世界遺産と世界史18.帝政ローマ
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
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<帝政ローマ>
■ローマ帝国の誕生
紀元前29年、オクタウィアヌスはローマに凱旋すると元老院の第一人者=プリンケプスに就きます。
さらに紀元前27年、ローマ軍最高司令官インペラトルに就任し、元老院はアウグストゥス(尊厳者)の称号を授けます。
カエサルの養子であったことからカエサルの名を持つ彼は、こうして「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」を名乗るようになります(以下、オクタウィアヌスをアウグストゥスと表記)。
共和政の終わり、帝政のはじまりです。
帝政とは、皇帝を世襲君主とする独裁的な政治体制のこと。
しかし、ローマでは王は極端に嫌われており、王のように振る舞ったカエサルも暗殺されてしまいました。
このためアウグストゥスは王を名乗らず、あくまで市民を代表する元首=プリンケプスによる政治、すなわち元首政=プリンキパトゥスとしました。
しかし、この「インペラトル・カエサル・アウグストゥス」という名称。
「インペラトル」はカエサルも名乗った称号で、1世紀以降、皇帝を示す言葉として認識され、英語の「エンペラー」、ロシア語の「インペラートル」などの語源になりました。
「カエサル」も皇帝を表すドイツ語「シーザー」やロシア語「ツァーリ」、ギリシア語やアラビア語・トルコ語の「カイセル」の語源。
「アウグストゥス」は後にローマ正帝を示す名詞になり(副帝はカエサル)、やはり皇帝を示しました。
つまりインペラトル、カエサル、アウグストゥスはいずれも後に皇帝を示す言葉となっています。
逆にいえば、彼の時代に皇帝を示す明確な言葉は存在せず、さまざまな官位や称号の集合体でした。
結果的にカエサルがベースを作り、アウグストゥスが完成させた帝政によって中央集権化は成功。
ローマはこれまでにないほど安定し、後にイギリスの歴史学者ギボンが「人類がもっとも幸福だった時代」と語る「ローマの平和=パックス・ロマーナ」と呼ばれる200年間を迎えます。
■暴君の時代
ティント・ブラス監督『カリギュラ』予告編
アウグストゥス(オクタウィアヌス)以降、ローマ帝国は最盛期を迎えますが、まったく安定していたわけではありませんでした。
第2代皇帝ティベリウスは内政を重視し、財政再建を行ったことで知られていますが、24歳で第3代皇帝に即位したカリグラは史上稀に見る暴君として知られています。
自分の地位を脅かす親類・腹心をことごとく暗殺。
財政が困窮すると貴族たちの妻や娘を集めて売春宿を経営し、市民に開放。
自分を神であると宣言し、自分の像を各地に建設させ、愛馬を執政官に就かせようとしました。
結局カリグラはその行動がたたり、暗殺されてしまいます。
カリグラに次ぐ暴君といわれるのが第5代皇帝ネロです。
ネロは妻、母、哲学者として有名な家庭教師セネカを相次いで殺害。
64年にはローマに火を放ち(ローマ大火)、その火を眺めながら詩を吟じていたといいます(異説あり)。
ネロは大火後、放火犯としてキリスト教徒を大弾圧し、このときイエスの最初の弟子であり、十二使途のひとりであるペトロ(ペテロ)を逆さ十字の刑で処刑しています。
後にローマ皇帝コンスタンティヌス1世がペトロの墓の上にマルティリウム(記念礼拝堂)を建て、ルネサンスの時代に大幅に増改築されたのが聖ペトロの聖堂=サン・ピエトロ大聖堂※です。
結局ネロは自殺。
これによりカエサルから続いていたユリウス・クラウディウス家の血は断絶します。
※世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
[関連サイト]
■ユダヤ戦争
カエサルやアウグストゥスは決して王を名乗りませんでしたが、カリグラは自ら神として振る舞い、自分の石像をユダヤ教の聖地エルサレム①をはじめ各地に建てさせました。
また、ネロはキリスト教やユダヤ教を弾圧し、信者を虐殺しました。
こうした圧政に対して66年、ユダヤ人が反乱を起こし、ローマ②は鎮圧を開始します(ユダヤ戦争)。
68年のネロの自殺で一時混乱しますが、ティトゥスの活躍もあって70年、ローマ帝国軍はついにエルサレムを攻略。
このときユダヤ教唯一の神殿であるエルサレム神殿は徹底的に破壊されました。
この後、ユダヤ人の一部は戦闘を続け、やがて死海の畔の断崖に造られた要塞マサダ③に立てこもります。
3年近い籠城の後、ローマ軍が周囲を取り囲んで補給路を断つと、女性と子供7人を除く960人が自決。
73年にマサダが陥落します。
2世紀には独立を求めるユダヤ人が再び反乱を起こします(バル・コクバの乱。第2次ユダヤ戦争)。
皇帝ハドリアヌスは反乱を鎮圧した後、ユダヤ教を禁じ、ユダヤ人を追放。
エルサレムを徹底的に破壊し、アエリア・カピトリナに改称して新たな町を建設しました。
このとき戦死したユダヤ人の遺体はベート・シェアリム④に葬られました。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「マサダ(イスラエル)」
④世界遺産「ベート・シェアリムの墓地遺跡:ユダヤ再興を示すランドマーク(イスラエル)」
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■五賢帝時代
79年、ティトゥスが皇帝に即位。
この年の8月24日、イタリア南部のヴェスウィオ山が大噴火を起こします。
その結果、ポンペイ①やヘルクラネウム(エルコラーノ)①、オプロンティス(トッレ・アンヌンツィアータ)①といった街が火山灰の下に埋もれてしまいます。
これらの街の記憶はやがて人々から消え去りますが、命を奪ったその火山灰が1,600~1,700年後の18世紀に発見されるまで遺跡を守りつづけました。
ティトゥスの弟であるドミティアヌスが暗殺されると、元老院は執政官として実績を残していたネルウァを皇帝に推薦し、96年に即位します。
ネルウァは1年少々で病死しますが、後継者に名将トラヤヌスを指名。
こうして血縁ではなく優秀な人物を皇帝に据える時代が続きます。
このふたりを含め、96~180年にローマを治めた5人の皇帝、ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスは五賢帝と呼ばれ、ローマ帝国の最盛期とされています。
この中で、ローマ帝国最大版図を築いたのがトラヤヌスです。
トラヤヌスは106年にドナウ川を渡ってダキア(現在のルーマニア周辺)を征服。
ローマの皇帝たちのフォルム②に残るトラヤヌスの記念柱はこのときの勝利を記念したものです。
同年、ナバテア人の首都ペトラ③を支配。
113年には長年の敵パルティアの征服を目指して遠征を開始し、アルメニアとメソポタミアを獲得。
ローマ帝国領はカスピ海とペルシア湾に到達しました。
※①世界遺産「ポンペイ、エルコラーノ及びトッレ・アヌンツィアータの考古地域群(イタリア)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「ペトラ(ヨルダン)」
[関連サイト]
■皇帝ハドリアヌス
トラヤヌスの跡を継いだのがハドリアヌスです。
ハドリアヌスは帝国の拡大路線を変更し、アルメニアやメソポタミアを放棄。
現在のイギリスやドイツに長城(ハドリアヌスの長城①など)を築き、国境線を定めました。
ハドリアヌスは旅と芸術を愛したことでも知られています。
在位21年のうちローマにいたのは7年程度。
世界各地を視察して歩いては、自ら設計して都市計画を進めました。
たとえばフォロ・ロマーノ②にあるウェヌスとローマ神殿はハドリアヌスの設計。
パンテオン②はハドリアヌスが再建したもので、サンタンジェロ城②は自分の霊廟です。
またローマ郊外に集大成といえる別荘、アドリアーノ(=ハドリアヌス)のヴィッラ(=別荘)、ヴィッラ・アドリアーナ③を建設しています。
晩年はこの別荘に閉じこもり、寂しく余生を過ごしたといわれています。
※①世界遺産「ローマ帝国の国境線(イギリス/ドイツ共通)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「ヴィッラ・アドリアーナ[ティヴォリ](イタリア)」
[関連サイト]
■軍人皇帝時代
3世紀にローマ帝国は何度も危機的な状況に陥ります(3世紀の危機)。
元凶は軍人皇帝です。
トラキア(バルカン半島の付け根で、現在のトルコのヨーロッパ側とブルガリア南部周辺)の農民として生まれたマクシミヌス・トラクスはローマ帝国の一兵卒。
兵士たちの支持を集めて反乱を起こすと、235年、皇帝アレクサンデル・セウェルスを暗殺し、そのまま元老院を脅迫して皇帝位に就いてしまいます。
以後、ローマ帝国各地の軍団がそれぞれ候補者を立てて元老院に迫り、元老院の許可を得ずに皇帝を名乗る者さえ現れました。
皇帝になっても別の軍団に暗殺され、新しい皇帝が就き、また暗殺され……を繰り返し、帝国は大混乱に陥ります。
284年まで約50年続いた軍人皇帝時代、元老院が認めた皇帝だけで20~30人もいるといいます。
この時代、人々の生活も困窮し、属州も反ローマ的な立場を取るようになっていました。
ローマは領土の拡大が限界に達し、奴隷の供給も限られるようになりました。
また天然痘が流行したこともあって、人口は一気に減少。
労働者も軍人も不足するようになりました。
■ディオクレティアヌスの独裁
こうした軍人皇帝の時代を終わらせ、中央集権を復活させたのがディオクレティアヌスです。
ディオクレティアヌスは残っていた共和政の影を全廃。
元老院の機能を奪い、権力を皇帝に集中させました。
さらには自ら神を称してエジプトのファラオ、ペルシアのシャーハンシャーのような皇帝像を作り上げました。
ドミナートゥス制(専制君主制)です。
そして広大なローマ領を4つに分割。
ふたりの正帝(アウグストゥス)とふたりの副帝(カエサル)を置いてテトラルキア(4分治制)を敷きました。
同様に、属州をさらに細かく分割して地方の力を削ぎました。
しかし、病気を患うとあっさり引退。
ディオクレティアヌス宮殿※を建設して余生を過ごしました。
※世界遺産「スプリットの史跡群とディオクレティアヌス宮殿(クロアチア)」
■コンスタンティヌス1世とキリスト教
テトラルキアの時代、皇帝同士の対立が起こりますが、324年、これを統一して唯一の皇帝に就いたのがコンスタンティヌス1世です。
そして皇帝を中心としたドミナートゥス制を強化しました。
また、皇帝が神を名乗ることに対する反発は強く、キリスト教の拡大は防ぎきれるものではなくなっていました。
そして313年、キリスト教をミラノ勅令で公認します。
伝説では、夢の中で光り輝く十字架を見たコンスタンティヌス1世はその後戦争に勝利し、それを記念してコンスタンティヌス凱旋門①を築いたといいます。
325年にはニケーア公会議を主催。
三位一体(父なる神、子なるイエス、聖霊の三者を同一の存在であると認める考え方)を主張するアタナシウス派の正当性を認め、イエスや聖霊の神性を否定するアリウス派を異端としました。
330年、ゲルマン人南下の圧力もあり、コンスタンティヌス1世は首都をローマからビザンティオンに遷都することを決定し、新首都としてノヴァ・ローマの整備を開始します。
この都は皇帝の名を取ってコンスタンティノープル(現在のイスタンブール②)と呼ばれるようになりました。
そしてゲルマン人に対してたびたび遠征を行い、勝利を収めました。
キリスト教関連では380年にテオドシウス1世がキリスト教を国教化。
392年にはキリスト教以外の宗教を禁止しています。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
[関連サイト]
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次回は民族大移動と西欧の形成を紹介します。