世界遺産と世界史17.共和政ローマ
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<共和政ローマ>
ローマの版図の推移
■王政から共和政へ
紀元前1000年頃、イタリアの地にはエトルリア人が住んでいました。
エトルリアはギリシアと交流しつつ、高度な建築技術を使ってチェルヴェテリ①やタルキニア②といった都市国家を形成していました。
そんな中にラテン人の一派がやって来て、紀元前8世紀頃、テベレ川の畔に都市国家を建てます。
ローマ②です。
伝説によると、軍神マルス(ギリシア神アレス)の子として生まれたロムルスとレムスの兄弟がこの地に捨てられてオオカミによって育てられます。
やがて成長すると兄弟間の争いが起こり、勝ち抜いたロムルスが都を築きました。
ローマという名称はこのロムルスに由来します。
ローマはエトルリアやギリシアの文化を吸収し、急速に発展しました。
最初は王を中心とした王政を敷いていましたが(王政ローマ)、紀元前509年にエトルリア人の王を追放すると共和政に移行します(共和政ローマ)。
※①世界遺産「チェルヴェテリとタルキニアのエトルリア古代都市群(イタリア)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
■共和政ローマ
共和政とは、君主(一族の子孫が受け継いでいく世襲の支配者)を置かず、議会などの集団が政治を行うこと。
現在のアメリカやフランスのほか、中国や北朝鮮もほぼ一党独裁とはいえ共和政です。
日本やイギリスはそれぞれ天皇・王を君主とする象徴君主政あるいは憲法が君主の権利を制限する立憲君主政とされています。
アテネ①やローマ②は王や皇帝を嫌い、権力がひとりに集中しないような政治を行いました。
ローマの場合、最高権力者は執政官(コンスル)で、現在の首相のようなものです。
執政官による独裁を防ぐために任期を1年に限定し、ふたりの執政官を同時に置いていました。
そしてその執政官に意見を述べる諮問機関が元老院(げんろういん)です。
この元老院が絶大な力を持っていました。
執政官の候補者を選んだり、民会(人民集会=議会)の決定に許可を与えるのも元老院だし、非常時にはひとりの独裁官(ディクタトル)を立てて権力を集中させることもできました。
この元老院はほとんど世襲の貴族(パトリキ)によって運営されたため、執政官はほぼ貴族に独占されていました。
※①世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
[関連サイト]
■イタリア統一
ローマ軍団レギオンの解説動画
映画で描かれた陣形テストゥド。0:20および1:42ほどで「テストゥド!」と叫んで陣を敷いています
この頃、軍を構成していたのは農民を中心とする平民(プレブス)です。
平民には兵役の義務があり、軍に入隊して重装歩兵として活躍しました。
ローマはマケドニアのファランクスを発展させ、レギオン呼ばれる軍団やテストゥドと呼ばれる歩兵戦術で無敵を誇りました。
戦勝によって軍が力を持つようになり、平民の発言権が強くなるのはギリシアと同じです。
平民たちを中心とするレギオンは絶大な力を発揮しました。
紀元前3世紀にはイタリア半島をほぼ統一しています。
■ポエニ戦争
第2次ポエニ戦争でカルタゴの名将ハンニバルはイベリア半島を北上してアルプスからローマを攻め、ローマ攻略まであと一歩に迫ります。しかし大スキピオはハンニバルを無視してカルタゴ本土を攻撃したため、ハンニバルは帰還要請を受けて本国に戻りました
ローマはイタリア半島を統一するとその勢いでシチリア島に進出。
シチリア島西部はアグラカス①(アグリジェント)を中心にフェニキア人の勢力圏であり、シチリア島の先にあるフェニキア植民都市・カルタゴ②と対峙します。
ポエニ戦争のはじまりです。
紀元前264~前241年の第1次ポエニ戦争はローマの勝利で、フェニキア勢力をシチリア島から一掃しました。
名将ハンニバルと大スキピオの戦いで知られる紀元前218~前201年の第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)でもカルタゴは敗北し、多くの海外領土を失いました。
それでも急速に回復するカルタゴを見たローマはさらに戦争を仕掛け(紀元前149~前146年、第3次ポエニ戦争)、大スキピオの息子・小スキピオはカルタゴが二度と再興しないように徹底的に破壊しました。
ローマの勢いは止まりません。
紀元前168年にはピュドナの戦いでアンティゴノス朝マケドニアを滅ぼし、ギリシアを征服。
これ以後ローマは西ヨーロッパ北部、西アジア、北アフリカに広く進出し、各地に植民都市を造り、あるいは既存の都市をローマ風に造り替えていきます。
※①世界遺産「アグリジェントの考古地域(イタリア)」
②世界遺産「カルタゴの考古遺跡(リビア)」
■内乱の1世紀
ポエニ戦争後、属州から大量の奴隷が流入し、貴族たちは奴隷を使ってラティフンディウムという大農場の経営に乗り出します。
そこで作り出された安価な農作物がローマに流入し、ローマ※は大いに潤いました。
一方で、ローマの農民は安価な農作物のおかげで没落し、土地を貴族に売って都市部に流入。
ローマはこうした無産市民に「パンと見世物」を与えて養うことができました。
貴族と平民の差が拡大を続け、これを維持するためにより多くの奴隷、より多くの土地を必要としたローマは侵略戦争を継続。
しかし財政状況は次第に悪化し、市民権を持たない者が飢えはじめ、農民の没落によって重装歩兵のなり手が減少しました。
無理があちらこちらに出始めて、紀元前100年前後に「内乱の1世紀」を迎えます。
一例が紀元前73~前71年、剣奴(奴隷剣闘士。グラディエーター)であるスパルタクスが起こした反乱で、ローマ軍は散々に打ち負かされてしまいます(スパルタクスの反乱)。
こうしてローマ国内は混乱し、すべてを統制できる強力な政権が待ち望まれるようになりました。
※世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
[関連サイト]
■第1回三頭政治
混乱の時代に登場した3人の実力者がポンペイウス、クラッスス、そしてカエサル(シーザー)です。
ポンペイウスはセレウコス朝シリアを滅ぼし、フェニキア都市ティルス①やビブロス②、ヘブライ都市エルサレム③などを次々と落とした英雄です。
クラッススはローマ随一の大富豪で、スパルタクスの反乱を鎮圧した功績があり、カエサルを経済的に支援した人物。
カエサルはヒスパニア(スペイン)の政治家で数々の借金やスキャンダルがありましたが、ウェヌス(ギリシア神ヴィーナス)の末裔を名乗るほど美男子で、パンと見せ物を大盤振る舞いする人間性から平民に愛されたカリスマです。
紀元前70年にポンペイウス、クラッススが執政官に選ばれると、紀元前60年にはカエサルを加えて同盟を結び、政権を握ります(第1回三頭政治)。
この後、カエサルはガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)を攻め上がり、現在のドイツやイギリスの地にも遠征して多くの土地を獲得。
アルル④、オランジュ⑤など、征服した都市をローマ風に建て替えました。
※①世界遺産「ティルス(レバノン)」
②世界遺産「ビブロス(レバノン)」
③世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
④世界遺産「アルル、ローマ遺跡とロマネスク様式の建造物群(フランス)」
⑤世界遺産「オランジュのローマ劇場とその周辺及び凱旋門(フランス)」
■カエサルの時代
紀元前54年、ポンペイウスに嫁いでいたカエサルの娘ユリアが死去。
翌年、宿敵パルティア(アルサケス朝)への遠征でクラッススが戦死します。
これをもって三頭政治は終わり、ポンペイウスとカエサルの対決は避けられないものとなりました。
ポンペイウスは元老院と結び、単独の執政官になるとカエサル討伐を決意。
カエサルは「賽(さい)は投げられた」とイタリア半島付け根にあるルビコン川を渡り、ローマ進軍を開始します(当時、ルビコン川より南への進軍は禁じられていました)。
その勢いのままカエサルはローマを制圧。
ポンペイウスはなんとかエジプトに逃れますが、結局プトレマイオス朝エジプトのファラオであるプトレマイオス13世によって暗殺されてしまいます。
ポンペイウスを追ってエジプトに入ったカエサルは同朝のクレオパトラ(クレオパトラ7世)を愛人にして息子カエサリオンをもうけています。
ライバルがいなくなったカエサルは紀元前48年に独裁官に任命され、紀元前44年には終身独裁官になります。
権力はカエサルひとりに集中し、ほとんど王に近い力を手に入れました。
しかし、元老院の恨みを買ったカエサルは紀元前44年に暗殺されてしまいます。
※世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
■第2回三頭政治
カエサルの暗殺で政治は乱れかけましたが、新たな3人の実力者が登場します。
カエサルの副官を務めていたレピドゥス、カエサルとともにガリア遠征を戦ったアントニウス、そしてカエサルの養子オクタウィアヌスです。
この3人は同盟を組み、紀元前43年から第2回三頭政治を行いました。
しかし、レピドゥスが早々に失脚すると、東方をアントニウス、西方をオクタウィアヌスが統治。
アントニウスは小アジアでエジプトの女王クレオパトラに魅せられると、ともに行動して3人の子をもうけます。
ところがそのアントニウスはパルティアの遠征で大敗。
アルメニアとの戦いでは勝利しますが、ローマ①に戻らずアレクサンドリア②に凱旋します。
こうして王のように振る舞い、ローマを無視するアントニウスに激怒したオクタウィアヌスはエジプト討伐を決意。
紀元前31年、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを破り、ふたりを自害に追い込みます。
そして翌年カエサリオンを殺害してプトレマイオス朝エジプトを滅ぼし、エジプトを支配下に収めました。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②エジプトの世界遺産暫定リスト記載
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次回は帝政ローマ=ローマ帝国の誕生を紹介します。