。
市民たちがテュイルリー宮殿を襲撃すると、国王ルイ・フィリップ1世はイギリスに亡命し、そのまま退位しました(二月革命)。
臨時政府が樹立されると王政から共和政への移行を確認し、国王位が廃位されます(第2共和政)。
そして男子普通選挙や言論の自由、奴隷制廃止などを確認し、4月には男子普通選挙が行われました。
■ナポレオン3世の第2帝政
1848年11月に制定された第2共和政憲法はフランス革命と同様「自由・平等・博愛」や三権分立を規定し、男子普通選挙や人民主権・一院制・大統領制などを掲げていました。
そして12月に実施された大統領選挙ではナポレオン1世の甥にあたるルイ・ナポレオンが当選します。
ルイ・ナポレオンは国民の支持を得てはいましたが、議会には反対派も多く、政策が思うように進みません。
それどころか議会は普通選挙を後退させて制限を加えてしまいます。
大統領の再任が禁じられていたこともあり(任期4年)、こうした問題を一気に解決するためにクーデターを決意します。
1851年12月2日、軍に命じて議会を包囲させると、議会を解散(1851年12月2日のクーデター)。
12月21日に国民投票を行い、圧倒的な支持を得てクーデターを合法化します。
1852年1月には新憲法を制定して大統領任期を10年に延長したうえ、議会にかけなくても国民投票で可決を可能にするなど各種権限を強化。
同年12月に国民投票を行い、やはり圧倒的な賛成を得てナポレオン3世として皇帝位に就きました(第2帝政)。
■一八四八年革命
フランス二月革命により、ヨーロッパ各地の自由主義運動とナショナリズム運動が刺激され、「一八四八年革命」と呼ばれる連鎖的革命を引き起こします。
まずは1848年3月に起こったウィーン三月革命で、オーストリアの帝都ウィーン①②で民衆が蜂起します。
オーストリア宰相メッテルニヒはウィーン体制の象徴ですが、この革命によりウィーンを追われてイギリスに亡命しました。
独立運動はハプスブルク家の治めるボヘミア(ベーメン。チェコ西部)、ハンガリー、ポーランド、ヴェネツィア、ロンバルディアなどに波及。
自由主義やナショナリズムは各地に広がり、こうした動きは「諸国民の春」と呼ばれました。
これらの運動はオーストリアやロシアの軍に鎮圧されましたが、その後の各国の独立に大きな影響を与えます。
同じく3月にプロイセンの首都ベルリン③④でも自由主義とドイツ統一、国民国家創設を求めて革命運動が起きます。
国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は憲法と議会の制定、連邦国家の編成を約束し、5月にはフランクフルト国民議会が発足します。
しかし共和政と君主政、大ドイツ主義(オーストリア領のドイツを含むオーストリア主体の統一)と小ドイツ主義(オーストリア領を排除したプロイセン主体の統一)の対立が解消できず、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ皇帝就任を拒否したため、1849年に解散。
最終的に革命はプロイセン軍によって制圧されました。
結局、七月革命・二月革命で広がった自由主義とナショナリズムの運動はほぼ鎮圧されました。
しかし、メッテルニヒの失脚に象徴されるようにウィーン体制は崩壊し、ヨーロッパ西部では自由主義と民主主義の運動が広がり、ヨーロッパ東部では民族自立・独立の運動が進んでいきます。
※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
②世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
③世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
④世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ)」
[関連サイト]
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次回はロシアの近代化と、イタリア・ドイツの独立を紹介します。