世界遺産と世界史33.ルネサンス
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』
1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
詳細は "shop" をご参照ください。
* * *
<イタリア・ルネサンス>
■文芸復興=ルネサンス
中世の終わり頃、地中海貿易を牛耳っていたのはイタリアの海洋都市国家やビザンツ帝国、15世紀半ば以降はオスマン帝国です。
イタリア人たちはイスラム世界で盛んに研究されていたギリシアやローマの哲学や科学・芸術を逆輸入して研究していくうちに、自国がたくさんのすぐれた作品で溢れていることを知ります。
たとえばローマのパンテオン①。
ローマン・コンクリートによって造られた直径約43mのドームは中世の技術では再現不可能とされ、ルネサンスの名建築家たちによって盛んに研究されました。
その成果がフィレンツェの象徴、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)②の巨大なクーポラ(ドーム)です。
14~16世紀、東方貿易で得た富を背景にイタリアの諸都市で哲学・科学・芸術が奨励され、ローマ・ギリシア以来の飛躍がもたらされます。
文芸復興=ルネサンスです。
ここでいう「復興」とは、ギリシア・ローマの芸術や科学を再認識し、美や喜び・自由といった個人の感覚や感情を取り戻すこと。
「あの世」ではなく「この世」で生きる者としての人間の「再生」。
これこそがルネサンスのテーマでした。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
[関連サイト]
■フィレンツェの繁栄
ルネサンス初期の主人公はフィレンツェ①です。
ローマ時代に花の女神フローラの街として栄えたフィレンツェは12世紀にコムーネ(自治都市)となり、東方貿易と毛織物業でイタリア屈指の都市に成長しました。
そして13~14世紀、フィレンツェで金融業を営み、急速に頭角を現すのがメディチ家です。
中世キリスト教社会では利息を取って利益を上げる金融業が禁止されていましたが、時代はルネサンス前夜。
教会の腐敗や教皇権の衰退、新しい価値観の登場・容認を受けてメディチ家はいち早く金融業に乗り出し、急速に支持を集めました。
商業・工業が盛り上がるとそれを仲介する金融業は巨大な富を生み出し、メディチ家は一気に名家へと成り上がります。
そして莫大な寄付金を寄贈することで教皇の承認を取りつけ、実質的にフィレンツェを支配。
15世紀には教皇庁②の財務を引き受け、ヨーロッパ中に支店を出しました。
メディチ家は芸術を奨励し、ボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、アンジェリコをはじめとする芸術家を庇護。
これを伝え聞いた芸術家たちはさらにフィレンツェに集いました。
※①世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
②世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
[関連サイト]
■イタリア・ルネサンス
フィレンツェに続いて芸術家を庇護したのがミラノのスフォルツァ家やフェッラーラ①のエステ家です。
ミラノの代表的な建物がサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会②で、スフォルツァ家の依頼でレオナルド・ダ・ヴィンチが描いたのが同修道院の「最後の晩餐」です。
一方、フェッラーラは13~15世紀に整備されたエステ家による計画都市で、方格設計(碁盤の目状)の道路網・緑豊かな庭園・同じ高さの建物など、街をキャンパスに見立てて初期ルネサンスの美しい街並みを生み出しました。
また、エステ家はローマ③郊外のティヴォリに別荘④を建てており、噴水や滝を駆使したイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)のひな形となりました。
これ以外に初期・盛期ルネサンスの傑作としてよく挙げられる建物には、ウルビーノのドゥカーレ宮殿⑤、マントヴァのサンタンドレア聖堂⑥、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂⑦やサント・スピリト聖堂⑦、教皇ピウス2世の築いたルネサンス都市ピエンツァ⑧、ローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会③のテンピエットなどがあります。
※①世界遺産「フェッラーラ:ルネサンス期の市街とポー川デルタ地帯(イタリア)」
②世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(イタリア)
③世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
④世界遺産「ティヴォリのエステ家別荘(イタリア)」
⑤世界遺産「ウルビーノ歴史地区(イタリア)」
⑥世界遺産「マントヴァとサッビオネータ(イタリア)」
⑦世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
⑧世界遺産「ピエンツァ市街の歴史地区(イタリア)」
[関連サイト]
* * *
<ルネサンスの展開>
■イタリア戦争
オーストリアのハプスブルク家が神聖ローマ帝国の皇帝位に就き、スペインやブルゴーニュ等々を領有してハプスブルク帝国を築く中で、これらに挟まれる形となったフランスのヴァロワ家はルネサンス期にヨーロッパ経済の中心に躍り出たイタリアの領有を目論んでいました。
その結果1494~1559年、両国の間でイタリア戦争が勃発します。
フランスのシャルル8世はナポリ王国の継承権を主張し、教皇が拒否したことをきっかけに1494年にイタリアに侵入。
フィレンツェ共和国①のピサ②を落とすと、もともとメディチ家の独裁に反発していたフィレンツェ市民が激怒してメディチ家を町から追放します。
フランス軍は翌年ナポリ③を占領。
これに対して教皇アレクサンドル6世、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、フィレンツェ、ヴェネツィア④が神聖同盟を結んで対抗したため、フランスは孤立を恐れて撤退しました。
1499年、今度はミラノ公国の継承権を主張してフランス王ルイ12世がミラノ⑤に攻め込み、スフォルツァ家を追放してミラノの占領に成功。
1508年、教皇ユリウス2世はスペインやヴェネツィア、スイスと神聖同盟を結成して対抗し、1512年にこれを打ち破ってミラノを奪還しました。
ユリウス2世没後の1513年、ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世として教皇位に即位すると、メディチ家は重心をフィレンツェからローマ⑥に移していきます。
1519年には神聖ローマ皇帝の座を巡ってハプスブルク家のスペイン王カルロス1世とヴァロワ家のフランス王フランソワ1世が争いますが、皇帝選挙でカルロス1世が当選してカール5世として皇帝位に就きました。
1521年、フランソワ1世がイタリアに侵攻。
カール5世はスペインと神聖ローマ帝国の軍を率いてこれに対抗し、1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世を捕縛します。
これによりフランスはイタリアから撤退し、ふたりの息子を身代わりにしてフランソワ1世はようやく解放されました。
こうしたイタリア戦争の混乱の中でフィレンツェ、ミラノを中心とした初期ルネサンスの繁栄は終了し、代わりにレオ10世が教皇庁⑦のあるローマで芸術を保護し、ルネサンスは最盛期を迎えます。
※①世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
②世界遺産「ピサのドゥオモ広場(イタリア)」
③世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
④世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
⑤世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(イタリア)」
⑥世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
⑦世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
[関連サイト]
■サン・ピエトロ大聖堂
聖ペトロの大聖堂=サン・ピエトロ大聖堂①はイエスの十二使徒のひとりであるペトロが埋葬された場所と伝わっています。
ローマ・カトリックの教皇の座所である教皇聖座は当初、ローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂②に置かれていましたが、14世紀のアヴィニョン③捕囚後にアヴィニョンの教皇庁宮殿に遷され、ローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂を経てバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に遷されました。
1506年に教皇ユリウス2世が再建を決め、ブラマンテに設計を依頼。
レオ10世の時代に、ローマ・カトリックの首席教会堂にふさわしいものにするためにラファエロらを指名してより豪壮な聖堂が目指されました。
ただ、レオ10世が改築費用を捻出するために発行した贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)は宗教改革のきっかけとなりました。
これ以後、大聖堂の建設は起工から120年にわたって続けられました。
イタリア戦争はまだ続いており、教皇レオ10世の跡を継いだクレメンス7世は神聖ローマ帝国を裏切ってフランスと手を結びます。
これに激怒した皇帝カール5世は1527年、ローマに侵入して教皇軍を打ち破り、ローマを破壊・略奪しました(ローマ劫略)。
ローマは荒廃し、これをきっかけに盛期ルネサンスも衰退期に入ります。
1530年にクレメンス7世とカール5世は和解。
カール5世は1532年にメディチ家に公爵位を与え、フィレンツェ公国が誕生してメディチ家がフィレンツェ④に復帰しました。
1569年には教皇ピウス5世からトスカーナ大公に叙されてフィレンツェ公国はトスカーナ大公国に移行します。
イタリア・ルネサンスはこのあと後期ルネサンスの時代に入り、ヴェネツィア⑤、ジェノヴァ⑥、ヴェローナ⑦、ヴィチェンツァ⑧といったイタリア北部に重心が移ります。
サン・ピエトロ大聖堂について、大聖堂の設計はロマーノ、ミケランジェロ、ベルニーニらの手を経てたびたび変更され、ようやく1626年に奉献されました。
長い建築期間の間に時代はルネサンスからマニエリスム(後期ルネサンス)、バロックと進み、それぞれの影響を受けた豪華絢爛かつ世界最大級の大聖堂が誕生しました。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
④世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
⑤世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
⑥世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度(イタリア)
⑦世界遺産「ヴェローナ市(イタリア)」
⑧世界遺産「ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオ様式の邸宅群(イタリア)」
[関連サイト]
■北方ルネサンス
イタリアで起こったルネサンスは15~16世紀になるとヨーロッパに広く普及していきます。
主にイタリアより北の国々で起こったことから「北方ルネサンス」と呼ばれています。
特徴的なのは都市設計で、ルネサンス様式の建物を建てるだけでなく、街並みとしての幾何学的均衡も重視されました。
たとえば広い広場を中心に方格設計(碁盤の目状)の整然とした街並みを築き、建物の高さを統一し、それぞれをカラフルに塗り分けるなど、清潔で過ごしやすく美しい都市が目指されました。
こうした新しい都市は軍事的な要請でもありました。
ルネサンス期に火薬と、火薬で砲弾を飛ばす大砲が普及し、中世の高く美しい市壁や城壁は容易に破壊されるようになりました。
これに対してイタリアでは崩れにくいよう市壁や城壁は低く厚く築かれるようになり、切石ではなく衝撃を吸収する土やレンガが多用されました。
また、壁から突き出した稜堡(りょうほ)や、城壁の前に設置された堡塁が発達し、死角を消すために全体としても多角形や星形を採るようになりました(イタリア式築城、多角形要塞・星形要塞)。
こうした新しい要塞建築とルネサンスらしい整然とした街並みを持つ城郭都市を「ルネサンス理想都市」といいます。
北方ルネサンスの代表的な例を挙げると、オニオン・ドーム(タマネギ・ドーム)とルネサンス建築が融合したモスクワのウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)①、ゴシック様式との融合が美しいクラクフのヴァヴェル城②、フランス王フランソワ1世がダ・ヴィンチを招いてアドバイスを受けたといわれるシャンボール城③や多彩な建築様式が混在したルーヴル宮殿(現、ルーヴル美術館)④、フォンテーヌブロー派の絵画や彫刻を生んだフォンテーヌブロー⑤、イタリア・ルネサンスの伝統を色濃く残すスペインのウベダとバエーサ⑥、ルネサンス&ゴシックの巨大な城塞ハイデルベルク城⑦、ルネサンス様式の街並みが美しいザモシチ⑧やチェスキー・クルムロフ⑨、リヨン⑩、ルネサンス理想都市のパルマノヴァ⑪やヴァレッタ⑫などがあります。
※①世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア)」
②世界遺産「クラクフ歴史地区(ポーランド)」
③世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷(フランス)」
④世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)
⑤世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園(フランス)」
⑥世界遺産「ウベダとバエーサのルネサンス様式の記念碑的建造物群(スペイン)」
⑦ドイツの世界遺産暫定リスト記載
⑧世界遺産「ザモシチ旧市街(ポーランド)」
⑨世界遺産「チェスキー・クルムロフ歴史地区(チェコ)」
⑩世界遺産「リヨン歴史地区(フランス)」
⑪世界遺産「16~17世紀ヴェネツィア共和国の軍事防衛施設群:スタート・ダ・テッラ-西部スタート・ダ・マーレ(イタリア/クロアチア/モンテネグロ共通)」
⑫世界遺産「ヴァレッタ市街(マルタ)」
[関連サイト]
* * *
次回は宗教改革を紹介しいます。