世界遺産と世界史15.東南&東アジア、アフリカの古代
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<東南アジアの古代>
インドシナ半島の勢力の推移。Han=漢、Liu Song=南宋、Sui=隋、Funan=扶南、Lavo=ラヴォ、Champa=チャンパー、Van Xuan=萬春、Chenla=真臘、Khmer Empire=アンコール朝、Dali=大理、Song=宋、Pagan=バガン朝、Yuan=元、Lannna=ラーンナー王国、Sukothai=スコータイ朝、Ayuthaya=アユタヤ朝、Lan Xang=ランサーン王国、Dai Viet=大越、Ming=明、Toungoo=トゥングー朝、Qing=清
■東南アジアの稲作
東南アジアの多くが熱帯地方に属し、高温多湿。
インドシナ半島内部などに広がるサバナ(雨季にのみ雨が降る半砂漠の熱帯草原地帯)を除いて熱帯雨林・照葉樹林が生い茂り、複雑な地形を描く山地が広がっています。
森林は農業に向きませんでしたが、高地や平野は非常に適しており、古くから稲作が行われていました。
稲作がはじまった時期は明らかではありませんが、紀元前3000~前2000年には行われていたようです。
メコン川に近いタイのバンチェン遺跡①からはその頃の青銅器が発掘されており、紀元前5~後2世紀頃の稲作の跡や石器・土器が発見されています。
また、ルソン島では紀元前3世紀以前から稲作が行われており、コルディリェーラ山地②では現在まで2,000年以上にわたって持続可能な農業を実現し、総延長20,000kmに及ぶ棚田群が広がっています。
2,000年近く前、バリ島③で水を神聖視して崇めるヴェーダの影響を受けて誕生したのがトリ・ヒタ・カラナ哲学です。
そして神・人間・自然の調和を尊重し、水を分かち合い、スバックという組合を発達させて農耕を行いました。
棚田で世界最大規模を誇るのが紅河④に広がるハニ族のもので、1,300年をかけて切り拓いた約3,000もの棚田群が広がっています。
※①世界遺産「バンチェンの考古遺跡(タイ)」
②世界遺産「フィリピン・コルディリェーラの棚田群(フィリピン)」
③世界遺産「バリ州の文化的景観:トリ・ヒタ・カラナ哲学に基づくスバック灌漑システム(インドネシア)」
④世界遺産「紅河ハニ棚田群の文化的景(中国)」
[関連サイト]
■ベトナムの古代
東南アジアでは島嶼(とうしょ)部や海・大河の沿岸部で港を中心とする「港市(こうし)」が発達しました。
紀元前の時代からオリエント-インド-東南アジア-中国は間接的に結ばれていて、商人たちが行き交っていました(海のシルクロード)。
特にベトナム以南は中国よりもインドとの結びつきが強く、ヒンドゥー教や大乗仏教を中心とした文化が伝わっていました。
東南アジアでもベトナム北部は紀元前から中国の支配が続きました。
紀元前111年、漢民族が建てた南越は武帝に滅ぼされ、漢に組み込まれました。
以降1009年に李朝が大越国の国王として冊封(さくほう。後述)されるまで、ベトナム北部は中国の郡として扱われました。
大越は、李朝→チャン朝(陳朝)→ホー朝(胡朝)と続きますが、李朝・チャン朝の首都がタンロン①(昇竜。現在のハノイ)で、ホー朝の首都がタインホア②です。
中国と結びつきのない東南アジア最古の王朝が1~7世紀に栄えた扶南(ふなん)です。
メコン川流域、カンボジアからベトナムにかけての港市を束ねた国で、海のシルクロードを利用して活発に貿易を行いました。
2世紀前後にはチャム人が漢の日南郡から独立を果たしてベトナム南部にチャンパーを建国します。
当初は中国の影響を多分に受けていましたが、4~5世紀にはヒンドゥー教が伝わってインド化していきます。
チャンパーでヒンドゥー教の聖地とされたのがミーソン③です。
※①世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム)」
②世界遺産「ホー朝[胡朝]の城塞(ベトナム)」
③世界遺産「ミーソン聖域(ベトナム)」
■アンコール朝
6世紀頃、クメール人が現在のラオス南部に古代都市シュレスタプラ①を建設し、真臘(しんろう。チェンラ王国)を建てます。
7世紀前半には扶南を占領して入れ替わるようにメコン川一帯を支配。
首都を南のイーシャナプラ②に遷し、勢力の中心をベトナムとカンボジアに移動させました。
8世紀後半になると南北に分裂し(陸真臘、水真臘)、一時ジャワ王国シャイレーンドラ朝の支配を受けます。
802年、ジャヤヴァルマン2世が王位に就くとクメール人国家を再統一。
これが1431年まで26代にわたる王を輩出したクメール王国アンコール朝です。
アンコール朝の王たちは9世紀後半からトンレサップ湖の北に広大な水路と貯水池を整備し、ヤショダラプラ(アンコール)③と呼ばれる巨大な港市を建設しました。
ここには都城アンコール・トムや王家の菩提寺アンコール・ワットをはじめ数多くの宮殿や寺院が建設されて大都市に発展しました。
※①世界遺産「チャンパーサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群(ラオス)」
②世界遺産「サンボー・プレイ・クックの寺院地区と古代イーシャナプラの考古遺跡(カンボジア)」
③世界遺産「アンコール(カンボジア)」
[関連サイト]
世界遺産と建築23 仏教建築3:上座部仏教編(スリランカ、東南アジア)
■シュリーヴィジャヤ王国、シャイレーンドラ朝
東南アジアの島嶼部でも紀元前からインドや中国と貿易を行い、港市が発達しました。
インドシナ半島やマレー半島と同様に、4~5世紀にはインドからもたらされたヒンドゥー教や大乗仏教を中心とする文化が広がりました。
そんな中、7~13世紀にスマトラ島に興った港市国家がシュリーヴィジャヤ王国です。
仏教が盛んな国で義浄が訪れているほか、インド・中国と盛んに貿易を行いました。
この国はやがてシャイレーンドラ朝の王家が支配する国として栄えていったようです。
8~9世紀、隣のジャワ島で栄えたのがそのシャイレーンドラ朝です。
敬虔な仏教国で、世界3大仏教遺跡に数えられるボロブドゥール①を建設しています。
しかしボロブドゥールの完成後、シャイレーンドラ朝は急速に衰退。
拠点をスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国に移したようです。
ちなみに3大仏教遺跡の残りのふたつは、ミャンマーのバガン②とカンボジアのアンコール③です。
8~11世紀にはジャワ島で古マタラム王国が繁栄しました。
その初期、サンジャヤ朝の時代には仏教国シャイレーンドラ朝の支配下にありました。
古マタラム王国はヒンドゥー教国でしたが、異なる宗教を信仰していても大きな混乱はなかったようで、仏教寺院を造ってはシャイレーンドラ朝の王家に寄進していました。
シャイレーンドラ朝が衰退すると、856年、古マタラム王国のピカタン王はヒンドゥー教の総本山ロロ・ジョングラン④の建設を開始し、907年にバリトゥン王が完成させました。
※①世界遺産「ボロブドゥール寺院遺跡群(インドネシア)」
②世界遺産「バガン(ミャンマー)」
③世界遺産「アンコール(カンボジア)」
④世界遺産「プランバナン寺院遺跡群(インドネシア)」
[関連サイト]
世界遺産と建築23 仏教建築3:上座部仏教編(スリランカ、東南アジア)
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<東アジアの古代>
■東アジアのメガリス
東アジアの古代を簡単に見てみましょう。
朝鮮半島の根本、遼河(りょうが)流域には紀元前5000年にまでさかのぼる古代文化群、すなわち遼河文明が栄えていました。
そしてヨーロッパの巨石文化で紹介したようなメガリス(巨石記念物)はアジアでも建設されました。
世界でもっともドルメン(支石墓)が集中しているのが朝鮮半島で、当地では「コインドル」と呼ばれており、半島全域で5万前後のコインドル①が残されています。
また、1~6世紀に朝鮮半島南部では伽耶(加羅)と呼ばれる小国群による多数の墳丘墓②が発見されています。
日本にもメガリスや古墳はたくさん存在します。
ストーン・サークルなら大湯環状列石③(秋田県)のような縄文時代の遺跡で見られますし、古墳だと4~5世紀の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)④、上石津ミサンザイ古墳(履中天皇陵)④、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)④といった前方後円墳や、7~8世紀に造られた石舞台古墳⑤や高松塚古墳⑤、キトラ古墳⑤などが有名です。
特に大仙陵古墳はクフ王のピラミッド⑥、秦の始皇帝陵⑦と並んで世界3大墳墓に数えられています。
※①世界遺産「高敞、和順、江華の支石墓群跡(韓国)」
②世界遺産「伽耶古墳群(韓国)」
③世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群(日本)」
④世界遺産「百舌鳥・古市古墳群(日本)」
⑤日本の世界遺産暫定リスト記載
⑥世界遺産「メンフィスとその墓地遺跡-ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯(エジプト)」
⑦世界遺産「秦の始皇陵(中国)」
[関連サイト]
■朝鮮半島の古代
紀元前108年以前を古朝鮮と呼びます。
古朝鮮は檀君(だんくん)神話→箕子(きし)朝鮮→衛氏朝鮮と移行しますが、多くが未解明です。
漢の武帝が紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼすと、楽浪郡をはじめとする4郡を設置。
そして紀元前1世紀、中国東北地方に高句麗①②が興ると、漢に朝貢して冊封体制に入ります。
「冊封」とは、天にいる神を「天帝」、天帝から地上を治める天命を受けた皇帝を「天子」とし、この天子に仕える者として君臣の関係を結ぶことを示します。
中国の元号を使ったり、皇帝に貢ぎ物を贈る義務(朝貢)を負いますが、その代わり返礼品を受け取ったり、軍事的な援助を受けることができました。
高句麗も当初はこうした冊封国のひとつ。
しかし4世紀に楽浪郡を占領し、朝鮮半島北部を統一すると対決姿勢を深めていきます。
その頃、朝鮮半島南部では伽耶と呼ばれる小国群が栄えていましたが、4世紀に百済③と新羅(首都・金城④)が成立すると多くの国々を征服し、高句麗とともに朝鮮半島の三国時代を迎えました。
高句麗は427年に平壌城(現在の平壌)に遷都し、475年には百済を破って首都・漢城(現在のソウル)を落として版図を南へ広げました。
7世紀前半に中国の隋から攻撃を受けるもこれを撃退。
唐の時代に入っても太宗が攻撃を繰り返しますが、なんとかこれを退けます。
しかしながら次の唐の高宗は新羅と結んで遠征を行い、668年に高句麗は滅亡します。
※①世界遺産「古代高句麗王国の首都と古墳群(中国)」
②世界遺産「高句麗古墳群(北朝鮮)」
③世界遺産「百済歴史地域(韓国)」
④世界遺産「慶州歴史地域(韓国)」
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<アフリカの古代>
■クシュ王国、メロエ王国
アフリカの古代文明を見てみましょう。
〇古代の岩絵や壁画を含む世界遺産の例
- ティヤ(エチオピア)
- マロティ=ドラケンスバーグ公園(南アフリカ/レソト共通)
- ツォディロ(ボツワナ)
- マトボの丘群(ジンバブエ)
- コンドア・ロックアート遺跡群(タンザニア)
- チョンゴニ・ロックアート地域(マラウイ)
- トゥウェイフルフォンテーン(ナミビア)
- 現生人類行動の出現:南アフリカの更新世居住遺跡群(南アフリカ)
アフリカには紀元前から多彩な文化が存在しました。
そしてその中でも急速に文明を発達させたのがナイル川流域です。
紀元前3000年頃から興った古代エジプトの政権は、一時現在のスーダン北部にまで勢力を伸ばしました。
紀元前1000年頃には首都をナパタ①に置いた最古の黒人王国クシュが成立。
そして紀元前700年頃にピイ王がエジプトを征服すると、新王国の第25王朝を引き継ぎました。
紀元前671年、アッシリアが勢力を伸ばしてエジプトを征服するとスーダンに撤退。
紀元前600年頃に首都をメロエ②に遷して以降をメロエ王国と呼びます。
※①世界遺産「ゲベル・バルカルとナパタ地域の遺跡群(スーダン)」
②世界遺産「メロエ島の考古遺跡群(スーダン)」
[関連記事]
■エチオピア
エチオピアの版図の推移。右の枠内表示、Aksumite Empire=アクスム、Zagwe Dynasty=ザグウェ朝、Solomonic Dynasty=エチオピア帝国(ソロモン朝)
ナイル川はスーダンのハルツームでふたつに分岐します。
ウガンダやタンザニアのヴィクトリア湖に至る白ナイルと、エチオピアのタナ湖に至る青ナイルです。
紀元前5~前3世紀頃。青ナイル上流から紅海沿岸部に都市国家群が繁栄します。
エチオピアの伝説によると、紀元前1000年頃に生まれた初代国王メネリク1世は、ヘブライ王国第3代国王ソロモンと伝説の国シバの女王の血を引くといいます。
そしてモーセの十戒を収めた伝説のアーク(聖櫃)をエルサレム①のエルサレム神殿から持ち帰ったようです。
これが安置されているとの伝説が伝わっているのがアクスム②にあるシオンのマリア教会です。
1~10世紀、アクスム王国は象牙や金による紅海貿易で栄え、メロエ王国を侵略。
インドや北アフリカとも貿易を行って最大版図を築きますが、その後、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)やササン朝ペルシア、イスラム帝国の圧力を受けて次第に衰退していきます。
10世紀頃にはアクスム王国が滅んでザグウェ朝が成立。
12~13世紀に君臨したラリベラ王は聖地エルサレムがイスラム教徒の支配下にあることに心を痛め、首都ロハ(後のラリベラ)に第二のエルサレムの建設を決意し、数多くの岩窟教会群③を築きます。
13世紀にはイクノ・アムラクがソロモン朝を建て、エチオピア帝国が成立。
この後、エチオピア帝国はアフリカ各地が植民地化されていく中で、20世紀まで独立を貫きます。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請、1981年、文化遺産(ii)(iii)(vi))」
②世界遺産「アクスム(エチオピア)」
③世界遺産「ラリベラの岩窟教会群(エチオピア)」
[関連サイト]
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次回は南北アメリカ大陸の古代を紹介します。