世界遺産と世界史31.ハプスブルク帝国
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<ハプスブルク家の台頭>
ハプスブルク家(オーストリア・ハプスブルク家)の版図の推移
■選帝侯の時代
ドイツからイタリア北部にかけてを支配する神聖ローマ帝国ですが、もともと諸侯や司教の力が強い土地。
カノッサの屈辱の際に諸侯らは皇帝位の廃位さえ要求しており、独立国のように動いていました。
1256~1273年には事実上、皇帝不在の大空位時代を迎えました。
この間、イングランドやフランスの王家が皇帝位を狙ったため、6人の選帝侯(ドイツ王選出権を持つ諸侯。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となりました)は1273年にスイスの小領主だったハプスブルク家のルドルフ1世を神聖ローマ皇帝に選出します。
ルドルフ1世はボヘミア(現在のチェコ西部)と戦い、オーストリア公国を奪って本拠地をウィーン①に遷し、グラーツ②などとともに都市を整備しました。
1355年にはボヘミア王カレル1世がカール4世として神聖ローマ皇帝に即位。
今度はプラハ③が帝国の首都となり、「黄金のプラハ」と讃えられる美しい街並みが誕生しました。
1410年にはハンガリー王ジギスムントが皇帝に就任。
ローマ④とアヴィニョン⑤に分かれていた教皇庁の分裂=大シスマを終わらせるために1414年にコンスタンツ公会議を招集すると、マルティヌス5世を教皇に即位させて大シスマにピリオドを打ちました。
この会議でフスの異端が決まって処刑されると、プラハを中心とするボヘミアの地でフス派が反乱を起こします(フス戦争)。
フス派の内紛でなんとか鎮圧に成功しますが、ボヘミアは荒廃しました。
※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
②世界遺産「グラーツ市歴史地区とエッゲンベルグ城(オーストリア)」
③世界遺産「プラハ歴史地区(チェコ)」
④世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
⑤世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
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■結婚政策
ジギスムント没後、ハプスブルク家のアルブレヒト2世が神聖ローマ皇帝位に就くと、オーストリア公と同時にボヘミア王とハンガリー王を継承。
その子であるフリードリヒ3世の時代以降、皇帝位はハプスブルク家が独占し、世襲を開始します。
この頃、問題になっていたのがブルゴーニュ公国です。
百年戦争を経てブルゴーニュ公はフランドル伯を兼ねるようになり、フランスと神聖ローマ帝国の間にブルゴーニュ公国という大国が誕生していました。
ブルゴーニュ公には一人娘マリーがいました。
時のフランス王ルイ11世は息子シャルルとマリーとの結婚を求め、軍を進めて脅迫しますがマリーは拒否。
マリーが選んだのは幼なじみで神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンでした。
1493年、マクシミリアンはマクシミリアン1世として皇帝位に就くと結婚政策を進め、ハプスブルク家はその所領を拡大していきます。
ハプスブルク家の結婚政策はしばしばこのような言葉で表されます。
「戦争は他家に任せよ。幸多きオーストリア、汝結婚せよ」
自らはマリーとの結婚を通じてブルゴーニュ公やフランドル伯に即位し、フランドルやネーデルラント(オランダ)を獲得。
息子フィリップ(後のフェリペ1世)と娘マルグリットを、スペインのアラゴン王フェルナンド2世とカスティリャ女王イザベル1世の娘ファナ・息子フアンと二重に結婚させています。
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■太陽の沈まぬ帝国
フィリップとファナの息子のひとりがカルロスです。
カルロスは1516年にスペイン王(アラゴン王、カスティリャ王)カルロス1世となり、1519年にはフランス・ヴァロワ家のフランソワ1世との間で争われた皇帝選挙に勝利してカール5世として神聖ローマ皇帝に即位します。
また、イタリア戦争ではナポリ王国とシチリア王国を獲得しています。
こうしてカール5世は本拠地のオーストリア大公、ドイツ王、神聖ローマ皇帝はもちろん、ブルゴーニュ公、ブラバント公、フランドル伯、ルクセンブルク公、ネーデルラント君主、ミラノ公、カスティリャ王、ナバラ王、アラゴン王、ナポリ王、シチリア王などに就き、ヨーロッパに覇を唱えました。
これらに加えて新世界(ヨーロッパ人が大航海時代に発見した南北アメリカ大陸をはじめとする新たな土地)での発見が相次いで報告されました。
カール5世はひとりでこれらを治めるのは困難と考えて、オーストリア周辺をオーストリア・ハプスブルク家、イベリア半島と新大陸をスペイン・ハプスブルク家に分割して継承させます。
この結果、カール5世の弟フェルディナント1世が神聖ローマ皇帝に就任したほか、ハンガリー王・ボヘミア王を継承(ハンガリー王とボヘミア王を兼ねていたラヨシュ2世死去に伴い、嗣子がいなかったことからフェルディナント1世が継承しました)。
カール5世の長男であるフェリペ2世がスペイン王に就き、やがてポルトガル王にも就いています。
神聖ローマ帝国の皇帝位は両家が交互に継承することになっていましたが、以後オーストリア・ハプスブルク家が継いでいきます。
こうしてハプスブルク家はヨーロッパの多くと中央・南アメリカの大半、アフリカの一部、アジアのフィリピンを領有し、特にスペイン・ハプスブルク家を中心にハプスブルク家の領地のいずれかには日が照っているという「太陽の沈まぬ帝国」を完成させます。
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<レコンキスタ>
レコンキスタに関するイベリア半島の勢力の推移。Visigothic Kingdom=西ゴート王国、Umayyad Caliphate=ウマイヤ朝、Emirate of Córdoba=後ウマイヤ朝、Asturias=アストゥリアス王国、Francia=フランス王国、Navarre=ナバラ王国、Spanish March=スペイン辺境伯領、Castile=カスティリャ王国、Galicia=ガリシア王国、Leon=レオン王国、Aragon=アラゴン王国、Barcelona=バルセロナ伯領・カタルーニャ君主国、Portugal=ポルトガル王国、Almoravid Dynasty=ムラービト朝、Almohad Caliphate=ムワッヒド朝、Granada=ナスル朝
■イスラム教勢力からの国土奪回
8世紀はじめにイスラム王朝であるウマイヤ朝(アラブ帝国)がイベリア半島に侵入し、711年にゲルマン人国家・西ゴート王国(首都トレド①)を滅ぼします。
750年にアッバース朝が興ってウマイヤ朝が滅亡すると、ウマイヤ家の生き残りであるアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃げ込み、756年に首都をコルドバ②に置いて後ウマイヤ朝を建国します。
こうしてイスラム教勢力がイベリア半島を支配していましたが、その直後からキリスト教勢力による国土回復運動=レコンキスタが開始されました。
その発端が西ゴート王国の貴族ペラーヨが反乱を起こして建国したアストゥリアス王国(首都カンガス・デ・オニス、後にオビエド③)です。
814年頃、国王アルフォンソ2世の時代にイエスの十二使徒のひとりであるヤコブ(スペイン語で聖ヤコブ=サンティアゴ)の遺体が発見されます。
その場所に聖堂(後のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂④)が建設され、オビエドやブルゴス⑤、レオン⑥をはじめ巡礼地⑥⑦が整えられるとヨーロッパ最大級の聖地となり、ヤコブ信仰やサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼はキリスト教勢力を結集させる象徴となりました。
アストゥリアス王国は10世紀はじめにアストゥリアス王国、レオン王国、ガリシア王国に分裂し、アストゥリアス王国はまもなくレオン王国を吸収してカスティリャ=レオン王国(首都ブルゴス⑧)が成立。
1085年にはアルフォンソ6世がイスラム教勢力の拠点都市のひとつであるトレドを落として遷都します。
そしてレオン王位は1252年に廃位され、カスティリャ王国に一本化されました。
※①世界遺産「歴史都市トレド(スペイン)」
②世界遺産「コルドバ歴史地区(スペイン)」
③世界遺産「オビエド歴史地区とアストゥリアス王国の建造物群(スペイン)」
④世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラ[旧市街](スペイン)」
⑤世界遺産「ブルゴス大聖堂(スペイン)」
⑥世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群(スペイン)」
⑦世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(フランス)」
⑧世界遺産「ブルゴス大聖堂(スペイン)」
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■タイファ-小国乱立の時代
11世紀はじめには、イベリア半島は20に及ぶ小国に分裂して抗争を繰り返していました。
このためイベリア半島や周辺の各地にアビラ①やギマランイス②、カルカッソンヌ③といった堅固な城塞や城郭都市が築かれました。
そんな中で1139年にギマランイスやポルト④を収めるポルトゥス・カレ伯がカスティリャ王国から独立を果たします。
ポルトゥス・カレの王国=ポルトガル王国です。
イベリア半島南東部ではウマイヤ朝侵攻後の8世紀末、フランク王ルートヴィヒ1世(ルイ1世/ルイ敬虔王)がピレネー山脈南部を奪い返してスペイン辺境伯領といわれる緩衝地帯を作ります。
そこから誕生したカタルーニャ君主国はフランスの支配を脱し、1137年にアラゴン王国と連合を組んでアラゴン=カタルーニャ連合王国が成立します。
1238年にはイスラム王朝であるバレンシア王国を征服。
バルセロナ、バレンシアという2大港を手に入れて地中海に漕ぎ出し、シチリア島に進出します。
アラゴン王ペドロ3世は1282年にシチリア王となり、15世紀にはアルフォンソ5世が両シチリア王を名乗ってシチリア王とナポリ王を兼任しました。
一方、後ウマイヤ朝は1031年にムラービト朝の圧力を受けて滅亡します。
これを受けてイスラム教勢力もイベリア半島南部沿岸一帯のアンダルス(アンダルシア地方)を中心に「タイファ」と呼ばれる小国乱立の時代に入りました。
加えて北アフリカからムラービト朝やフワッヒド朝、ファーティマ朝といったイスラム王朝がたびたび侵攻を繰り返し、一枚岩になることはありませんでした。
※①世界遺産「アビラの旧市街と城壁外の教会群(スペイン)」
②世界遺産「ギマランイス歴史地区とコウルス地区(ポルトガル)」
③世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ(フランス)」
④世界遺産「ポルト歴史地区、ルイス1世橋及びセラ・ド・ピラール修道院(ポルトガル)」
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■ナスル朝
キリスト教勢力は合併・分裂を繰り返す中で、東のアラゴン王国(首都サラゴサ①)、中央~北のカスティリャ王国(首都トレド②、マドリード③、ブルゴス④)、西のポルトガル王国(首都コインブラ⑤、リスボン⑥)が勢力を強め、13世紀はじめにはイベリア半島の北2/3を占めるほどになりました。
13世紀、イベリア半島に最後に残ったイスラム王朝がグラナダに首都を置くナスル朝です。
ナスル朝は地中海とシエラネバダ山脈に守られた要害にあり、イベリア半島に残ったイスラム教徒が集結して士気は高く、さらに北アフリカのマラケシュ⑦を首都とするイスラム王朝マリーン朝の協力も得て1492年までその独立を保ちます。
イスラム教勢力は追い込まれてはいましたが、優秀な人材、特に芸術方面で秀でた人々がナスル朝に集結し、イスラム美術を開花させました。
その集大成がアルハンブラ宮殿⑧や庭園ヘネラリーフェ⑧です。
※①世界遺産「アラゴン州のムデハル様式の建築(スペイン)」
②世界遺産「歴史都市トレド(スペイン)」
③世界遺産「プラド通りとブエン・レティーロ、芸術と科学の景観(スペイン)」
④世界遺産「ブルゴス大聖堂(スペイン)」
⑤世界遺産「コインブラ大学-アルタとソフィア(ポルトガル)」
⑥世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル)」
⑦世界遺産「マラケシュのメディナ(モロッコ)」
⑧世界遺産「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区(スペイン)」
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■スペイン王国の成立
1469年、カスティリャ王の娘イザベルとアラゴン王太子フェルナンドが結婚します。
1474年にイザベルがイザベル1世としてカスティリャ女王に就き、1479年にフェルナンドがフェルナンド2世としてアラゴン王に即位。
カスティリャ王国とアラゴン王国は事実上統合してスペイン王国が誕生し、カトリック両王による共同統治がスタートします。
この時点でフェルナンド2世はアラゴン王、バルセロナ伯、バレンシア王、ナバラ王、シチリア王、ナポリ王、カスティリャ王、レオン王などを兼任しました。
イベリア半島の2大国が統合すると、満を持してナスル朝に対するレコンキスタに着手。
1492年、グラナダ王は両王にアルハンブラ宮殿※を明け渡し、レコンキスタは完結します。
イザベルとフェルナンドは中央集権を進め、コロンブスをはじめとする航海士を通じて領土拡大を推進。
それだけでなく、息子フアンを神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の娘マルグリット、娘ファナを同じくマクシミリアン1世の息子フィリップ(フェリペ1世)と二重に結婚させ、ハプスブルク家と姻戚関係を結んで王権を強化します。
やがてフィリップはフェリペ1世としてカスティリャ王に即位。
さらにフェリペ1世の息子のひとりであるカルロスはスペイン王カルロス1世となり、1519年にはカール5世として神聖ローマ皇帝位に就きます。
こうしてスペインはハプスブルク家の下で「スペイン黄金世紀」を迎えます。
※世界遺産「グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン地区(スペイン)」
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次回は大航海時代を紹介します。