世界遺産と建築24 中国の建築1:都市・宮殿建築
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の建築」では世界遺産を通して世界の建築の基礎知識を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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第24回は中国の都市や宮殿の建築を紹介します。
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<古代中国の都市と宮殿>
■易姓革命と城郭都市
現存する世界最古の木造建築は7世紀後半の法隆寺西院伽藍①なので、それ以前の中国の古代木造建築はひとつも残っていないことになります。
なぜでしょう?
現在確認されている中国最古の王朝は殷(商)で、紀元前1500~前1000年前後に栄えた殷の都市遺跡が殷墟(いんきょ)②です。
殷墟は中原と呼ばれる黄河の中下流域の華北平原に位置し、黄河から運ばれる肥沃な黄土を利用した農業で栄えていました。
もともと中原は中国と同じ意味で世界の中心を意味し、ここを押さえた者が天下を獲るといわれていました。
各地の王たちは中原を目指して兵を挙げ、城郭都市を築いては宮殿を建設しました。
長安(現・西安)や洛陽(らくよう)といった都市はそのひとつで、周辺には周代の王城や秦代の阿房宮・咸陽宮、漢代の未央宮(びおうきゅう)③、唐代の大明宮(たいめいきゅう)③など数多くの宮殿が建設されました。
ただ、これらはことごとく破壊されてしまっています。
ひとつの理由が「易姓革命(えきせいかくめい)」です。
中国は秦の始皇帝以来、皇帝が国土を治めていましたが、天を治める天帝に対して皇帝は地を治める天子と位置付けられていました。
しかし、皇帝が徳を失った場合、天帝は皇帝をすげ替えるといわれており、他の姓の者が力で皇位を奪ったり(放伐)、皇帝が自ら皇位を譲ること(禅譲)もありました。
皇家が替わると国号(殷・周・秦・漢といった国名・王朝名)が変わるだけでなく、皇族や貴族・官僚などがすべて入れ替わり、宮殿や寺院も刷新され、しばしば旧勢力の粛清と破壊が行われました。
また、中国に多数の民族がいたことも一因です。
中原の周辺には東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)と呼ばれる漢民族以外の異民族がいましたが、こうした民族が力をつけて中原に侵出することも少なくありませんでした。
民族を超えた侵略戦争は凄惨を極め、勝利は土地の収奪を意味し、旧勢力の城(都市)は徹底的に破壊され、新しい城を建設して人々が移り住みました。
こうした侵略に対抗するために国境には「長城④」と呼ばれる土塁や城壁が築かれ、都市は周囲に分厚い「市壁」を巡らせて「城郭都市」となり、住宅の周囲でさえ高い塀で囲われました。
※①世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物(日本)」
②世界遺産「殷墟(中国)」
③世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
④世界遺産「万里の長城(中国)」
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■中国の都市プラン・条坊制
中国において、都市は基本的に四角形で市壁で囲い込まれ、古くは門として塔を並べた「門闕(もんけつ)」や見張りのための「櫓(やぐら。物見櫓。見張りの塔)」、後には石造で複数階を持つ「城楼(じょうろう)」が設けられました。
城内は東西に走る「条」と呼ばれる大路と、南北に走る「坊」と呼ばれる大路で碁盤の目状に整然と区画され、各区画は「里坊」と呼ばれました(条坊制。方格設計)。
この里坊も壁で囲まれており、エントランスには「牌坊(はいぼう。大きなものは牌楼)」と呼ばれる門が置かれました。
こうした都市プランは利便性を考慮したものですが、天に関する建物は円、地に関する建物は方形(四角形)という「天円地方」や、東西南北に四神を祀る「四神相応」といった風水や陰陽五行の思想を取り入れたものでもあります。
そして正門を南に配し、前方の南側に政務を行う官庁を置き、後方の北側に皇家の住まいである宮殿が建てられ(天子南面、前殿後宮)、周囲に京城と呼ばれる市街地を配し、全体を市壁で囲って城郭都市である「都城」を形成しました。
■古代中国の宮殿建築
中国では多彩な文明が発展しましたが、特に重要なのが黄河流域の乾燥地帯で発達した黄河文明と、緑豊かな長江流域で発達した長江文明です。
乾燥している黄河周辺では地面に穴を掘って柱を立てて屋根を架けた「竪穴式住居」や、石やレンガを積み上げて壁で屋根を支えた「壁立式住居」が発達しました。
一方、雨が多い長江周辺では柱や杭を立ててその上に住居や倉庫を築く「高床建築」が発達していたようです。
中国では広い国土の中でこうした石の建築と木の建築、壁構造(石やレンガなどの素材を積み上げて壁を築いて空間を確保する構造)と柱梁構造(柱と梁でフレームを作る骨組構造)のいずれもが発達しました。
これらが融合した古代建築の一例が台榭(だいしゃ)と呼ばれる宮殿建築で、土を方形の階段ピラミッド形に積み上げ、その各層に木造の回廊や楼閣・殿舎を配していました。
しかしながら漢代以降、重要な宮殿や寺院はほとんど木造の柱梁構造となっています。
ヨーロッパと異なり、中国では木造こそもっとも格式の高い建築様式であると考えられていたようです。
ただ、壁については防御の必要性から日本の木造建築と違ってぶ厚く、柱と柱の間にレンガや土を積み上げた組積造(そせきぞう。石やレンガなどの素材を積み上げた構造)の壁構造を併用しています(半木骨造)。
なお、木造建築と石造建築の基礎知識については「世界遺産と建築04 木造建築の基礎知識」「世界遺産と建築05 石造建築の基礎知識」を参照ください。
■斗栱
中国の木造建築の大きな特徴が斗栱(ときょう)です。
木造軸組構法(木材でフレームを築く骨組構造)では垂直に立てた柱と、柱の上に寝かせた梁(はり)でフレームを作りますが、柱の上に直接梁を載せるのではなく、さまざまな部材を設けて接続しました。
木材に穴を開けたり削る必要がないため傷みは最小限に抑えられ、また部材を重ねることでより高く見せたり、受け手を外側に張り出させることで屋根を広く見せたりといったことが可能になりました。
また、軒や天井を美しく見せる装飾としても重要視されました。
斗栱の主な部材には、柱から飛び出した細長い栱(日本の肘木)、栱の上に載せて種々の部材の受け手となる斗(同、大斗)、梁を受ける斗から外側斜め下に突き出して軒を支える昻(同、尾垂木)などがあります。
斗栱は仏教建築を通して日本に伝えられ、「組物(くみもの)」として発達します。
日本では一般の住宅にはまず用いられませんが、中国や韓国では宮殿や寺院はもちろん、一般住宅でもしばしば斗栱が見られます。
■日本の木造建築との違い
中国と日本の木造建築において、外見でもっとも異なるのは色彩でしょう。
中国・韓国・ベトナムをはじめ、中国の文化圏では屋根から柱・斗栱まで極彩色に仕上げるのが一般的です。
中国では古代から陰陽五行などを通して色に意味を見出しており、特に黄色は皇帝のみが使うことを許される禁色(きんじき)とされていました。
太和殿など紫禁城①②の主要な建物は黄金色の瓦屋根に赤い柱と壁で、梁や斗栱は青や緑で彩られています。
周辺国の宮殿建築も大きな影響を受けており、韓国の景福宮や昌徳宮③、復元された日本の平城京跡④の大極殿などはとてもカラフルです。
ベトナム・フエの王宮午門⑤も同様ですが、当時のベトナム皇帝は中国皇帝に並ぶものと自負していたため、屋根に黄金色の瓦が使用されています。
ただ、日本ではこの種の塗装は次第に下火となり、特に寺社では素木が好まれるようになりました。
中国の建物は重厚な基壇の上に建設されているのも特徴的です。
層になった階段ピラミッド形の基壇は石造あるいは木造の欄干(らんかん)で明確に区切られ、その中に建物が立っています。
宮殿の屋根は基本的に瓦葺きです。
瓦が重いため、地面に石を置いて礎石(そせき)とし、その上に柱を立てる礎石建物が一般的です。
日本の古代の神社建築や寝殿造(しんでんづくり)は多くが茅葺き(かやぶき)で、全体が軽いため穴を掘って柱の下部を埋める掘立柱(ほったてばしら)が用いられていました。
屋根について、中国では寄棟造がもっとも格式が高い造りとされ、宮殿では好んで用いられました。
屋根の形については「世界遺産と建築04 木造建築の基礎知識」と日本の建築の章で解説しています。
屋根飾りについて、寄棟屋根の大棟(屋根の頂点の横架材)の両端に「鴟尾(しび)」と呼ばれる魚形の棟飾瓦を載せています。
これは日本の鯱(しゃちほこ)や棟鬼瓦にあたります。
さらに隅棟(大棟から斜め下に架かる棟)には「走獣」と呼ばれる仙人や神獣像が並んでいます。
走獣は安全を祈願する宗教的な装飾であると同時に、瓦を押さえたり金属を保護する役割を担っています。
※①世界遺産「北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群(中国)」
②世界遺産「北京の中心軸:中国首都の理想的秩序を示す建造物群(中国)」
③世界遺産「昌徳宮(韓国)」
④世界遺産「古都奈良の文化財(日本)」
⑤世界遺産「フエの建造物群(ベトナム)」
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