世界遺産と世界史39.明と清
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<明>
明の版図の推移
■明の建国
14世紀、モンゴル帝国の流れを受けた元朝が中国を支配していました。
しかし、政治・経済面の失敗でインフレが深刻化するなど市民生活は困窮し、加えて水害をはじめとする自然災害が頻発して凶作・飢饉に見舞われ疫病が広がっていました。
農民の息子・朱元璋(しゅげんしょう)も飢餓や疫病で多くの家族を失いました。
仕方なく出家して僧となり、食べ物を托鉢で得る物乞いに近い生活を送っていました。
そんな朱元璋が身を寄せたのが弥勒菩薩(みろくぼさつ)の救済を信じる仏教の一派・白蓮教(びゃくれんきょう)です。
この頃各地で反乱が起こっていましたが、白蓮教徒が紅巾の乱(1351~66年)を起こすと群雄が呼応し、その勢いで元の都である上都①や首都・大都(現在の北京)を落とします。
元の皇族は北のモンゴル高原に退く一方で(北元:1371~88年)、朱元璋は穀倉地帯である南部の反乱を平定し、1368年に南京を首都に明を建てます(以下、洪武帝と表記)。
明は海禁を行い、民間による海上貿易や海外渡航を禁止。
その代わり冊封体制(皇帝と君臣関係を結ぶこと)を復活させて朝貢貿易を推進しました。
また、国境付近に息子たちを王として送り込んで警備にあたらせました。
※世界遺産「上都[ザナドゥ]の遺跡(中国)」
■永楽帝と仁宣の治
洪武帝の死後、孫の朱允炆(いんぶん)が皇帝位に就きます(以下、建文帝)。
この頃、華北でモンゴルを押さえていた北平(北京)の燕王(朱元璋の四男)が力を伸ばすと、建文帝は諸王の勢力の削減を図ります。
これに対して燕王が起こした反乱が靖難(せいなん)の役(1399~1402年)で、燕王は南京を落として建文帝は自害しました。
燕王は永楽帝として帝位に就き、北京に遷都すると広大な宮殿=紫禁城①②を中心に、天壇②③や社稷壇②をはじめとするさまざまな壇(神である天帝から天命を授かる施設)を建設します。
また、京杭大運河④を再開発し、南北を貫く動脈を確保して輸送体制を整え、全国統一を促しました。
永楽帝は外征にも積極的でした。
北においてはモンゴル高原に退いていた北元を追撃。
南ではベトナムのホー朝(胡朝)を攻め、首都タインホア⑤を落として征服しました。
さらに、イスラム教徒の宦官・鄭和(ていわ)にインド洋一帯の遠征を命令。
鄭和は7回の航海を行い、船団は東南アジアを経てインドのカリカットに到達し、分遣隊はアラビア半島や東アフリカまで遠征しました。
ヴァスコ・ダ・ガマの船団は全長27mのサン・ガブリエル号を旗艦に4隻・船員170人程度の陣容だったのに対し、鄭和の船団は全長約130mの宝船を中心に大型船60数隻、小型船も含めて約200隻で総勢約27,000人という驚異的な船団でした(異説あり)。
モンゴル遠征中に永楽帝が死去すると、子の洪熙帝、孫の宣徳帝の順で帝位を継承します。
ふたりは永楽帝の拡大政策で疲弊しつつあった国力を充実させるために特に内政に注力し、文治政治を行いました。
ふたりの時代は「仁宣の治」といわれ、明の絶頂期とされています。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
③世界遺産「天壇:北京の皇帝の廟壇(中国)」
④世界遺産「中国大運河(中国)」
⑤世界遺産「ホー朝[胡朝]の城塞(ベトナム)」
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■北虜南倭
この頃、急速に勢力を伸ばしたのがモンゴルのオイラートと、それに続くタタールです。
両国は明に朝貢していましたが、朝貢貿易については朝貢国の貢物より価値あるものを皇帝が下賜(かし)する習わしがありました。
これを逆手にとって両国は法外な貢物を贈り、明が拒否すると軍を派遣して首都・北京を包囲しました(土木の変、庚戌[こうじゅつ]の変)。
度重なるモンゴル系部族の侵入に対し、明は万里の長城※を大増築してこれに備えました。
現在北京近郊で見られる八達嶺や居庸関、慕田峪(ぼでんよく)、司馬台といった美しい長城はほとんどこの時代のものです。
なお、中国国家文物局は2009年に明代の長城の総延長を8,851.8kmと発表し、2012年には秦代や漢代のものも含めて長城の総延長を21,196.18kmとしています。
こうした北からの侵入に加えて、南部の海岸沿いでは海禁政策によって貿易ができなくなった日本の商人たちが海賊となって略奪を行っていました(倭寇)。
日本の室町幕府との間で勘合貿易(日明貿易)がはじまると倭寇は下火になりますが、今度は中国人が主体となって倭寇を構成し、沿岸部のみならず河川沿いの都市の襲撃をはじめます。
北のモンゴルと南の倭寇、このふたつの苦難を北虜南倭といいます。
※世界遺産「万里の長城(中国)」
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■朝鮮出兵
1572年、万暦帝がわずか10歳で即位すると、張居正が宰相として政治の立て直しを図ります。
北虜南倭によって財政は悪化し、宦官が要職を独占して悪政に悩まされていましたが、張居正は宦官を取り締まり、税金を厳しく徴収。
一条鞭法を導入して複雑化していた税を銀での納税に統一し、タタールと和解して北の憂いを断ちました。
張居正の活躍でなんとか財政は立て直されますが、日本の侵入で暗雲が立ち込めます。
豊臣秀吉が文禄の役(1592~93年)・慶長の役(1597~98年)で朝鮮王朝(李氏朝鮮)に侵入すると(朝鮮出兵)、首都・漢城府(現在のソウル)を落として景福宮や昌徳宮※を焼き払います。
明は冊封国である朝鮮王朝の求めに応じて大軍を派遣して日本を攻撃。
日本は秀吉の死で撤退しますが、明の軍事費負担は莫大なものになっていました。
※世界遺産「昌徳宮(韓国)」
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<清>
清の版図の推移
■後金と清の建国
16世紀末、中国東北部で急速に力を伸ばしていたのが女真族です。
ヌルハチは豊臣秀吉の朝鮮出兵や各地の反乱に追われる明の隙をついて勢力を拡大し、1616年に後金を建国。
遼河以東の女真族を統一すると盛京(瀋陽①)に宮殿を築いて首都としました。
ヌルハチは明に戦いを挑みますが、万里の長城②のひとつの東端で、難攻不落で知られる山海関が落とせず戦死してしまいます。
息子のホンタイジが跡を継ぐと内モンゴルを平定して「ハン(モンゴルの国王)」を襲名し、皇帝の証である元朝の玉璽(ぎょくじ。皇帝の印章)をモンゴル系の部族から入手します。
そして女真族、モンゴル人、中国東北部の漢民族の支持を受けると、ホンタイジは1636年に皇帝を名乗って清を建国します(国号変更に合わせて民族名を満州族に変えています)。
ホンタイジは皇帝即位を認めない朝鮮王朝を襲撃すると、またたく間に首都・漢城(現在のソウル)を落とします。
国王・仁祖らは南漢山城③に立てこもりますが、打開策なく降伏。
以後属国として朝貢させ、日本を除く東の地域をほぼ平定しました。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「万里の長城(中国)」
③世界遺産「南漢山城(韓国)」
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■李自成の乱
1630年代になると農民たちが蜂起して李自成の乱が勃発。
明は都市を破壊・略奪しながら移動を繰り返す反乱軍に対応できず、かといって清に対抗するために山海関①に送っていた軍を戻すわけにもいきません。
1644年、李自成は北京を包囲してついにこれを落とします。
といっても官僚たちは紫禁城②③から逃げ出し、市民は李自成らを歓迎したといいます。
皇帝・崇禎(すうてい)帝は首を吊って自害し、ここに明は滅亡。
李自成は略奪した後、紫禁城に火を放ち、徹底的に破壊しました。
その頃、山海関で明軍の将として清と戦っていたのが呉三桂です。
北京落城の報を受けた呉三桂は山海関を開城して清に降伏します。
李自成の乱が起こる前年、ホンタイジの息子・順治帝はわずか6歳で皇帝に即位していました。
ホンタイジの弟である摂政(せっしょう。幼い君主に代わって政務を司る役職)のドルゴンは呉三桂を先頭に攻め上がると、李自成の軍を打ち破って北京に入城。
李自成は西安に逃れ、その後暗殺されたといわれています。
順治帝は首都を北京に遷し、紫禁城を再建。
呉三桂のような明の優秀な武将を取り立てて、政治の正常化に努めました。
※①世界遺産「万里の長城(中国)」
②世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
③世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
[関連サイト]
■清の中国統一
順治帝に続く康熙帝(こうきてい)・雍正帝(ようせいてい)・乾隆帝(けんりゅうてい)の時代に清は最盛期を迎えます。
1661年に唐の太宗と並び中国史上最高の名君とうたわれる康熙帝が即位すると、雲南・広東・福建の3つの藩で反乱が起こります(三藩の乱:1673~81年)。
これら三藩には雲南の呉三桂をはじめ漢民族の藩王を置いていましたが、地方が安定してきたため藩の廃止を決定。
これに反対して三藩の藩王が蜂起し、台湾で活動していた鄭成功が呼応します。
清は陸と海、両面から苦しめられましたが、康熙帝は1681年に三藩の乱を鎮圧。
海禁を行い、遷界令を出して広東省や福建省などの沿岸部から住人を内地に強制移住させると、鄭成功の資金源を断って1683年に台湾を攻略しました。
外征では、モンゴル高原を広く支配していたオイラート系のジュンガル王国とその周辺諸国を攻撃し、ジュンガルを冊封国とすることに成功。
清の皇帝はモンゴルのハンでもあり、清によるモンゴルの支配を確認しました。
また、1689年にはロシアのピョートル大帝とネルチンスク条約を結んで国境線を画定しています。
こうして清の中国統一が確立されました。
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■最大版図
康煕帝に続く雍正帝はラサ①を攻略してグシ・ハン朝を征服し、チベットを分割して四川省や雲南省・甘粛省などに取り込みました。
1727年にはロシアとキャフタ条約を結び、モンゴルとの国境を画定させています。
中国史上最大版図を築くのが乾隆帝です(元を最大とする異説あり)。
乾隆帝は十全武功と呼ばれる十度の外征を行い、タイのトンブリー朝、ネパールのネパール王国(首都カトマンズ②)、ミャンマーのコンバウン朝、ベトナムのタイソン朝(西山朝。首都フエ③)などに朝貢させました。
また、モンゴルのジュンガル王国を攻めてこれを滅ぼし、東トルキスタンを領土にくわえて新疆(しんきょう)と命名しました。
モンゴルや青海・チベット・新疆といった辺境には理藩院を置いて統治させました。
乾隆帝はこのように自国の領土を広げると同時に、広州を除いて海禁を実施して鎖国を進めました。
※①世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国)」
②世界遺産「カトマンズの谷(ネパール)」
③世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」
[関連サイト]
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次回は産業革命を紹介します。