世界遺産と世界史25.隋・唐・宋の時代
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<隋唐帝国>
■隋
隋の版図の推移
約300年間続いていた魏晋南北朝時代にピリオドを打ち、久しぶりに中国を統一するのが隋です。
577年、北周は北斉を倒して北朝を統一。
このとき戦功を挙げて要職に就いたのが漢民族の楊堅(ようけん)です。
楊堅は581年、首都を大興(長安①)に置いて隋を建国(以下、楊堅を文帝と表記)。
589年には南朝の陳を滅ぼして晋以来の中国統一を果たします。
文帝は南北で分断された中国の政治・経済・文化を統一するために、黄河と長江、華北と華中・華南を結ぶ京杭大運河②の建設を進めました。
この大運河 "Grand Canal" は万里の長城 "Great Wall" と並ぶ中国屈指の大事業。
数百万の農民を動員し、国家が傾くほどの費用が投入されました。
そして文帝の次男・煬帝(ようだい)の時代に約2,500kmに及ぶ運河が完成しました。
文帝は中国を統一した後、テュルク系(トルコ系)の北方遊牧民族国家・突厥(とっけつ)を攻撃。
隋による離間の策によって突厥は東突厥と西突厥に分裂し、東突厥は隋に朝貢します。
607年に日本の推古天皇が小野妹子を遣隋使として煬帝の下に派遣しています。
その時親書に「日出處天子致書日沒處天子」(日の出ずる所の天子、日の没する所の天子に書を送る)と記し、煬帝の怒りを買ったといいます(『隋書』)。
その理由ですが、天帝の天命を受けた者であるところの「天子」の称号を使っていたためといわれています。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「中国大運河(中国)」
■唐
唐の版図の推移
隋の公共政策や外征は多岐にわたりましたが、財政を圧迫し、各地で反乱が頻発しました。
そんな中、突厥討伐や高句麗遠征で活躍した唐の国の将軍で煬帝のいとこでもある李淵(りえん)が混乱を収拾した後、617年に大興に入ります。
そして煬帝が暗殺されると楊侑から禅譲(皇位を譲ること)を受け、618年、皇帝位に就きます(以下、李淵を高祖と表記)。
唐のはじまりです。
高祖は次男・李世民の活躍もあって次々と反乱を鎮め、中国を再び平定。
李世民は長男・李建成と四男・李元吉を殺害して第2代皇帝に就きます(以下、太宗と表記)。
太宗が行った一連の内政改革を「貞観の治」と呼びます。
太宗と第3代・高宗の時代に内政・外交は安定し、唐の繁栄の礎が築かれました。
外交について、唐は冊封体制を強化して周辺各国と結びつきを強めました。
冊封とは、天にいる神を天帝、天帝から地上を治める天命を受けた天子を皇帝とし、天に仕える者として君臣の関係を結ぶこと。
各地の王や領主は唐に朝貢(貢ぎ物を贈ること)する代わりに皇帝からも返礼の品物と官位を受け、侵略された際には援軍を頼むことができました。
こうした国を冊封国と呼び、朝貢貿易のみを行う国を朝貢国といいます。
たとえば新羅(しんら)、渤海(ぼっかい)、南詔、東突厥、ウイグル、吐蕃(とばん)は冊封国で、日本やチャンパー、シュリーヴィジャヤ朝、真臘(しんろう)は朝貢国です。
さらに、太宗はチベットを治める吐蕃に対して皇女・文成公主(ぶんせいこうしゅ)を嫁入りさせて姻戚関係を築きました。
この文成公主が吐蕃の首都ラサで築いた寺がラモチェ(小昭寺)で、同時期にトゥルナン寺(大昭寺。本堂はジョカン)①も築かれています。
同様に東突厥、ウイグル(首都オルドゥバリク②)に対しても公主(皇帝の娘)を降嫁させ、関係を強めました。
突厥については7世紀に太宗が東突厥、高宗が西突厥を破って版図に収めています。
また、太宗・高宗は隋以来、敵対関係にあった高句麗③④遠征を行い、高宗は朝鮮半島南東部の新羅(首都・金城⑤)と結び、高句麗とその同盟国・百済⑥を侵略。
まず百済が滅び、続いて高句麗が668年に滅亡します。
そして高句麗滅亡後、唐は平壌に安東都護府を置き、中央から役人を送り込んで統治しました。
唐はこうして征服地に都護府(とごふ)を置き、中央監視の下である程度の自治を認めました(羈縻(きび)政策)。
最初に安西都護府が置かれた都市が交河⑦、移転先が高昌⑦と考えられており、安南都護府が置かれていた場所に立つ王城跡がベトナム・ハノイのタンロン⑧です。
※①世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国)」
②世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル)」
③世界遺産「古代高句麗王国の首都と古墳群(中国)」
④世界遺産「高句麗古墳群(北朝鮮)」
⑤世界遺産「慶州歴史地域(韓国)」
⑥世界遺産「百済歴史地域(韓国)」
⑦世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
⑧世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム)」
[関連サイト]
世界遺産と建築22 仏教建築2:大乗仏教編(東南アジア、チベット、ネパール)
■武韋の禍
高宗の時代、その実権は皇后・武照(以下、武后)の一族である武氏に握られており、皇后・皇太后が摂政(せっしょう。幼い君主に代わって政務を司る役職)となって政治を取り仕切る垂簾聴政(すいれんちょうせい)に陥っていました。
690年、睿宗の時代には聖神皇帝を名乗って自ら帝位に就いてしまいます(周の建国)。
中国史上唯一の女性皇帝の誕生です(以下、武則天)。
武則天は熱心な仏教徒でもあり、龍門※に奉先寺を建立し、自分の顔に似せたといわれる本尊・盧舎那仏(るしゃなぶつ)を造営しました。
しかし、一族による恐怖政治に対する反発は強く、張柬之(ちょうかんし)らによって側近を殺され、監禁された後、廃位されました。
705年、張柬之らは中宗を立てて唐を再興します。
ところが、その中宗を操っていたのは皇后・韋氏(いし)の韋后。
韋后は武則天にならい、自ら皇帝になる布石として夫である中宗を毒殺して殤帝(しょうてい)を擁立しますが、結局韋后も中宗一族の反乱を受けて殺害され、殤帝は睿宗に譲位します。
武則天、韋后によって混乱した一連の事件を「武韋の禍(か)」といいます。
※世界遺産「龍門石窟(中国)」
[関連記事]
■安史の乱
こうした混乱を収めたのが玄宗です。
玄宗は農民を軍人として雇う募兵制を開始し、異民族に対する辺境防備にあててその指揮官として節度使(せつどし)を置きました。
一時的ではありますが、玄宗は軍人優位の武断政治によって安定を取り戻します(開元の治)。
玄宗の治世に起こったアッバース朝との戦いが、751年のタラス河畔の戦いです。
安西節度使・高仙芝(こうせんし)はタリム盆地以西の西域を治めていましたが、中央アジアの支配権を巡ってアッバース朝と対立。
天山山脈①②近くのタラス河畔で唐の軍勢は散々に打ち破られました。
この戦いの後、中国人捕虜を介して製紙法がアッバース朝に伝わったとされ、サマルカンド③で製紙が行われています。
玄宗は治世後期になると「傾国の美女」「中国4大美女のひとり」といわれる楊貴妃(ようきひ)を溺愛します。
このため楊氏の台頭を許し、楊国忠らの専横がはじまります。
一方で玄宗は節度使である安禄山を重用。
この頃、北方諸民族に対する国境防備の役割を果たすために軍事力を増強させた節度使たちは膨大な力を蓄えており、特に安禄山は3か所の節度使を兼任し、中央をはるかに超える力を手にしていました。
安禄山は楊貴妃の養子になるほど玄宗・楊貴妃に愛されましたが、やがて要職を独占する楊国忠ら楊氏と対立。
失脚を恐れた安禄山は755年に反乱を起こし、長安④に入城します(安史の乱)。
玄宗は長安を去って蜀の地へ避難。
この乱を招いた楊貴妃、楊国忠ら楊一族をことごとく殺害し、自らも帝位を粛宗に譲位します。
757年に安禄山が暗殺されると、反乱軍は複数に分裂。
史思明が跡を継ぐも統率はとれず、長安は略奪を受けて徹底的に破壊されてしまいます。
※①世界遺産「新疆・天山(中国)」
②世界遺産「西天山(ウズベキスタン/カザフスタン/キルギス)」
③世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン)」
④世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
[関連サイト]
■五代十国時代
五代十国の盛衰。Later Liang=後梁、Later Tang=後唐、Later Jin=後晋、Later Han=後漢、Later Zhou=後周、Northern Song=宋(北宋)
唐はウイグルより援軍を受けて長安※や洛陽※の奪還に成功し、763年にようやく乱を鎮圧します。
乱は収めましたがこれ以後ウイグルや吐蕃、南詔といった諸民族がしばしば唐に侵入。
また地方の節度使は藩鎮(諸侯。大名)として半ば独立し、強力な地方政権として君臨しました。
これらを押さえ込む力は唐にはすでにありませんでした。
9世紀には次々と反乱が起き、875年には塩の密売人・黄巣が反乱を起こします(黄巣の乱)。
乱が乱を呼んで全国に拡大し、ついに黄巣は長安を落とします。
黄巣は帝位に就こうとしましたが反乱軍には統率がなく、長安で略奪を働き、貴族をことごとく殺害した後、撤退。
そんな中で黄巣の武将・朱全忠は唐に寝返り、長安を奪還します。
節度使となった朱全忠は実権を握り、長安が荒廃していたこともあって皇帝・昭宗に洛陽遷都を強要。
そして貴氏をはじめとする唐の高官を殺害・左遷して一掃し、907年には哀帝から禅譲を受けて後梁を建国します。
華北における後梁に続く後唐→後晋→後漢→後周の5か国と、華中・華南における呉や南唐をはじめとする10の地方政権の時代を五代十国時代といいます。
※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
■宋(北宋)
宋の版図の推移。Northern Song=北宋、Southern Song=南宋
五代十国時代の末期、後周の時代に内政・外交が改善し、軍の解体・再編成を行ったおかげである程度の安定が回復します。
第2代皇帝・世宗は周辺国を攻撃して多くの土地を奪取。
そして世宗が病死すると、将軍・趙匡胤(ちょうきょういん)が禅譲を受けて宋を建国します(以降、趙匡胤を太祖と表記)。
太祖は安史の乱以降のような軍人の台頭を防ぐために、軍人の高官を文人官僚に変え、軍部や節度使の特権を次々に廃止。
武断政治に変えて文治政治を行いました。
太祖は荊南・後蜀・南漢・南唐を倒し、呉越と北漢を残したところで急死。
趙匡義が跡を継ぎ(以下、太宗と表記)、979年には呉越と北漢を落として中国を統一しました。
宋の首都・開封は黄河と京杭大運河※が交差する交通の要衝に位置しています。
東西南北からさまざまな文化・産品が持ち込まれ、大いに繁栄しました。
また開封は商業活動に関して場所や時間・品目などの規制緩和を行い、経済の中心地に発展。
こうした規制緩和は全国に広まり、これまでにない規模で商業が拡大しました。
※世界遺産「中国大運河(中国)」
■宋の衰退
この頃、宋を悩ませていたのが周辺の異民族です。
文治政治によって軍は弱体化し、中央に軍を集権化したことによって財政負担が高まっているうえ、遼(契丹)や西夏といった強力な国々が国境を脅かしていました。
両国は11世紀前半に宋を侵略すると、宋と兄弟・君臣の契約を結んで毎年の莫大な金品の支払いを約束させます(澶淵の盟、慶暦の和約)。
神宗は科挙出身の宰相・王安石を採用して「新法」と呼ばれる政治改革を行い、富国強兵に努めます。
これで財政は好転しましたが、有力者の負担が増したことから反発を招き、最終的には新法の多くが廃止されてしまいます。
政権抗争が続き、財政が悪化していく中で、1125年、宋は女真族の建てた金と同盟して遼を滅ぼしますが、宋の弱体化を見た金は宋を攻撃。
1127年には開封を占領して皇帝・欽宗とその一族を捕縛します(靖康の変)。
皇帝らは生涯監禁され、宮中の皇女は金の後宮に送られるか売春宿に売り払われました。
■南宋
難を逃れた欽宗の弟・趙構は江南に移って帝位に就き、臨安(現在の杭州①)を首都に南宋を建国します(以降、趙構を高宗と表記)。
岳飛ら主戦派は金との戦いを主張しましたが、秦檜(しんかい)ら和平派は戦争回避を主張。
秦檜が宰相に就くと岳飛を謀殺し、金を君、南宋を臣とする屈辱的な和議結びました(紹興の和約)。
中国では、岳飛は祖国を愛した武神として三国時代の関羽と並び称されるほど愛されており、杭州の岳王廟ほか中国各地で祀られています。
一方の秦檜は国賊とされ、実際南宋は金に対して毎年金銭等を上納していましたが、これにより政治は安定し、経済は向上しました。
宋の遷都を機に華中・華南は発展し、特に江南の開発が進んで大農場が整備されて農業生産が激増しました。
その様子は「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」(都市としての蘇州・湖州、あるいは省としての江蘇省・浙江省が豊作であれば中国全土が養える)という言葉で示されました。
南宋はこうした経済力を背景に、海のシルクロードを利用した海運を活用してベトナム以南と盛んに貿易を行いました。
日本との間に結ばれた日宋貿易もその一環です。
特に国際貿易港として繁栄した港湾都市が泉州②です。
好調な貿易を背景に商業・工業も飛躍的に発達し、南宋経済は中国史上まれに見るほどの豊かさを手に入れました。
※①世界遺産「杭州西湖の文化的景観(中国)」
②世界遺産「泉州:中国宋・元代における世界の交易拠点(中国)」
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次回は北方騎馬民族とその周辺を紹介します。