世界遺産と世界史51.ファシズムと世界恐慌
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<世界恐慌>
世界恐慌の解説動画(英語)。20秒ほどから5分で解説しています。イラストだけでもなんとなく理解できると思います
■ブラック・サーズデー
第1次世界大戦後、アメリカ経済はヨーロッパ経済が低迷する中で「狂騒の20年代」「黄金の20年代」といわれる空前の好景気を謳歌していました。
ヨーロッパの戦争と復興を背景に工業生産力を拡大していましたが、やがて生産過剰に陥ります。
同様に、農業でも需要の高まりから増産を続けていましたが、ヨーロッパの復興に伴って需要は減り、供給過剰による農業価格の下落で農業不況に見舞われました。
さらにヨーロッパ各国が自国産業を保護するために高関税政策を取り、過度な賠償金や戦債支払いも国際貿易の伸び悩みをもたらしていました。
加えてソ連の成立やアジアの成長もマーケットの縮小を促しました。
こうした状況にもかかわらず、アメリカには世界中の資本が集まり、土地や株の投機に使われて株価は異常なまでに高騰を続けていました。
1929年10月24日木曜日、ウォール街のニューヨーク株式市場で株価が突然大暴落を起こし(ブラック・サーズデー)、5日後の29日火曜日まで断続的に続きました(ブラック・チューズデー)。
投資家は世界中から資金を引き揚げ、投資家の破産や企業の倒産が金融機関の倒産を引き起こし、それがまた倒産と株価の下落を招きました。
その結果、1932年までに株価は約87%下落し、失業率は3%から25%に上昇、工業生産は54%ほどに縮小しました。
アメリカは1930年にスムート・ホーレー法によって関税を引き上げて保護貿易を行うと、各国も追随したため国際貿易が縮小し、さらなる貿易不振を引き起こしました。
■ニューディール政策
1933年、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌から脱するために「新規まき直し」を意味するニューディール政策を開始します。
まず金融面ではドルの暴落による金の流出を防ぐために金本位制を停止し、紙幣と金との交換を中止。
グラス・スティーガル法で銀行の運営と通貨を政府が厳しく監視し、証券取引委員会を設置して過度な投機や過剰融資を抑制しました。
産業面では公共事業で産業振興を図ると同時に生産価格や最低賃金・労働時間などを定めて市場の安定化を図り、農業面では生産量を調整して価格の安定化を図りました。
外交面では1933年にソ連を承認し、孤立主義と中立法(交戦国への武器輸出を禁じる法律)の立場からファシズムに対しても中立を守りました。
また、強圧的な外交から善隣外交(近隣諸国と協調して行う友好的な外交)に転換しました。
一例として、アメリカの干渉権を記したキューバ憲法のプラット条項を廃止し、1934年にはフィリピンに対して10年後の独立を認めました。
■ブロック経済
イギリスではマクドナルドが挙国一致内閣を組織し、財政削減を行ってやはり金本位制を停止しました。
1932年のオタワ連邦会議ではイギリス連邦内に特恵関税を適用し、それ以外の国に対して高関税を課してスターリング・ブロック(ポンド・ブロック)を打ち立てました。
当初金本位制にこだわっていたフランスもフラン・ブロックを形成。
こうしてドル・ポンド・フランは金を用意する必要がなくなったことから通貨発行が自由になり、通貨を多数発行することで通貨安に誘導して輸出産業の振興を図ると同時に、輸入品に高い関税をかけて自国産業を保護しました。
それぞれドル・ブロック、スターリング・ブロック、フラン・ブロック内での交易に集中して不況の脱出を図りましたが、マーケットの縮小と貿易不振のため、かえって不況は長引きました。
これに対し、ヴェルサイユ条約ですべての植民地を失ったドイツや、多くの植民地を持たない日本やイタリアはいずれのブロックにも参加できず、自ら大きなブロックを作ることもできませんでした。
この結果、国内産業は疲弊し、資源の輸入にすら支障を来すに至り、領土拡大・植民地獲得路線に舵を切ることになります。
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<日本の中国進出>
■満州事変
日本は第1次世界大戦中の戦時景気で工業を飛躍させましたが、戦後、相次ぐ恐慌によって長い景気低迷期を迎えます。
主なものをざっと並べると、大戦後の戦後恐慌、1923年の関東大震災による震災恐慌、1927年の昭和恐慌、そして1929年の世界恐慌などです。
社会不安と政府への不信が広がるなか、軍部は植民地の拡大によって解決することを主張。
1931年9月18日、柳条湖(りゅうじょうこ)で南満州鉄道を爆破すると、これを国民政府の張学良の犯行であるとして関東軍が軍事行動を起こして瞬く間に満州を占領しました(満州事変)。
1932年1月、上海で日本人僧侶が中国人に殺害された事件をきっかけに海軍が出動して中国軍と交戦。
3月に中国軍を上海から撤退させると5月に停戦協定を結びました(上海事変)。
中国の国民政府は日本の侵略を国際連盟に提訴。
常任理事会で撤退勧告が可決され、調査団の派遣が決まりました。
1932年3月、関東軍は清の元皇帝・溥儀を執政(後に皇帝)に据えて満州国を建国。
日本の犬養内閣は関東軍の動きに批判的でしたが、5月の五・一五事件で犬養毅首相が海軍将校らに殺害されると政党政治は終わりを告げ、軍部主体の政体へ移行します。
日本は9月に日満議定書を結んで満州国を承認。
翌月、リットン調査団は一連の事変が関東軍の謀略である可能性を指摘した最終報告書を提出します。
これを元に1933年2月、国際連盟総会は満州国を不承認とし、日本の撤退を決議しました。
日本はこれを受けて翌月、国際連盟を脱退。
1936年に二・二六事件が起こって将校らが蔵相や内大臣らを殺害し、軍部が力を得てファシズムへ傾倒していきます。
■日中戦争
蒋介石の国民政府は国内を安定させてから外敵にあたるという安内攘外策を採っていました。
このため華北を半ば無視して日本よりも中国共産党・紅軍への対応を優先していました。
中国共産党は1934年より1年余をかけ、中国南部の瑞金から北部の延安に行軍を行い(長征)、直線距離で1,500km、全行程10,000km以上といわれる移動を徒歩にて完遂しました。
その間に人数は1/10にまで減ったといいます。
1935年8月、中国共産党は方針を転換し、反ファシズムのために内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を宣言します(八・一宣言)。
翌年、張学良が東北軍を使って蒋介石を西安で監禁し、戦線の結成を説得(西安事件)。
張学良の必死の説得のほか、共産党の周恩来らも説得に駆けつけた結果、蒋介石はこれを承諾しました。
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が戦闘を開始(盧溝橋事件)。
これを受けて両党の間で第2次国共合作が成立し、日中の全面戦争に入ります(~1945年、日中戦争)。
日本軍は上海に続いて1937年12月に首都・南京を占領。
国民政府は武漢→重慶に退くと(重慶政府)、日本軍はこれを追って武漢を攻略し、重慶爆撃を行いました。
日本は南部で香港などの主要都市を落としましたが、北部では1939年にモンゴルでソ連軍と衝突して大敗を喫すると(ノモンハン事件)、ソ連と休戦協定を結んで北進を断念しました。
1940年、日本は汪兆銘(おうちょうめい)を立てて南京国民政府を成立させて中国の分断を図りますが、支持を得ることはできませんでした。
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<ナチス=ドイツの台頭>
■ヒトラーの政権奪取
第1次世界大戦後のドイツは莫大な賠償金やフランスの圧力に苦しんでいました。
1923年のフランスとベルギーによるルール占領やハイパー・インフレに対してワイマール共和国打倒の声が上がりました。
ミュンヘン一揆を主導したナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)は活動を禁止されていましたが、インフレ抑制に成功して安定を取り戻した政府が1924年に恩赦を与えると、ヒトラーとナチ党は活動を再開します。
1929年に世界恐慌がはじまると、ただでさえ賠償金の支払いに苦しむドイツは実質的に財政破綻に追い込まれ、町は失業者であふれかえりました。
ナチ党はイタリアのファシズムに学び、この危機に対してヴェルサイユ体制の打破、民族主義とユダヤ人をはじめとする他民族の排斥、共産主義の排除などを掲げ、大衆宣伝によってナショナリズムを煽って大きな支持を集めました。
1932年の総選挙でナチ党が第1党に躍り出ると、翌年1月、大統領ヒンデンブルクは党首ヒトラーを首相に任命してヒトラー内閣が誕生します。
そしてヒトラーは「国民の信を問う」として国会を解散。
同年2月、国会議事堂の放火(国会議事堂放火事件)をドイツ共産党の犯行と断定すると、ワイマール憲法に定められた緊急命令権を利用して大統領緊急令を発令し、憲法を停止してドイツ共産党を解散させました。
3月には内閣に立法権を与える全権委任法を成立させて議会を止めると、社会党や共産党の活動を禁止して政党活動も停止させます。
これにより一党独裁が実現し、憲法は効力を失ってワイマール共和国は事実上崩壊しました。
■ナチズム
1934年にヒンデンブルク大統領が死亡すると、ヒトラーは首相と大統領を兼ねる総統の地位に就き、ヒトラー総統による総統国家が成立します。
これにより選挙で選ばれる大統領もいなくなり、軍の指揮権をも掌握して軍に忠誠を誓わせました。
一連の決定に対してドイツ国民の承認を得るため同年8月に国民投票を実施。
投票率は95%を超え、賛成票約90%で信任されました。
ヒトラーによって成立した独裁国家はナチス=ドイツと呼ばれ、総統を皇帝と見なして神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に次ぐ第3帝国とも呼ばれました。
ヒトラーは皇帝を名乗ってはいませんが、独裁を行って国民投票で信任を得る手法はナポレオン1世やナポレオン3世と同様です。
ナチズムはアーリア人(インド・ヨーロッパ系民族の祖先)、特にゲルマン人を至上とする極端な民族主義を採り、1933年に断種法(心や身体に障害を持った者を排除する法律)、1935年にはニュルンベルク法(ユダヤ人の公民権を奪って活動を禁止する法律)が制定されました。
個人よりも国家を重んじる全体主義思想で、市民の政治活動はもちろん文化活動も極端に制限され、反対派や他民族、特にユダヤ人やロマ(いわゆるジプシー)はゲットー(強制隔離地域)、後には強制収容所に収容されました。
ゲシュタポ(秘密警察)やSS(親衛隊)、SA(突撃隊)が人々を監視し、法的な手続きを経ずに取り締まりを行ったため、ドイツ人を含めて多くの人々が国外に逃亡・亡命しました。
■ナチス=ドイツの治世
恐怖政治を敷く一方で、ナチス政権は内政・外交で多くの成果をもたらしました。
内政では、保護貿易を推進して国内経済を隔離し、自動車専用道路アウトバーンの建設をはじめとする公共事業や軍需産業の育成などによって急速に雇用を回復。
減税を行い、有給休暇の制度整備や保養施設の建設をはじめ労働環境の改善に努めました。
外交では、1933年のジュネーブ軍縮会議で国際連盟加盟国に平等に軍縮を求めた軍事平等権が認められなかったことから国際連盟を脱退してヴェルサイユ体制から離脱。
1935年には国際連盟管理地となっていたフランス国境付近のザール地方を住民投票のうえで編入し、徴兵制の復活と再軍備を宣言しました。
さらに、非武装地帯となっていたラインラントに進駐したことでヴェルサイユ体制は完全に崩壊しました。
フランスやイギリスはこれらに抗議し、国際連盟も問責決議を採択しましたが、ドイツはこれを無視。
一時は開戦も懸念されましたがそれには至らず、国内でヒトラー神話がいっそう高まりました。
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<ソ連・スターリン体制>
■スターリン体制の確立
1929年に政権を確立したスターリンは第1次・第2次五か年計画によって重工業を推進し、コルホーズとソフホーズによる農業の集団化を進めました。
資本主義諸国との貿易も限られており、経済を政府が統制する計画経済を行っていたため、世界恐慌の影響も最小限に食い止められました。
社会主義では国家が社会を統制する必要があり、強い中央集権が必要でした。
また、共産党内での勢力を盤石にするためにもスターリンは支配体制の確立を急ぎました。
スターリンは内務人民委員部(NKVD)、連邦軍参謀本部情報総局(GRU)などの組織を使って取り締まりを行い、反対者はソロヴェツキー諸島※などに設置された強制収容所に投獄して粛清しました。
1930年代にはじまり50年代まで続いた大粛清の犠牲者は数百万に上るといわれています。
この過程でスターリンは独裁体制を築き上げ、個人崇拝が広がりました(スターリン体制)。
社会主義体制が浸透すると、1936年にスターリン憲法を発布。
最高会議(ソビエト)の設立や普通選挙、階級間の平等、市民権、出版・集会・言論の自由などをうたいましたが、体制の保護が第一とされ、共産党に推薦された者しか立候補できないなど民主主義にはほど遠いものでした。
※世界遺産「ソロヴェツキー諸島の文化と歴史遺産群(ロシア)」
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<枢軸の形成>
■イタリアのエチオピア併合とスペイン内戦
ムッソリーニのイタリアは、1935年にエチオピア帝国を侵略します。
毒ガスを用い、多数の住民を虐殺するなど凄惨な行軍を続け、翌年首都アディスアベバを落として併合を宣言。
イタリア領エチオピア帝国とイタリア領東アフリカ(現在のエリトリアやソマリア周辺)を打ち立てます。
国際連盟はこれを非難して経済制裁を決議しますが、参加国も少なく実効性に乏しいものでした。
スペインでは第1次世界大戦後、ブルボン朝の王政が弱体化していました。
1931年に国民投票の結果を受けて共和政に移行し、国王アルフォンソ13世が退位してスペイン共和国が成立しました(スペイン革命)。
この頃からスペインも世界恐慌の波に飲まれ、町には失業者があふれ、農村も荒廃して人々の生活は悪化しました。
他国同様に右派が勢力を増し、1933年の総選挙で共和派が敗北して右派政権が誕生します。
政権による左派や共産党の弾圧がはじまり、これに対して共和派や共産党はスペイン人民戦線を組織。
1936年の選挙では人民戦線派が勝利して人民戦線内閣が成立します。
この状況を見た軍部は、右派・王党派・地主層などの支持を得て武装蜂起を計画し、フランシスコ・フランコ将軍らがクーデターを決行。
この結果、スペインは内戦状態に陥ります(~1939年、スペイン内戦)。
■日独伊三国同盟の成立
スペインのフランコがドイツとイタリアに支援を要請すると、両国は反共産主義を旗印にこれを支持。
一方、ソ連とコミンテルンが人民戦線を支援しました。
イギリスやフランスは不干渉を表明しましたが、反乱軍の残虐行為に反発してヨーロッパ各国から多くの義勇兵が集結しました。
ヘミングウェイやマルロー、オーウェルといった作家が参加し、多くの作品が書かれたことでも知られています。
1936年10月、ドイツとイタリア空軍の支援を得てフランコは首都マドリード①②に迫りますが、人民戦線軍・市民・国際義勇軍の活躍でこれを死守。
人民戦線はスペイン全土で善戦を続けていましたが、次第に弾薬が底をつき、やがて人々の生活も困窮して敗北が重なりました。
そして1939年、フランコはバルセロナ③④、マドリード、バレンシア⑤を占領して内戦を終わらせました。
スペイン内戦を機にファシズムで共感する国々が接近し、1936年にドイツとイタリアがベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる提携関係を締結。
同年、ドイツと日本がソ連とコミンテルンから自国を防衛するために日独防共協定を結び、翌年イタリアが加わって三国防共協定に拡大しました。
イタリアはこれを機に国際連盟を脱退しています。
第2次世界大戦の開始後、1940年に軍事同盟に格上げされ、日独伊三国同盟が結ばれます。
これら3国は枢軸国と呼ばれ、連合国と大戦を戦いました。
※①世界遺産「マドリードのエル・エスコリアルの修道院と王領地(スペイン)」
②世界遺産「プラド通りとブエン・レティーロ、芸術と科学の景観(スペイン)」
③世界遺産「バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院(スペイン)」
④世界遺産「アントニ・ガウディの作品群(スペイン)」
⑤世界遺産「バレンシアのラ・ロンハ・デ・ラ・セダ(スペイン)」
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次回は第2次世界大戦を紹介します。