世界遺産と世界史46.アジアの衰退
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<オスマン帝国の衰退>
■ヨーロッパでの連敗
17世紀後半、オスマン帝国の衰退がはじまります。
そのはじまりが1683年の第2次ウィーン包囲です。
オスマン帝国はフランスのルイ14世から援軍を出さないという中立の確認を得て、神聖ローマ帝国の帝都ウィーン①②を包囲します。
しかし、ポーランド=リトアニアなどの活躍でオスマン軍の不敗神話に終止符が打たれると敗走を重ね、結局1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー、トランシルヴァニア、スロベニア、クロアチアなどをオーストリアに割譲します。
さらにアジア系のタタール人国家クリミア・ハン国を巡って第1次ロシア=トルコ戦争(1768~74年)、第2次ロシア=トルコ戦争(1787~92年)に敗れ、オスマン帝国はロシアのクリミア半島領有を許します。
1821年のギリシア独立戦争(~29年)ではナヴァリノの海戦でイギリス、フランス、ロシアの3か国連合艦隊に敗れ、1832年のコンスタンティノープル条約でギリシアの独立が正式に認められました。
この戦争でオスマン帝国から要請を受けて参加していたエジプト総督ムハンマド・アリーは、戦後クレタ島とキプロス島を獲得し、さらにシリアを要求して第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33年)、第2次エジプト=トルコ戦争(1839~30年)を起こします。
オスマン帝国はイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンの支援を受けて勝利し、なんとかシリアを守りました。
※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
②世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
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■ロシア=トルコ戦争
1851年、オスマン帝国内部で発言権を強める正教徒たちは、ロシアの支援を得てフランスが保持していたエルサレム※の管理権をオスマン帝国から手に入れます。
翌年、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に迫って聖地管理権を回復すると、ロシアのニコライ1世は聖地管理権と正教徒の保護を名目にクリミア戦争(1853~56年)を開始します。
オスマン帝国はロシアの南下政策を警戒するイギリス、フランス、サルデーニャ王国の支援を受けて攻勢を強め、1855年にクリミア半島のセヴァストーポリ要塞を攻略。
オーストリアの参戦もあってオスマン帝国の勝利に終わり、1856年のパリ条約でロシアの海峡通航が禁止されました。
1875年にボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリアの正教徒がオスマン帝国に対して反乱を起こすと、セルビアやモンテネグロの正教徒がこれを支持。
いずれもスラヴ人であることから同じスラヴ系のロシアがパン=スラヴ主義の下で保護に回り、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)がはじまりました(1877~78年)。
この戦いはロシアの勝利で終わり、1878年のサン=ステファノ条約で黒海沿岸の領土をロシアに割譲し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立を認め、ブルガリア公国が自治公国とされました。
ロシアは事実上ブルガリアを保護国とし、そのブルガリアは黒海からエーゲ海に達する巨大な領土を獲得。
これにイギリスやオーストリア=ハンガリーが反発し、同年のベルリン条約で調整され、ブルガリア公国はエーゲ海沿いの領土を縮小されてオスマン帝国内に留まることとなり、代わりにセルビア、モンテネグロ、ルーマニアの独立は認められました。
この際、オーストリア=ハンガリーはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を得て、イギリスはキプロス島を獲得しています。
※世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
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■瀕死の病人
こうしてオスマン帝国はヨーロッパの領土の半分以上を失い、「瀕死の病人」といわれるほどに弱体化しました。
近代化の遅れから没落が進むオスマン帝国は、その危機感から19世紀中盤にアブデュル・メジト1世がタンジマート(恩恵改革)を断行。
ギュルハネ勅令を出して法治主義の下で帝国民の諸権利を定め、宗教にかかわらず法の下の平等を認めました。
近代化を進めたいオスマン帝国は英仏から資金を借り入れて鉄道を敷設し、産業を振興。
ところが1838年にトルコ=イギリス通商条約を締結して以来、ヨーロッパの工業製品が流入し、国内の産業が打撃を受けて衰退します。
クリミア戦争に敗れるとさらなる近代化が求められ、1876年、宰相ミドハトがアジア初の憲法であるミドハト憲法を発布して立憲君主政に移行。
ところが翌年ロシア=トルコ戦争がはじまるとアブデュル・ハミト2世はミドハトを追放し、議会を解散して憲法も停止してしまいます。
こうして専制政治を復活させると同時にパン=イスラム主義を唱えてイスラムの団結を図り、立憲主義者やキリスト教徒を弾圧しました。
こうした圧政や衰退を前に、トルコ人青年を中心に青年トルコが結成され、1889年にイスタンブール進撃を開始します。
アブデュル・ハミト2世は軍を派遣して鎮圧にかかりますが、軍が寝返ったことで失敗。
1908年に要求を認めてミドハト憲法を復活させますが(青年トルコ革命)、翌年退位が可決され、メフメト5世がその跡を継ぎました。
オスマン帝国はこのあと立憲政治を支持する派閥と皇帝による専制政治を支持する派閥に分かれ、政権の奪い合いが続きます。
■エジプトの独立運動
この頃、エジプトもトルコと同様に近代化と相次ぐ戦争、ヨーロッパ製品の流入によって莫大な債務を抱えてほとんど財政破綻に陥っており、1860年代以降はイギリス、フランスの財政管理を受けていました。
当時エジプトでもっとも重要な国家事業だったのが地中海と紅海、ひいては大西洋とインド洋を結ぶスエズ運河の建設です。
第4代エジプト総督サイード=パシャはフランス人技師レセップスに開削権を与えると、レセップスはスエズ運河株式会社を設立して1859年に着工。
1869年に全長167kmに及ぶ大運河が完成します。
スエズ運河は完成したものの、イギリス、フランスとは不平等条約を締結しているため関税自主権がないなど不利な状況で、エジプトの財政は困窮を極めました。
1875年、仕方なくイギリスにスエズ運河会社の株式を売却。
それでも財政は好転せず、1876年に破綻してエジプトは完全に英仏両国の管理下に入ります。
スエズ運河においてエジプトの民衆は過酷な労働に従事し、工事中の死者は2万人に達したといわれています。
利益を吸い上げるイギリス、フランスに対する不満は膨れ上がり、ウラービー革命(1881~82年)となって爆発します。
陸軍大佐ウラービーは1881年、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに、アラブ人による立憲政府の樹立を目指して武装蜂起。
エジプト政府はウラービーを大臣に昇格させ、憲法を制定した後、議会の開設を決定して民主化を進めます。
革命は成功したかに思われたが、1882年、イギリス軍がアレクサンドリア※に上陸して武力鎮圧を開始。
エジプトを占領すると実質的に支配下に収め(正式に保護国にするのは1914年)、ウラービーはセイロン島に流されました。
※エジプトの世界遺産暫定リスト記載
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<ムガル帝国の滅亡>
■インド植民地戦争
ムガル帝国は第6代皇帝アウラングゼーブの死後、急速に衰退しました。
中央のデカン高原をマラータ王国を中心としたヒンドゥー連合・マラータ同盟が支配し、北部をシク教徒のシク王国、西部をラージプート族、東部をベンガルが押さえ、ムガル帝国にはデリー①②③周辺のみが残されました。
代わって急速に勢力を伸ばしていたのがイギリスとフランスです。
18世紀、世界各地で覇権を争っていた両国ですが、ヨーロッパで起きた七年戦争(1756~63年)、アメリカ大陸のフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)、インドのカーナティック戦争(第1次:1744~48年、第2次:1750~54年、第3次:1758~61年)、プラッシーの戦い(1757年)でフランスは著しく疲弊。
1763年のパリ条約で北アメリカの植民地をほとんど失い、イギリスによるアメリカとインド支配が確定しました。
こうしたイギリスの勢力拡大に対抗したのが南のイスラム政権・マイソール王国、中央のヒンドゥー連合・マラータ同盟、北のシク教国・シク王国ですが、それぞれマイソール戦争(1767~99年)、マラータ戦争(1775~1818年)、シク戦争(1845~49年)でイギリスに敗れました。
※①世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」
②世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド)」
③世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」
④世界遺産「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅[旧名ヴィクトリア・ターミナス](インド)」
⑤世界遺産「ムンバイのヴィクトリア・ゴシック様式とアール・デコ様式の建造物群(インド)」
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■インド支配体制の確立
イギリスはこれらの戦争に勝利し、19世紀半ばにはインド全体の支配権を確立しました。
そしてインドの富を吸収するために税制の改革を断行。
ザミンダーリー制では地主に徴税権を与えて農民から地代を徴収させ、ライヤットワーリー制では農民に土地所有権を与えて直接地代を徴収しました。
いずれにせよ地代はきわめて高く、拷問を含む取り立てを行ったことから農民の生活は困窮しました。
農業においても、イギリスは農民にインド国内、あるいは中国などの市場で売れる作物、たとえば染料となる藍や麻薬であるアヘンの原料となるケシを栽培させました。
税制や農作物の変更によって農業を中心とした農村の共同体的な生活は崩壊し、食料生産も減ったことから貧困層が増え、たびたび飢饉が起こりました。
イギリス東インド会社はこうした徴税権を背景にインド統治を取り仕切りました。
ただ、徐々に自由貿易を求める声が高くなり、イギリス東インド会社の貿易独占権は削減され、1834年には商業活動そのものを停止し、統治機構として植民地行政にあたりました。
イギリスは当初インドから手織りの綿織物=キャラコを買って輸入していましたが、キャラコの輸入が禁止されたこともあって綿花の輸入に移行。
やがてイギリスで安価な機械織綿織物が生産されるようになると逆にインドに輸出するようになり、インドの綿織物業は大打撃を受けました。
こうしてイギリスの貿易の主軸は、「イギリス→(綿織物)→インド→(銀・アヘン)→中国→(茶)→イギリス」という三角貿易へ移行しました。
■イギリス領インド帝国
インドが疲弊する中で、シパーヒー(セポイ)をきっかけとする大反乱が起こります。
シパーヒーは東インド会社が持つ軍のインド人傭兵で、イスラム教徒やヒンドゥー教徒で構成されていました。
彼らが使用する新式銃の弾薬包には牛脂や豚脂が塗布してあり、これを噛み切る必要がありました。
ところがイスラム教徒にとってブタは不浄の動物であり、ヒンドゥー教徒にとってウシは神聖な動物で、口に含むことは許されませんでした。
こうした宗教上の理由に加え、藩王国が取り潰されたことに対する不満や、インドの風習などを禁止・改編する政策への反発、待遇問題などもあって、東インド会社に対する不満は高まりました。
シパーヒーたちは1857年に武装蜂起するとデリー城=レッド・フォート(ラール・キラー)①を占領してムガル帝国のバハードゥル・シャー2世を皇帝に擁立。
イギリスに不満を持つ藩王国や「インドのジャンヌ・ダルク」の異名を持つラクシュミー・バーイーの反乱なども加わってインド大反乱へと発展します。
しかし、大反乱とはいっても統制は取れておらず、バハードゥル・シャー2世も一応は皇帝擁立を認めたものの協力的ではありませんでした。
イギリス軍はこうしたほころびを突き、民族間・宗教間・カースト間の対立を煽って内部分裂を誘い、シク教徒やネパールのグルカ兵の協力を取りつけて反撃に出ます。
イギリス軍がデリーを包囲して虐殺・略奪・破壊行為を繰り返すなか、バハードゥル・シャー2世はフマユーン廟②に避難しているところを捕らえられました。
そして1858年にムガル皇帝を廃位してビルマ(現在のミャンマー)に流され、ムガル帝国は滅亡します。
そしてイギリスは東インド会社を解散させ、1877年にヴィクトリア女王を皇帝としてインド帝国を建国。
イギリス領インド帝国が成立します。
※①世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」
②世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」
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■インド分割統治
インドではイギリスの支配が進み、人々の生活は困窮していきます。
このためイギリスは1885年に不満のはけ口としてインド人の意見を集約するインド国民会議を設置します。
1905年、ベンガル地方で民族運動が活発化したことから、イギリスはヒンドゥー教徒とイスラム教徒を分断するためにベンガル地方をイスラム教徒が多い東部(現在のバングラデシュ)とヒンドゥー教徒が多勢な西部に分けるベンガル分割令を発布します。
しかし、これがかえって反発を呼び、それまで穏健だったインド国民会議の中にヒンドゥー教徒の急進派ティラクらが台頭して反対と独立を呼びかけます。
1906年にインド帝国の首都カルカッタ(現在のコルカタ)で開催された大会では、英貨排斥・スワデーシ(国産品愛用)・スワラージ(自治)・民族教育の4綱領を掲げ、イギリスに自治を要求。
イギリスは急進派を弾圧しつつ穏健派を支援し、さらにイスラム教徒に接近して全インド=ムスリム連盟を結成させ、両宗教の分断を進めます。
こうした分割統治とインド人の政治参加を認めるなどの妥協案を巧みに使い分けてガス抜きを行い、運動は下火になりました。
イギリスは1911年に分割令を撤回し、インド帝国の首都をカルカッタからデリーに遷し、ニューデリーを建設しました。
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<東南アジアの衰退>
■オランダ領東インド
東南アジアではイギリス、フランス、オランダが勢力を争っていました。
海洋で覇を唱えていたのがオランダです。
1623年のアンボイナ事件でイギリスを排除し、スマトラ島やジャワ島からなる大スンダ列島、バリ島やコモド島からなる小スンダ列島、ボルネオの大半、モルッカ諸島などを支配しました。
オランダはジャワ島にバタヴィア※(現在のジャカルタ)を建設してオランダ東インド会社の拠点とし、ジャワ島を治めるマタラム王国と平和条約を締結します。
17世紀以降、マタラム王国は内紛を繰り返し、18世紀半ばにふたつに分裂して自治区となって消滅。
オランダは東インド会社を解散させるとオランダ領東インドとしてオランダ政庁による直接統治を開始します。
オランダ政庁は作物の買い取り価格を一方的に取り決めたり、王族や貴族らによる土地貸借を禁じたりしたためさまざまな層の反発を買い、1825年にジャワ戦争が勃発(~1830年)。
指導者ディポネゴロを捕らえて鎮圧すると、財政立て直しのために畑や作物・生産量・農民の人数などを指定する強制栽培制度を制定しました。
これによりオランダは莫大な利益を上げますが、人々の生活は困窮し、食糧不足から飢饉が頻発しました。
※インドネシアの世界遺産暫定リスト記載
■イギリス海峡植民地
イギリスはマレー半島に進出し、ジョージタウン①、ムラカ①、シンガポール②という3つの海峡植民地を中心にマレー半島の支配を確立。
3港を自由港として関税を撤廃したことからインド商人や中国商人が集まって繁栄しました。
3都市はイギリス直轄植民地でしたが、やがてマレー半島の全域にわたる領域的な支配に移行し、1895年にはマレー連合州を成立させて保護国とします。
マレー連合州ではスズ鉱山の経営や、コーヒーやゴムのプランテーションを開発してクーリー(苦力。契約移民)と呼ばれるインド人・マレー人・中国人労働者を投入。
これにより現在に至る多民族文化が浸透していきます。
※①世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の歴史都市群(マレーシア)」
②世界遺産「シンガポール植物園(シンガポール)」
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■ミャンマーとタイの動向
ビルマ(ミャンマー)ではコンバウン朝が成立しています。
1824年、コンバウン朝がインド北東部のアッサムを占領し、ベンガルに侵入したのに対してイギリス軍が反撃。
これを機に3次にわたるビルマ戦争(1824~86年。英緬戦争)が勃発します。
第3次ビルマ戦争でコンバウン朝はインドシナ半島で勢力を広げるフランスと同盟を結ぼうと画策しますが、これを理由にイギリスに攻め込まれ、1886年に首都マンダレー※が落城して滅亡しました。
これによりミャンマーはイギリス領インド帝国に併合されています。
タイ(シャム)ではバンコクを首都にチャクリー朝(バンコク朝)が成立していました。
貿易についてはかなり閉鎖的な政策を採っていましたが、イギリスやフランスによって開国圧力が上昇。
1855年、イギリスはチャクリー朝のラーマ4世とボウリング条約を結び、自由貿易や低い関税率、治外法権などを認めさせると、アメリカ、フランス、オランダなども同様の不平等条約を締結しました。
続くラーマ5世(チュラロンコーン)はタイを挟むイギリスとフランスの対立を巧みに利用。
その結果、1896年に両国はタイを緩衝地帯として残すことを決定し(英仏宣言)、チャクリー朝は独立を保つことに成功します。
※ミャンマーの世界遺産暫定リスト記載
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■フランス領インドシナ
ベトナムではグエン・フック・アイン(阮福暎)がフランス人宣教師ピニョーやタイのアユタヤ朝の支援を得て1802年にグエン朝(阮朝)を興します。
1804年に清から越南王に任ぜられますが、自らは皇帝を称してザロン帝を名乗りました。
1805年、首都フエ①にヴォーバン様式の星形要塞を造らせ、内部に北京の紫禁城②③を3/4に縮小した王宮を建設。
グエン朝はこのように中国とフランスの先進的な文化を導入して近代化を図りました。
中国とフランスを利用しようとしたグエン朝ですが、フランスは次第に介入を強化。
これを嫌った第2代皇帝ミンマン帝(明命帝)はフランスと断絶し、鎖国を実施します。
グエン朝はキリスト教宣教を禁止していましたが、フランス人宣教師がしばしば鎖国を破って潜入し、宣教を図ります。
グエン朝がこれを弾圧すると、宣教師殺害を口実にナポレオン3世が軍を進めて1858年にベトナム中部の港町ダナンを占領(1858~62年、インドシナ出兵/仏越戦争)。
ベトナムにこれを排除する力はなく、1862年のサイゴン条約でメコン川下流をフランスに割譲し、メコン川の通航権を認めました。
フランスは翌1863年にカンボジアを保護国化しています。
フランスは1883年と1884年にグエン朝とフエ条約を結んで保護国化しますが、宗主国である清はこれを認めず清仏戦争(1884~85年)が勃発。
清の優勢で進みますが、清朝は日本や朝鮮王朝(李氏朝鮮)との政情が不安定化していたことから講和を急ぎ、1885年に天津条約を締結します。
これによりベトナムの宗主権を失い、ベフランスによる保護国化が認められました。
フランスは1887年にベトナムとカンボジアからなるフランス領インドシナ連邦を成立させ、1899年にはラオスを組み込んでいます。
※①世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」
②世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
③世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
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