世界遺産と世界史36.オランダと北欧世界
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<オランダの世紀>
オランダの版図の推移
■オランダの独立
オランダ南部、ベルギー、フランス北東部周辺はフランドル(フランダース)地方と呼ばれていました。
フランスや神聖ローマ帝国、イギリスといった大国の間でつねに綱引きが行われるとても豊かな土地でした。
1337~1453年の百年戦争を通してブルゴーニュ公はフランドル伯を兼ねるようになり、フランドル伯領はブルゴーニュ公国に吸収されました。
1477年、ブルゴーニュ公シャルルが亡くなると直系男子がいなかったことから公女マリーが相続します。
そしてマリーは結婚相手として幼なじみのハプスブルク家・マクシミリアン(後の皇帝マクシミリアン1世)を選びます。
この結婚を通してフランドルはハプスブルク帝国領となり、その後北部のネーデルラントとともにスペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世の下に入ります(スペイン領ネーデルラント)。
スペイン領ネーデルラントでは都市が発達し、都市は貴族の支配を逃れて自由な貿易を推進し、宗教においては主としてプロテスタントのカルヴァン派(乞食党ゴイセン)が信仰されていました。
しかし、フェリペ2世はローマ・カトリックを強要して恐怖政治を敷き、自治権を制限して重税を課したため、オランダ独立戦争(ネーデルラント独立戦争/八十年戦争)が勃発します。
旧教徒の多い南部10州(ベルギーの原型)はフェリペ2世と和平を結んで戦争から撤退しますが、北部7州はオラニエ公ウィレムを総督に立ててユトレヒト同盟を結び、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言します。
結局戦争はイギリスの参戦もあってスペインの敗北で終わり、オランダは実質的に独立。
正式には三十年戦争後、1648年のウェストファリア条約で独立が承認されます。
■オランダ海上帝国
スペインやポルトガルでカトリック化政策が進むと、大商人たちはオランダに移住を開始します。
また、フランスでユグノー戦争が起こると、フランスの商工業者も追随。
さらにスペイン領ネーデルラントに留まることになった南部十州から毛織物業者やアントウェルペン(アントワープ)の金融業者が流出し、オランダには西ヨーロッパや南ヨーロッパの有力市民が集結してオランダの繁栄を後押しします。
オランダ独立戦争でスペインとの香辛料貿易が途絶えたため、またスペインの海上覇権を妨害するために、オランダはアジアとの直接取引に参入します。
16世紀後半にはジャワ島にまで到達し、1602年にオランダ東インド会社を設立。
1609年には平戸に商館を設立し、長崎の出島で日本とヨーロッパで唯一、貿易を行いました。
当時、香辛料の生産地といえば香辛料諸島といわれたモルッカ諸島です。
ポルトガルがこの地を占領していたのですが、17世紀前半にオランダがこれを駆逐。
その後イギリス東インド会社も進出しますが、1623年にイギリス人らを処刑して排除し、これを阻止しました(アンボイナ事件)。
こうして東南アジア島嶼部の多くをオランダが押さえます。
さらに、オランダはアメリカ大陸にも進出して奴隷貿易に参入。
1621年に西インド会社を設立し、ニューネーデルラント植民地やキュラソー島①を確保しました。
そしてまた、オランダは東インド会社と西インド会社の中継地点として南アフリカにケープ植民地を設置し、中心都市ケープタウン②を建設しています。
これ以外にもオランダは台湾やスリナム(主要都市パラマリボ③)、セイロン(主要港ゴール④)、ブラジルのオリンダ⑤、アフリカのギニア海岸⑥など、世界各地に植民地を確保して海上帝国を築きました。
※①世界遺産「ウィレムスタット歴史地域:キュラソーのインナー・シティと港(オランダ)」
②世界遺産「ケープ植物区保護地域群(南アフリカ)」
③世界遺産「パラマリボ市街歴史地区(スリナム)」
④世界遺産「ゴール旧市街とその要塞群(スリランカ)」
⑤世界遺産「オリンダ歴史地区(ブラジル)」
⑥世界遺産「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ)」
■オランダの国土開発
アムステルダムには各地から流入した金融業・商工業・毛織物業者たちが集結し、オランダ海上帝国の貿易拠点、あるいは金融センターとして急速に発展しました。
17世紀には街に環状運河①を張り巡らせて水上都市を整備。
18世紀には要塞線②で町を取り囲み、難攻不落の水上要塞都市が完成しました。
オランダは国土の1/3が海水面より低いことでも知られています。
そのため干拓地(海や湖沼の水深の浅い場所を堤防で区切って陸地化した土地)を造り、風車などを利用して継続的に排水することでこの地での生活を勝ち取りました。
これは 「まことに世界は神がつくり給うたが、オランダだけはオランダ人がつくったということが、よくわかる」(司馬遼太郎『オランダ紀行』)という言葉に表されています。
もっとも有名な風車施設がキンデルダイク・エルスハウトの風車③で、オランダ最古の干拓地がベームステル④、島周辺の海を干拓地に再生したのがスホクラント⑤です。
※①世界遺産「アムステルダムのシンゲル運河内の17世紀の環状運河地区(オランダ)」
②世界遺産「オランダの水利防塞線群(オランダ)」
③世界遺産「キンデルダイク・エルスハウトの風車群(オランダ)」
④世界遺産「ドゥローフマーケライ・デ・ベームステル[ベームステル干拓地](オランダ)」
⑤世界遺産「スホクラントとその周辺(オランダ)」
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<北欧世界の展開>
北ヨーロッパの版図の推移。同君連合(二重王国)や同盟などの場合は同じ色で名前のみ記されています。左側の海が北海、半島に囲まれた中央下の海がバルト海です。Denmark=デンマーク、Norway=ノルウェー、Sweden=スウェーデン、Novgorod=ノヴゴロド、Russia=ロシア、Finland=フィンランド
■北海帝国、カルマル同盟
北ヨーロッパでは11世紀頃、ユトランド半島にデンマーク、スカンジナビア半島にノルウェー、スウェーデンが成立していました。
11世紀前半にデンマーク王太子クヌートがクヌート1世としてイングランド王に就くと、デンマーク王・ノルウェー王の王位にも就いて北海帝国を成立させます。
最盛期には北海沿岸の多くを支配しましたが、帝国はわずか7年で崩壊しました。
14世紀にはデンマークの摂政マルグレーテ1世が主導して姉の娘の息子にあたるエーリヒ(デンマーク王エーリク7世)をノルウェー、スウェーデン、デンマークの王位に就かせ、1397年に3国によるカルマル同盟が成立します。
3国はそれぞれ対等とされましたが、実質的にはマルグレーテ1世が支配するデンマークを盟主とする同君連合でした。
カルマル同盟の象徴的な建物がクロンボー城①です。
北海とバルト海を結ぶエーレスンド海峡に突き出したシェラン島北東端に建てられた要塞で、ここを通る船舶から海峡通行税を徴収する目的でエーリク7世が1425年頃に前身となる砦を建設し、1574~85年にフレデリク2世が王宮を兼ねる城塞を備えたルネサンス様式の城に建て直しました。
1523年にスウェーデンがカルマル同盟を離脱しますが、2か国は20世紀までデンマーク=ノルウェー二重王国として同じ君主を掲げる同君連合を継続します(主体はデンマークなので、以下デンマークとのみ表記します)。
デンマークにはプロテスタントが浸透し、17世紀には東インド会社を作って重商主義を進めて西アフリカやインド・カリブ海に進出します。
デンマークの中心的な教会堂がマルグレーテ1世らが埋葬されているロスキレ大聖堂②です。
もともとローマ・カトリックの教会堂でしたが、クリスチャン3世が宗教改革を進めて1530年代にプロテスタントのルター派の教会堂に改修されています。
※①世界遺産「クロンボー城(デンマーク)」
②世界遺産「ロスキレ大聖堂(デンマーク)」
■バルト帝国
カルマル同盟を離脱し、デンマークの支配から脱したスウェーデンはグスタフ・バーサを国王として独立(バーサ朝)します。
そしてプロテスタント国となり、フィンランドを領有しました。
スウェーデンが強国となるのは17世紀のことです。
国王グスタフ・アドルフはデンマークやポーランド=リトアニア、ロシアと戦い、三十年戦争にも参戦して獅子奮迅の活躍を見せ、「北方の獅子」の異名をとります。
三十年戦争の最中に没しますが、その後は娘のクリスチーナ女王が国をまとめ、現在のスウェーデン、ノルウェーの一部、フィンランド、エストニア、ラトビア、ドイツ北部の一部を領有してバルト海沿岸を制圧。
バルト帝国を成立させます。
世界遺産でいえばカールスクローナ①がスウェーデン海軍の軍港にあたり、造船所を中心に17~18世紀の街並みが残っています。
ドロットニングホルム②は「北欧のヴェルサイユ」の異名を持つ宮殿で、1744年に建設され、バルト帝国の繁栄を見せつけました。
※①世界遺産「カールスクローナの軍港(スウェーデン)」
②世界遺産「ドロットニングホルムの王領地(スウェーデン)」
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<ポーランド>
ポーランドの版図の推移。白いワシがポーランド、白騎士がリトアニア、混じり合ったものがポーランド=リトアニア連合王国(1569年以降はポーランド=リトアニア共和国)の国章を示しています
■ポーランド=リトアニア連合王国
ポーランド史を概観しておきましょう。
10世紀、スラヴ系ポラニエ人のミエシュコ1世がポーランドを統一し、首都をクラクフ①に置いてピアスト朝を建国します。
続くボレスワフ1世はキリスト教を受け入れて、教皇よりポーランド王の認定を受けました。
こうしてポーランドはプロテスタントの北ヨーロッパ諸国と異なり、ローマ・カトリックを信奉していきます。
1241年、バトゥ率いるモンゴル帝国が襲来。
クラクフは落城し、同年4月9日のリーグニッツの戦い(ワールシュタットの戦い)でヨーロッパ連合軍とともに惨敗を喫し、壊滅的な被害を受けました。
1384年にハンガリー・アンジュー家のヤドヴィガが女王になります。
翌年、クレヴォ合同が合意され、リトアニア大公国との同君連合やリトアニア大公ヨガイラとの結婚、リトアニアのキリスト教への改宗などが定められました。
これによりポーランド=リトアニア連合王国が成立し、キリスト教に改宗したヨガイラが王位に就いてヴワディスワフ2世に改名し、ヤギェウォ朝がスタートしました。
15世紀後半、ポーランド=リトアニアはハンガリーとボヘミア(ベーメン。現在のチェコ西部)を押さえてバルト海から黒海にかけての多くを支配して黄金時代を築きます。
しかし、オスマン帝国のスレイマン1世がヨーロッパに進出すると、1526年のモハーチの戦いでオスマン軍に大敗し、ハンガリーとボヘミアはオスマン帝国の手に渡り、やがてオーストリアに割譲されます。
1569年のルブリン合同によってポーランド王国とリトアニア大公国は正式に統一することになり、同君連合ではなく選挙で同じ君主を立てる共和国となりました。
こうしてポーランド=リトアニア共和国が成立しましたが、実質的にはポーランドによるリトアニアの併合でした。
この頃のポーランド=リトアニアに関する世界遺産としては、ポーランド経済を塩で支えたヴィエリチカやボフニャの岩塩坑③、16世紀に建設されたルネサンス都市ザモシチ④、ドイツ騎士団の町でポーランド領となったトルニ⑤、リトアニアの中央に位置する要衝ヴィルニュス⑥などがあります。
※①世界遺産「クラクフ歴史地区(ポーランド)」
②世界遺産「ワルシャワ歴史地区(ポーランド)」
③世界遺産「ヴィエリチカ・ボフニャ王立岩塩坑(ポーランド)」
④世界遺産「ザモシチ旧市街(ポーランド)」
⑤世界遺産「中世都市トルニ(ポーランド)」
⑥世界遺産「ヴィルニュス歴史地区(リトアニア)」
[関連サイト]
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次回は三十年戦争とイギリス革命を紹介します。