世界遺産と世界史13.シルクロードとインド
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<シルクロード>
↑は現在中国が推進している「一帯一路 "One Belt, One Road"」の解説動画です。一帯一路は古代、東西を結んでいたシルクロード上の経済ベルトと、海のシルクロード上の国々を結びつけようという経済政策です。古代のルートの解説も含まれています
■ステップロードとオアシスロード
西アジアから中央アジア、中国に至る広大な大地を占めているのは主にステップ(雨季にのみ草原が広がる亜熱帯高圧帯周辺の半砂漠地帯)と砂漠です。
ステップは雨季に背の低い草が広がるだけの荒野で、半ば砂漠といった土地も少なくありません。
古来、中央アジアのグレート・ステップにはスキタイ人やソグド人、パルティア人、月氏、匈奴といった遊牧民族が暮らしており、彼らは移動を繰り返しつつ各地の産物を別の土地に運ぶ隊商貿易を行っていました。
中国をはじめとする東アジアと中央アジアや南アジア、西アジア、ヨーロッパをつなぐ東西貿易のルートを主要産品である絹(シルク)の名を取って「シルクロード①②」といいます。
シルクロードには主として2つのルートがありました。
ひとつは中国からモンゴルやカザフスタンに入り、ロシア南部を通ってヨーロッパに入る北回りのルートで「ステップロード(草原の道)」と呼ばれます。
もうひとつは中国から中央アジアのカザフスタン南部やキルギス、アフガニスタンのオアシス都市をつないでインドや西アジア、ヨーロッパに至るルートで「オアシスロード(オアシスの道)」といわれています。
細かく見ていけばステップロードやオアシスロードにもさまざまなルートがあり、それ以外にも中国南部からミャンマーを経てインドに至る「西南シルクロード」や、中国南部から東南アジアを経てインド、西アジア、東アフリカに至る「海のシルクロード(海の道。シーロード)」なども存在しました。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
■ガンダーラ
シルクロードの中でも東西南北の文化が盛んに交流したのがオアシスロードのガンダーラです。
ガンダーラには複数の都市国家が成立していましたが、ペルシア系のアケメネス朝、ギリシア系のアレクサンドロス帝国、セレウコス朝の支配を受けたあと、インドのマウリヤ朝に侵略され、さらにギリシア系のバクトリア、ペルシア系のパルティア(アルサケス朝)に支配されました。
おかげでペルシア、ギリシア、インド、遊牧民族の文化が複雑に混じり合うことになりました。
アレクサンドロス帝国以降の入植によりギリシア人が西アジアや中央アジアに進出していました。
彼らが建てた国のひとつがバクトリアです。
バクトリアはやがてパルティアや大月氏といった遊牧民族の侵入で滅びますが、ギリシア人たちはインド北部に移動してマウリヤ朝を滅ぼし、ギリシア人国家グリーク朝を建国します。
これにより、ガンダーラをはじめとするヘレニズム文化がインドにもたらされました。
■クシャーナ朝
クシャーナ朝の版図の推移
その頃、中国の西域にいた月氏(げっし)は匈奴に押され、バクトリアの地に移動して大月氏として力を振るっていました。
そして1世紀に首都をシルスフ①に置いてクシャーナ朝を建国します。
2世紀に首都をプルシャプラ(現在のペシャワール)、副都をマトゥラーに定めたカニシカ王はインド北部を平定し、インド~中央アジアに至る大帝国を打ち立てました。
カニシカ王は大乗仏教を保護しており、その結果生まれたのが仏像です。
アレクサンドロス帝国やバクトリアのギリシア人たちがもたらした神々の彫刻をまねて、人々は仏像や仏画を作り出しました。
また、クシャーナ朝が中国と接し、インド北部を占めていたことから仏教文化はインドや中国に伝えられました。
カニシカ王が建てた仏教寺院がタフティ・バヒー寺院②です。
クシャーナ朝から次のグプタ朝期の仏教美術、特に石窟寺院や仏像・壁画が集まっているのがバーミヤン渓谷③です。
※①世界遺産「タキシラ(パキスタン)」
②世界遺産「タフティ・バヒーの仏教遺跡群とサリ・バロールの近隣都市遺跡群(パキスタン)」
③世界遺産「バーミヤン渓谷の文化的景観と考古遺跡群(アフガニスタン)」
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<仏教王国とヒンドゥー教の成立>
■グプタ朝
グプタ朝の版図の推移
クシャーナ朝はペルシアのササン朝に敗れると、ササン朝の傀儡政権となります。
その後チャンドラグプタ1世のグプタ朝によってインドから駆逐され、ガンダーラの地へと帰ります。
グプタ朝は4~5世紀、チャンドラグプタ2世のときに最盛期を迎えます。
南インドの一部を除いてインドのほぼ全土を掌握。
仏教美術はさらに洗練され、ギリシア等の影響を廃した繊細華麗なインド特有の様式を確立し、グプタ美術として花開きます。
この前後の時代にアジャンター①、エローラ②、エレファンタ③というインド3大石窟が築かれました。
アジャンターは仏教、エレファンタはヒンドゥー教の石窟群ですが、エローラは仏教・ジャイナ教・ヒンドゥー教の混合石窟で、仏教・ジャイナ教の神々が次第にヒンドゥー教に同化・吸収される姿を見ることができます。
※①世界遺産「アジャンター石窟群(インド)」
②世界遺産「エローラ石窟群(インド)」
③世界遺産「エレファンタ石窟群(インド)」
[関連サイト]
■ヒンドゥー教の誕生とヴァルダナ朝
もともと庶民の間では仏教、ジャイナ教、バラモン教の差異はあいまいで、それ以外にも多彩な民間信仰が存在していました。
これらが融合してなんとなく成立するのがヒンドゥー教です。
ヒンドゥー教はもともと明確な定義のある宗教ではありませんでした。
バラモン教のヴァルナ制(カースト制)をはじめとする慣習を引き継ぎつつ、さまざまな神々を雑多に信じる民間信仰にすぎませんでした。
それがグプタ朝の時代、『マヌ法典』が成立してヴァルナ制が強化され、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩が広まることで神々の物語が体系化され、共通の神概念を持つようになりました。
やがて仏教やジャイナ教の偉人や神々は雑多な神々の一部として認識され、ヒンドゥー教に吸収されていきます。
6世紀にグプタ朝に変わってハルシャ王のヴァルダナ朝が北インドを統一します。
ハルシャ王は仏教を庇護し、この時代に玄奘(三蔵法師)や義浄が聖地ブッダガヤ①や大僧院コンプレックス=マハーヴィハーラであるナーランダ僧院②を訪れていますが、この頃から仏教やジャイナ教は衰退の一途をたどります。
※①世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド)」
②世界遺産「ビハール州ナーランダのナーランダ・マハーヴィハーラの考古遺跡(インド)」
[関連サイト]
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次回は大帝国・漢と魏晋南北朝時代を紹介します。