世界遺産と世界史21.東西教会の分裂と十字軍
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<東西教会の分裂=シスマ>
■中世の権力者
9~10世紀頃のヨーロッパには次のような実力者がいました。
○中世ヨーロッパの実力者たち
- 皇帝……帝国の君主。神聖ローマ帝国やビザンツ帝国の頂点
- 国王……王国の君主。フランス王国やイングランド王国の頂点
- 教皇……法王。ローマ・カトリックの盟主、教皇庁の頂点
- 総主教……正教会の盟主。総主教庁の頂点
- 諸侯……大公>公爵>侯爵>伯爵>子爵>男爵などの爵位を持つ有力貴族
- 聖界諸侯……領土を持つ大司教や司教
- 騎士……戦士階級の貴族
皇帝は帝国の君主のこと。
「皇」は「王」の上の概念なので、王をまとめる者といった意味を持ちます。
そしてヨーロッパにおいて、皇帝は基本的にローマ皇帝を意味します。
東ローマ皇帝=ビザンツ皇帝と、西ローマ帝国を再興した神聖ローマ皇帝がそれに該当します。
後年のロシア皇帝やドイツ皇帝などもローマ皇帝の後継を意識しています。
国王は国家の世襲の君主です。
国王ではなく爵位を持つ貴族が治める場合、公爵が治める領地は公領、主権がある場合は公国、伯爵が治める領地は伯領、主権がある場合は伯国などと呼ばれました。
■ローマ・カトリックと正教会の分裂=シスマ
西ローマ帝国滅亡後、ローマの教皇はローマ帝国の再興と強力な保護国を確保するために、フランク王国に接近していました。
800年、教皇レオ3世がサン・ピエトロ大聖堂①でフランク王国のカール大帝にローマ皇帝の帝冠を授け、形的には西ローマ帝国が復活します(カールの戴冠)。
962年には教皇ヨハネス12世が同聖堂でビザンツ帝国に無許可のまま東フランク王国オットー1世に戴冠し、神聖ローマ帝国が誕生します(オットーの戴冠)。
カールとオットーの戴冠をはじめ、聖像禁止令への反発、典礼方法の差異、教皇首位権問題(総主教の中での教皇の優位性の問題)などさまざまな問題が積み重なり、1054年、ついに教皇レオ9世とコンスタンティノープル総主教ミハイル1世が互いを破門してしまいます(東西教会の分裂=シスマ)。
これによりキリスト教はカトリック(普遍)とオーソドックス(正統)、ローマ・カトリックと正教会が明確に分裂します。
なお、1964年1月5~6日、聖地エルサレム②にて教皇パウロ6世とコンスタンティノープル総主教アシナゴラス1世が会談を開催。
翌年12月7日、互いの破門が解消され、911年ぶりに和解が成立しています。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
②世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
■皇帝派と教皇派の対立
ヨーロッパ西部において、皇帝-国王-諸侯-騎士-家臣-農奴といった序列はあっても、実際力を持っているのは諸侯や騎士といった地方の大貴族で、皇帝や国王も諸侯の代表者にすぎませんでした。
たとえば諸侯は不輸不入権を持ち、皇帝や国王・他の貴族の立ち入りは制限されていてほとんど独立していました。
一方で、ローマ・カトリックも教皇庁-大聖堂-教会-修道院、あるいは教皇-大司教-司教-司祭-修道院長という組織で人々を心理面から支配していました。
そして司教や司祭は皇帝や国王が任命し、教皇が承認を与えていましたが、力をつけた諸侯たちは司教や司祭を自分たちで任命し、世襲をはじめます。
こうした腐敗に対しクリュニー修道院が改革を起こし、教皇グレゴリウス7世がこれを引き継いで、聖職者の任命権(聖職叙任権)を取り戻して聖職の売買を厳しく禁じました。
これに神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が反発して教皇と皇帝の対立が表面化。
教皇の勢力拡大を恐れるイタリア諸侯は皇帝側につき(皇帝派=ギベリン)、皇帝の勢力拡大を恐れるドイツ諸侯は教皇側につき(教皇派=ゲルフ)、聖職叙任権闘争がはじまります。
1076年、グレゴリウス7世はついにハインリヒ4世を破門。
これを受けてドイツ諸侯が帝位の廃止を求めたためその座が危うくなったハインリヒ4世は1077年、イタリアのカノッサで教皇に謝罪します(カノッサの屈辱)。
この後ハインリヒ4世は帝位を巡ってドイツ諸侯と争い、一時はローマ①②にも遠征して教皇庁を包囲します。
叙任権闘争自体は1122年のヴォルムス協約で一応の決着を見ますが(皇帝はドイツ以外の地での叙任権を放棄)、ドイツ諸侯の対立や皇帝と教皇の確執は以後長きにわたって引き継がれることになります。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
[関連サイト]
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<十字軍>
■第1回十字軍
1038年にテュルク系(トルコ系)のイスラム王朝セルジューク朝が起こると、第2代スルタン、アルプ・アルスラーンが小アジアに侵入します。
1071年、マラズギルトの戦いでビザンツ軍を破ると多くのテュルク系民族が小アジアに進出し、トルコ化・イスラム化を進めていきます。
セルジューク朝は大領域を治めて「大セルジューク朝(セルジューク帝国)」と呼ばれますが、実質的に内部は分裂していました。
1077年に小アジアで独立したのがルーム・セルジューク朝で、中央アジア西部に成立したのがホラズム・シャー朝です。
こうしたイスラム教勢力に対する危機に際してビザンツ皇帝アレクシオス1世は教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請。
1095年、ウルバヌス2世はクレルモン公会議でイスラム教勢力の討伐とエルサレム①の奪回を呼びかけます。
翌年、諸侯や騎士たちはこれに応えて集まり、第1回十字軍を結成。
略奪と虐殺を繰り返しながら陸路アナトリア高原を横断し、1099年にエルサレムを落とします。
エルサレムではイスラム教徒・ユダヤ教徒・正教会の人々を無差別に殺害し、街は血に染まったといいます。
エルサレムの周辺にはエルサレム王国、エデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国という聖地四国を中心にキリスト教国が形成され、山の峰にカラット・サラディン②やクラック・デ・シュバリエ②といった要塞を連ねてキャッスル・ベルトと呼ばれる防塞線を張りました。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
②世界遺産「クラック・デ・シュバリエとカラット・サラディン(シリア)」
[関連サイト]
■7度の遠征
1147年にエデッサ伯国がイスラム諸国に敗れると、第2回十字軍を結成。
しかし、ダマスカス①郊外で返り討ちにあいます。
1187年、エジプトのイスラム国家アイユーブ朝の英雄サラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)がエルサレム②を奪還。
十字軍国家と戦い、次々に版図を広げていきます。
1189年には西ヨーロッパの3大王、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世が集結して第3回十字軍を結成。
アッコ③を攻略し、エルサレム王国を再興してエルサレムに迫りますが、結局1192年に休戦協定を結び、攻略は失敗に終わります。
サラディンは翌年死去し、ウマイヤド・モスク①隣接のサラディン廟①に葬られました。
1202年の第4回十字軍はヴェネツィア④の輸送船団とともに地中海貿易のライバルであるバルカン半島ダルマチア地方のサダル⑤を攻略。
続いてビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル⑥を落としてラテン帝国を建国します。
同じキリスト教国を攻撃し、十字軍は完全に迷走しています。
結局1291年にキリスト教勢力の拠点都市アッコが落ちるまで計7回(数え方によっては8~9回)の十字軍が派遣されましたが、エルサレム奪還はなりませんでした。
ビザンツ帝国ですが、帝国の貴族たちが周辺に建てた国々のうち、ニケーア帝国のミカエル8世パレオロゴスが1261年にコンスタンティノープル奪還に成功。
ビザンツ帝国を再興し、帝国最後の王朝であるパレオロゴス朝を開始します。
オスマン帝国の圧力を受けて大きく飛躍することはありませんでしたが、ギリシア・ローマの研究を進めて華やかな芸術文化が開花しました(パレオロゴス朝ルネサンス)。
※①世界遺産「古都ダマスカス(シリア)」
②世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
③世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル)」
④世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
⑤クロアチアの世界遺産暫定リスト記載
⑥世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
[関連サイト]
■アルビジョワ十字軍
ヨーロッパ域内を攻撃した十字軍も紹介しましょう。
まずはインノケンティウス3世が南フランスに送ったアルビジョワ十字軍です。
キリスト教カタリ派(アルビジョワ派)は異教的な二元論的世界観を持つ教派で、聖職者の腐敗に対する不信もあってフランス王国の力が及ばない南フランスで独自の信仰を広めていました。
教皇はローマ・カトリックへの帰属を求めますが、これを拒否したため12世紀に異端を言い渡されます。
1209年、教皇インノケンティウス3世の呼び掛けでアルビジョワ十字軍が結成され、シモン・ド・モンフォールを指揮官として進軍を開始。
ベジエやカルカッソンヌ①、アルビ②、ミネルヴなどを制圧し、1215年にはカタリ派の最大拠点都市トゥールーズ③を落とします。
しかし、シモン・ド・モンフォールが死去すると戦況は逆転し、多くの都市が奪還されたため、息子のアモーリ・ド・モンフォールは南フランスの統治権をフランス王ルイ8世に譲り渡します。
南フランス征服の大義名分を得たルイ8世は1226年にアルビジョワ十字軍を再結成すると、同年中にアヴィニョン④を含む多くの都市を再奪還しました。
同年中にルイ8世が死去するとルイ9世が遺志を継ぎ、1228年にトゥールーズを占領。
翌年トゥールーズ伯レイモン7世と協定を結んで征服を完了しました。
これによりフランス王国は南フランスにまで領域を広げ、フランス統一に近づきました。
※①世界遺産「歴史的城塞都市カルカッソンヌ(フランス)」
②世界遺産「アルビの司教都市(フランス)」
③世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(フランス)」
④世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
■北方十字軍
続いて北方十字軍です。
現在のバルト三国=エストニア、ラトビア、リトアニアの地には異教徒が暮らしていました。
これに対して教皇クレメンス3世は北方十字軍を組織して送り込みます。
1200年、北方十字軍がリガ①を制圧。
リガを拠点にリヴォニア帯剣騎士団を組織して、周辺の異教徒への攻撃を継続します。
13世紀にはエルサレム②攻略から帰還したドイツ騎士団がバルト征伐に参加。
リヴォニア帯剣騎士団を吸収し、ポーランドのトルニ③やマルボルク④、クルシュー砂州⑤、ダンツィヒ(グダニスク)、ケーニヒスベルク(カリーニングラード)などに拠点となる城塞を築き、タリン⑥などの都市を落とすと同時に異教徒を弾圧・虐殺しました。
ドイツ騎士団の伸長を受けてリトアニアがローマ・カトリックのポーランドと同君連合(同じ君主を持つ連合国)を組み、ポーランド=リトアニア連合王国が成立。
リトアニアはローマ・カトリックに改宗しますが抗争は続きました。
ドイツ騎士団はポーランド=リトアニアに1410年のタンネンベルクの戦いに敗れると徐々に騎士団領を失い、16世紀に騎士団長を輩出してきたホーエンツォレルン家がプロイセン公になると消滅しました。
※①世界遺産「リガ歴史地区(ラトビア)」
②世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
③世界遺産「中世都市トルニ(ポーランド)」
④世界遺産「マルボルクのドイツ騎士団の城(ポーランド)」
⑤世界遺産「クルシュー砂州(リトアニア/ロシア共通)」
⑥世界遺産「タリン歴史地区[旧市街](エストニア)」
■聖ヨハネ騎士団
聖ヨハネ騎士団の動きも見てみましょう。
「騎士団」は修道士となった騎士階級の貴族を中心とする修道会の一種です。
エルサレム①防衛のために結成されたテンプル騎士団のように、十字軍の時代には武装してイスラム教徒と戦いました。
12世紀初頭、エルサレムに結成された聖ヨハネ騎士団も同様で、十字軍の戦闘に参加したり、サラディンと争いました。
しかし、エルサレムが奪われ、1291年にアッコ②が落ちると居場所を失い、キプロスに撤退。
キプロス王に追われると、1309年にはロードス島③に移り、中世ヨーロッパ風の都市を建設して定住します(ロードス騎士団)。
しかし1522年、オスマン皇帝スレイマン1世の攻撃を受けてシチリア島へ移動。
教皇と神聖ローマ皇帝の仲介でマルタ島に移り、拠点都市ヴァレッタ④を建設します(マルタ騎士団)。
18世紀にはナポレオン1世の攻撃を受けてマルタ島を失いますが、現在も世界各国に騎士団領を持ち、主権が認められて国連のオブザーバー組織となっています。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
②世界遺産「アッコ旧市街(イスラエル)」
③世界遺産「ロードス島の中世都市(ギリシア)」
④世界遺産「ヴァレッタ市街(マルタ)」
[関連サイト]
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次回はイスラム教の成立と、ウマイヤ朝・アッバース朝の大帝国を紹介します。