世界遺産と世界史52.第2次世界大戦
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<第2次世界大戦>
第2次世界大戦の勢力の推移。Axis Powers=枢軸国、Allied Powers=連合国、Finland=フィンランド、U.S.S.R=ソ連
■戦争の世紀
もっとも多くの死者を出した戦争・虐殺は何か? 死者数は推計で大きな誤差が予想され、統計によって数字はさまざまです。Fall Of The Yuan Dynasty=元朝の崩壊、Thirty Years War=三十年戦争、Russian Civil War=ロシア内戦、Congo Free State=コンゴ自由国、Xin Dynasty=新の時代、A Lushan Revolt=安史の乱、Conquest Of The Americas=アメリカ大陸の征服、First World War=第1次世界大戦、Atlantic Slave Trade=大西洋奴隷貿易、Tamerlane=ティムールの時代、Mideast Slave Trade=中東の奴隷貿易、Stalin=スターリンの時代、Taiping Rebellion=太平天国の乱、Fall Of The Ming Dynasty=明朝の崩壊、Famines In British India=イギリス統治下のインド大飢饉、Mao Zedong=毛沢東の時代、Genghis Khan=チンギス・ハンの侵略、Second World War=第2次世界大戦
戦争や紛争でもっとも多くの犠牲者が出た世紀はいつでしょうか?
答えは20世紀です。
20世紀に特に多くの犠牲者を出した戦争や事件としては、第1次世界大戦、第2次世界大戦、ロシア内戦、スターリンの大粛清、日中戦争、毛沢東の文化大革命と大躍進政策、カンボジア虐殺、ルワンダ虐殺などが知られています。
この中でもっとも犠牲者が多いとされるのが第2次世界大戦で、その数は3,000万~8,000万人と見積もられています。
文明はこれだけ発達したのに、終了した最新の世紀は史上最悪の犠牲者を出した戦争の世紀でした。
そして人権思想がもっとも発達していたはずのヨーロッパの先進国で大虐殺が起きました。
有史以来、人は「悪を減らし、善を増やす」ことで平和は実現できると考えてきました。
しかし、このアプローチは根底から覆されました。
人類はこの理由を深く考えなくてはなりません。
■開戦
再軍備を行って兵力と装備を充実させたヒトラーは、まずゲルマン人の統一を目指します。
1938年、オーストリアに圧力をかけ、首相の求めに応じる形でオーストリアのウィーン※に進出してこれを併合(オーストリア併合)。
さらにゲルマン人が多いチェコスロバキアのスデーテン地方の割譲を要求します。
これに対して英・仏・独・伊の4か国でミュンヘン会議を開催。
イギリス首相チェンバレンは戦争を回避するために宥和政策を採り、これを最後とすることで承認します。
ところが1939年、ヒトラーはチェコスロバキアのボヘミア(ベーメン。チェコ西部)とモラヴィア(メーレン。チェコ東部)を保護領とし、東のスロバキアを保護国にしてしまいます(チェコスロバキア解体)。
さらに国際連盟管理下でポーランドが管理していた自由市ダンツィヒ(グダニスク)の返還を要求し、飛び地である東プロイセンまでポーランド回廊を横断する鉄道と道路の敷設を要求します。
この頃、イタリアはこれらの動きに連動してアルバニアを併合しています。
イギリスとフランスはここに至って宥和政策を断念し、戦争に備えて準備を開始。
ポーランドと相互援助条約を結んで安全保障を約束します。
これによりポーランドはドイツの要求を拒絶しました。
ソ連は当初イギリス、フランスとの連携を模索していましたが、ソ連と共産主義に対する不信を察知してドイツに接近。
ドイツも第1次世界大戦のような東西両戦線での戦闘を避けるため、1939年8月に相互不可侵とポーランドの分割を定めた独ソ不可侵条約を締結しました。
同年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、相互援助条約に従ってイギリスとフランスが宣戦布告し、第2次世界大戦が開始されました。
※世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
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■ヨーロッパ電撃戦
ソ連もドイツのポーランド侵攻に合わせて東ポーランドを占領します。
11月にはフィンランドとバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ルーマニアのベッサラビアに侵攻してこれを併合。
これによりソ連は国際連盟を除名されました。
1940年4月、第1次世界大戦で海軍をバルト海に封じられたドイツは、北海に至る海路を確保するために宣戦布告も行わないまま突如、中立国のデンマークとノルウェーに侵攻します。
さらに翌月、こちらも宣戦しないまま中立国であるオランダとベルギーを占領しました。
続いて6月にはフランスに侵攻して瞬く間に首都パリ①②を陥落させ、フランスを降伏させます。
フランスはこれにより第3共和政が崩壊し、フランス中部の町ヴィシー③にペタン元帥を元首とするヴィシー政府が成立。
北部をナチス=ドイツ、南部をヴィシー政府が押さえる形となりました。
イギリスを除く多くの国がヴィシー政府を承認しましたが、ヴィシー政府は共和政や議会を否定してペタンに権力を集中させたファシズム政権であり、ナチス=ドイツに協力してユダヤ人差別を行うなど実質的に枢軸国側についていました。
ヴィシー政府はドイツと休戦協定を結びましたが、ロンドン④⑤に亡命していたシャルル・ド・ゴールはこれに反発し、BBC放送を通じて抵抗運動=レジスタンスを呼び掛け、ロンドンで亡命政府・自由フランスを結成しました。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
③世界遺産「ヨーロッパの大温泉都市群(イギリス/イタリア/オーストリア/チェコ/ドイツ/フランス/ベルギー共通)」
④世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
⑤世界遺産「ロンドン塔(イギリス)」
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■ソ連の連合国参戦
イギリスでは1940年5月にチェンバレンに代わってウィンストン・チャーチルが首相に就任します。
チャーチルは講和に応じることなく抗戦を表明したためドイツによるイギリス本土空襲を招きましたが、上陸は許しませんでした。
同年9月、日本軍がフランス領インドシナに侵入して連合国との対決姿勢をハッキリさせたことで日独伊三国同盟が結成されました。
1940~41年にかけてハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが三国同盟に参加しています。
ユーゴスラビアでもゲルマン系の親ドイツ政権がヒトラーの呼び掛けに応じますが、軍部や共産党を中心に反発し、全国的なデモの末に政権を追放しました。
1941年4月、これを機にドイツがユーゴスラビアに侵入。
イタリアやハンガリー、ルーマニア、ブルガリアとともにユーゴスラビアとギリシアを占領します(バルカン侵攻)。
ユーゴスラビア侵攻を目にしたソ連はドイツに反発。
同月に日ソ中立条約を結んで東の憂いを断つと、東の兵力を西に移してドイツ戦に備えました。
1941年6月、ドイツをはじめとする枢軸国は独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵攻し、独ソ戦が開始されます。
これに対してイギリスはソ連と英ソ相互援助条約を締結。
アメリカは武器貸与法を成立させてイギリスとソ連を支援し、ソ連が連合国側に加わりました。
ドイツはポーランドやバルト三国を占領し、ソ連本土に軍を進め、冬にはレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)①やモスクワ②に到達します。
しかし、あまりに長い戦線とナポレオンをも阻止した冬の厳しい気候のため作戦は停滞し、落とすことができません。
こうした中でドイツは占領地の工場や農場を奪い、外国人に強制労働を課し、政治犯やユダヤ人、ロマ(ジプシー)、スラヴ人らを強制収容所に押し込めました。
強制収容所の衛生環境は劣悪で多くの病死者を出し、後年アウシュヴィッツ③やビルケナウ③のように絶滅収容所となった場所もあり、そうした収容所では大量虐殺が行われました。
※①世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)」
②世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア)」
③世界遺産「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945](ポーランド)」
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■太平洋戦争
太平洋戦争の版図の推移。Japanese Empire and Thailand=大日本帝国とタイ、Allied Powers=連合国、Allied nations not at war with Japan=日本と戦争状態にない連合国
1940年6月にフランスがドイツに降伏すると、これに乗じて日本軍がフランス領インドシナ北部に進出します。
アジアに植民地を持つイギリス、オランダ、アメリカはこれに反発し、9月に日独伊の三国同盟が成立すると対立は決定的となります。
アメリカは中立を表明していましたが、1941年3月の武器貸与法でイギリスやソ連を支援。
さらにアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)でABCDラインと呼ばれる包囲網を形成して石油輸出の禁止や資産の凍結などを行い、中国の重慶国民政府を支援しました。
日本は北方の安定を図るべく1941年4月にソ連と日ソ中立条約を締結。
その後、フランス領インドシナ南部にまで軍を進めます。
日本の近衛内閣は日米開戦を避けようとアメリカと交渉を行いましたが事態は好転しません。
反対に、9月に陸軍大臣・東条英機が首相に就任すると、いっそう軍国主義が進展しました。
アメリカは11月にアジア地域の領土保全や各国への内政不干渉、インドシナや中国からの撤退、三国同盟の破棄などを定めたハル・ノートを日本に突きつけます。
これはこれまでの日本の動きやアメリカとの交渉をすべて否定するもので、日本は容認できずに開戦を決意しました。
1941年12月8日、日本軍がハワイ諸島のオアフ島・真珠湾を攻撃。
10日にはマレー沖海戦でイギリスの東洋艦隊を破って太平洋戦争が開始されました。
11日、三国同盟によりドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告。
アメリカも両国に宣戦し、地球規模の大戦に発展しました。
1942年半ばまでに日本は現在のベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、シンガポール、香港、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、ソロモン諸島、パプアニューギニア北部などを占領。
フィリピンやミャンマーでは親日政権を樹立して安定化を図りました。
また、タイとは1940年に日泰和親友好条約を締結し、翌年には同盟条約を結んでいます。
■連合国の反撃
1942年の半ばから連合国は各地で反撃を開始します。
1942年4月、アメリカは日本の本土空襲を実施。
同年6月、これに衝撃を受けた日本は防衛線を拡張すると同時に、アメリカ本土とアジアの中継地となっているハワイ諸島を攻略するために、ハワイ諸島の西に位置するミッドウェー諸島の攻撃を決行します。
ところがアメリカの急降下爆撃機の急襲にあい、航空母艦4隻と200機余りの艦載機を一挙に失う大敗を喫します(ミッドウェー海戦)。
さらにアメリカは1943年2月、ポリネシアにおける日本の拠点だったソロモン諸島のガダルカナル島を占領。
これ以降、アメリカは太平洋上の島々を次々と攻略して日本を追い詰めます。
一方、ヨーロッパ戦線では1942年8月、ドイツがソ連の兵器生産の拠点だった工業地帯スターリングラード(現・ボルゴグラード)を包囲します。
その後1年間にわたって凄惨な市街戦が展開され、両軍あわせて死者200万ともいわれる激闘が続きました(スターリングラードの戦い①)。
ドイツは翌年7月に起死回生を狙ってクルスク戦車戦を戦いますが、大損害を出して敗退。
これ以後ドイツは後退を繰り返し、ヨーロッパ戦線の大きな転機となりました。
1942年11月、アメリカとイギリスを中心とした連合軍は、ヴィシー政府が支配していたモロッコやアルジェリアに上陸してこれを奪回。
ド・ゴールの自由フランスはアルジェリアのアルジェ②に拠点を移して活動を行いました。
翌年5月までに北アフリカを制圧し、7月にはシチリア島に上陸します。
連合軍が目前に迫ったイタリアでは人民戦線はもちろん軍部やファシスト党内部からも反ムッソリーニの動きが拡大。
1943年7月にムッソリーニは逮捕され、国王に解任された後、ファシスト党は解散しました。
9月に連合軍がイタリア半島に上陸すると首相に就任したピエトロ・バドリオは無条件降伏を申し出て、10月には逆にドイツに宣戦を布告しました。
※①ロシアの世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「アルジェのカスバ(アルジェリア)」
■戦後処理構想
連合国の戦後処理計画は早い段階から模索されていました。
1941年8月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相は大西洋上で会談し、領土の不変更、民族自決、ドイツの武装解除、国際的な安全保障体制の確立などを定めた大西洋憲章を発表します。
これにソ連や中国など26か国が加わり、翌年1月に連合国共同宣言を成立させました。
1943年11月、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がエジプトのカイロ①で会談し(カイロ会談)、満州や台湾の中国返還、朝鮮半島の独立などを定めたカイロ宣言を発表。
11~12月にはルーズベルト、チャーチル、スターリンがイランのテヘラン②で首脳会談を行い(テヘラン会談)、北フランスへの上陸・ソ連の対日参戦などが話し合われました。
1944年6月、連合国はテヘラン会談に基づいてフランスのノルマンディー海岸③に上陸(ノルマンディー上陸作戦)。
大きな被害を出しながら50万もの兵力を上陸させるとパリ④⑤に進軍し、同年8月にパリを解放しました。
1945年2月にはテヘラン会談の3人による会談がソ連のヤルタで開催され(ヤルタ会談)、国際連合の設立、ドイツの分割占領、ソ連の対日参戦、ポーランドの独立などが決定されました(ヤルタ協定)。
※①世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
②世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン)」
③フランスの世界遺産暫定リスト記載
④世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
⑤世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
[関連サイト]
■終戦
ソ連は西進してルーマニア、ブルガリアを降伏させ、東プロイセン、ポーランド、ハンガリーに侵攻してドイツに接近。
連合軍も1945年3月にライン川を越えてドイツに進出しました。
4月にはアメリカ軍とソ連軍がドイツ東部のエルベ川で合流し、握手の後に平和の到来を誓い合いました(エルベの誓い)。
同月にソ連軍がベルリン①を包囲すると、4月30日にヒトラーが自殺。
5月7日にドイツは無条件降伏を受け入れました。
太平洋戦線では1944年7月にアメリカが日本の南方防衛線であるマリアナ諸島のサイパン島を攻略。
アメリカはさらにグアム島やレイテ島、マニラを奪取。
長距離爆撃機B-29による日本本土空襲を行い、東京をはじめ都市への爆撃を開始します。
1945年7月にハリー・S・トルーマン、チャーチル(後に辞任してアトリーと交代)、スターリンがドイツのポツダム①で会談を持ち(ポツダム会談)、米・英・ソ・仏によるドイツ分割を定めたポツダム協定を締結。
また、米・英に中国の蒋介石を加えた3か国が日本の無条件降伏を勧告し、ポツダム宣言を発表しました(後にソ連が参加)。
アメリカは1945年8月6日に広島②、同月9日に長崎に原子爆弾を投下。
それぞれたった1発の爆弾で、広島では15万~20万、長崎では10万~15万の犠牲者を出しました。
また、8月8日にはソ連がヤルタ協定に基づき、日ソ中立条約を破棄して満州や朝鮮半島・樺太に進軍します。
日本は8月14日にポツダム宣言を受諾して降伏。
翌日、天皇が玉音放送で日本国民に無条件降伏を発表しました。
※①世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
②世界遺産「広島平和記念碑[原爆ドーム](日本)」
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<ヨーロッパの戦後>
■国際連合の設立
大西洋憲章が掲げる安全保障体制を実現する新しい国際機関を創設するために、1944年に米・英・ソ・中が集まってダンバートン・オークス会議を開催し、国際連合憲章の草案をまとめました。
1945年4月、50か国が参加したサンフランシスコ会議で採択され、10月に国際連合(以下、国連)が発足しました。
国連の本部はニューヨークに置かれ、全加盟国が1票をもって参加する総会と、事実上の最高意思決定機関である安全保障理事会(以下、安保理)が設置されました。
安保理は集団安全保障による平和の維持を掲げ、米・英・仏・ソ(後にロシア)・中(中華民国。後に中華人民共和国)の5常任理事国と10の非常任理事国からなり、決議は9か国以上の賛成をもって決定されます。
ただし、常任理事国には拒否権があり、5か国の一致が必要となります。
1948年の第3回総会で目指すべき基本的人権の内容を定めた世界人権宣言が採択されました。
第1条にはこのように書かれています(外務省公式サイトより)
「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」
■ユネスコの誕生
国連の専門機関の中でも、特に教育・科学・文化を振興し、普及させることによって戦争の悲劇を防ぐことを目的として設置されたのがユネスコ(UNESCO。国際連合教育科学文化機関)です。
以下でその前文を紹介しましょう(日本ユネスコ協会連盟公式サイトより)。
「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。これらの理由によって、この憲章の当事国は、すべての人に教育の充分で平等な機会が与えられ、客観的真理が拘束を受けずに探究され、且つ、思想と知識が自由に交換されるべきことを信じて、その国民の間における伝達の方法を発展させ及び増加させること並びに相互に理解し及び相互の生活を一層真実に一層完全に知るためにこの伝達の方法を用いることに一致し及び決意している。その結果、当事国は、世界の諸人民の教育、科学及び文化上の関係を通じて、国際連合の設立の目的であり、且つその憲章が宣言している国際平和と人類の共通の福祉という目的を促進するために、ここに国際連合教育科学文化機関を創設する」
この前文にあるように、ふたつの大戦は他者に対する無知と偏見が疑惑と不信を生むことによって引き起こされてしまいました。
したがって、戦争を防ぐためにはこの無知と偏見を払拭する必要があり、そのための手段としてユネスコは教育・科学・文化の普及を掲げています。
1972年に開催された第17回ユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」、すなわち世界遺産条約も、この文脈の中にあるものです。