世界遺産と建築21 仏教建築1:インド編
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の建築」では世界遺産を通して世界の建築の基礎知識を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代、ギリシア・ローマ、中世編 2.近世、近代、現代編
3.イスラム教、ヒンドゥー教編 4.仏教、中国、日本編
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第21回はインドの仏教建築を紹介します。
なお、中国の仏教建築は第24~26回の「中国の建築」、日本の仏教建築は第27~30回の「日本の建築」の中で解説します。
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<仏教の基礎知識>
■仏教の誕生
紀元前6~前5世紀頃、釈迦(シャカ)族のコーサラ国、現在のネパール・ルンビニ①近くで、ガウタマ・シッダールタが生まれます。
王子として16歳で結婚しますが、生老病死の四苦をつねに感じていたシッダールタは妻も息子も捨てて突如出家してしまいます。
激しい修行に励んでいましたが修行にも疑問を持ち、中止してブッダガヤ②の菩提樹(種としてはインドボダイジュ)の下で静かに瞑想をしている最中に悟りを開き、目覚めた人「ブッダ(仏陀)」となります(以下、ブッダ)。
ブッダ自身は知の実践者であって宗教者ではありませんでした。
神や悪魔や霊、占いや預言、天国や地獄といった形而上学的な(超常的な)話はしませんでしたし、「○○を信じろ」などと思想を主張することもありませんでした。
言葉の意味は文化や人によって変わるので相手によって内容を変えましたし(対機説法)、真理は言葉で伝えられないものであるから自分自身で考え・感じることを重視し(自灯明・法灯明)、何かに書いて残すこともありませんでした(無記)。
ただ、弟子たちはブッダが語った言葉をなるべく文字通りに残そうとしました。
そのためブッダの死後、「結集(けつじゅう)」と呼ばれる会議を開催して経(教え)・論(解釈)・律(戒律)の三蔵を整えました。
最重要の教説=経については間違いがないよう全員で唱和し、口伝で伝えられました。
これがお経の起源です。
※①世界遺産「仏陀の生誕地ルンビニ(ネパール)」
②世界遺産「ブッダガヤの大菩提寺(インド)」
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■上座部仏教、大乗仏教
第1回仏典結集はブッダ入滅直後、第2回は死後100年前後に行われたとされます。
第2回仏典結集の後に戒律に伴う対立から大衆部と上座部に分裂し(根本分裂)、やがてさらに細分化して部派仏教と呼ばれる各派乱立の時代を迎えます。
第3回は紀元前3世紀前後にマウリヤ朝のアショーカ王によって開催され、王が保護した「上座部仏教」が広がりました。
紀元前1世紀にはさらに分裂を繰り返し、自分の解脱や利益のみを追究する部派仏教に対する批判から、在家信者の間で一切衆生(生きとし生けるものすべて)を救おうという「大乗仏教」が生まれます。
大乗仏教はインド・中央アジアに版図を広げた大国クシャーナ朝の保護を受け、仏像や仏画などを取り込んで発展した後、シルクロード①②を通って中国へ伝えられます。
こうしてインド以北では部派仏教、後には大乗仏教が広がり、一方マウリヤ朝と盛んに交流していたスリランカには上座部仏教が伝えられ、海のシルクロードを通って東南アジアに広がっていきます。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
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<初期仏教の建築>
■ストゥーパ
ブッダの遺体は荼毘(だび。火葬)に付された後、仏舎利(ぶっしゃり。遺灰)となりました。
仏舎利は8つに分けられ、灰土を含めて10基の「ストゥーパ(仏舎利を収めた供養塔)」の下に収められたと伝えられています。
紀元前3世紀、マウリヤ朝のアショーカ王は仏舎利を収めた8基のストゥーパのうち7基を発見し、これを84,000に分割した後、各地にストゥーパを造って奉納したといわれます。
このうち8基がサーンチーに建設され、現在3基が残っています。
サーンチーのストゥーパ※はいずれも茶碗を伏せたような半球形で、半球部分の覆鉢(ふくばち。伏鉢)は盛り土のマウンドの上にレンガを積み重ねて漆喰で覆われています。
覆鉢の上には箱形の平頭 (へいとう/ひょうず)が備えられ、頂上には貴婦人が差していた傘をかたどった傘蓋(さんがい)が載っています。
覆鉢の周囲は二重の欄順(らんじゅん。柵や垣)で囲われ、繞道(にょうどう。巡拝路)が通っています。
巡礼者は右繞(うにょう)といって、繞道を右回り(時計回り)に回って参拝します。
ストゥーパはアジア各地で進化を遂げ、スリランカのダーガバ、ミャンマーのパヤー、タイのチェディ、チベットのチョルテン、中国や日本の相輪や層塔・卒塔婆などに発展しました。
※世界遺産「サーンチーの仏教建造物群(インド)」
■仏像、法輪、仏足石
古代インドにはインダス文明にせよバラモン教にせよ神の像を祀るという習慣はなかったようです。
仏教はそもそもブッダが偶像崇拝を説いておらず、宗教でさえありませんでした。
次第にブッダの神格化が進み、仏足石や法輪、ロータス文様といった象徴が図案化されていきましたが、石像には至りませんでした。
仏像の誕生は中央アジア、特にアフガニスタン東部からパキスタン北部にかけてのガンダーラの複雑な歴史が大きく関わっています。
ガンダーラには早くから都市国家群が成立していましたが、ギリシアのアレクサンドロス帝国やセレウコス朝といった大国の侵略を受けたあと、インドのマウリヤ朝に侵略され、さらにギリシア系のバクトリア、ペルシア系のパルティアの支配下に入りました。
おかげでギリシア、インド、ペルシア、トルキスタンの文化が複雑に混じり合いました。
仏像の誕生は1~3世紀にインド北部から中央アジアを支配したクシャーナ朝の時代とされます。
クシャーナ朝は大乗仏教を保護し、僧院を支援していましたが、人々はギリシア人がもたらしたギリシア神話の神像をまねて仏像や仏画を生み出しました。
発祥はクシャーナ朝の首都タキシラ①やバーミヤン②のあるガンダーラ、あるいは北インドにある副都マトゥラーと考えられています。
ガンダーラの仏像は顔がギリシア風であることからその影響がうかがえ(ガンダーラ美術)、一方マトゥラーの仏像はインド伝統芸術の影響が見られます(マトゥラー美術)。
そしてまた、大領域を支配したクシャーナ朝は中国の漢と国境を接したことから大乗仏教が中国へと伝えられるきっかけになりました。
※①世界遺産「タキシラ(パキスタン)」
②世界遺産「バーミヤン渓谷の文化的景観と考古遺跡群( アフガニスタン)」
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<仏教石窟寺院>
■仏教石窟寺院とチャイティヤ窟、ヴィハーラ窟
紀元前3世紀頃から仏教修行のために崖の岩場を利用した「石窟寺院」が盛んに造られました。
石窟には僧が生活を行う僧院「ヴィハーラ窟」と瞑想を行う実践の場「チャイティヤ窟」がありました。
ヴィハーラ窟には方形窟などもありましたが、チャイティヤ窟は半円アーチやΩ字の馬蹄形アーチで掘り進められたため、このようなアーチは「チャイティヤ・アーチ」と呼ばれています。
仏像を収める仏龕(ぶつがん)など仏教寺院にはアーチが散見されますが、多くは石窟に由来します。
アジャンター石窟群①には仏教寺院の進化がよく表れています。
30の石窟は紀元前2~後1世紀の前期と5~6世紀の後期の石窟群に分けられますが、前期のチャイティヤ窟である第9窟や第10窟の最奥部にはストゥーパが祀られており、サーンチーのストゥーパ②に似た半球形の覆鉢が確認できます。
これに対して後期のチャイティヤ窟である第19窟や第26窟ではストゥーパの前に仏像が据えられています。
この時代までに仏像が伝わり、ストゥーパとともに寺院の中心を飾るようになりました。
これが伽藍(がらん。寺院のエリア)の起源で、中国でストゥーパは層塔になり、仏像は仏殿(本堂。金堂)の中に収められます。
チャイティヤ窟はヒンドゥー教の影響を受けながら次第に瞑想室というよりも仏像を祀る神殿化していきます。
これがよく表れているのがエローラ石窟群③です。
エローラの第11窟や第12窟のような後期の仏教窟には数多くの仏像や女神像、マンダラが置かれており、ヒンドゥー教の神像さえ見ることができます。
アジャンターでも第26窟などではヒンドゥー教の神々が描かれており、仏教が密教化していく様子がうかがえます。
※①世界遺産「アジャンター石窟群(インド)」
②世界遺産「サーンチーの仏教建造物群(インド)」
③世界遺産「エローラ石窟群(インド)」
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<仏教の衰退と密教>
■精舎、僧院、マンダラ風伽藍
ブッダは悟りを開いた後、諸国で説法を行いましたが、地域の有力者たちは説法のために簡単な建物と庭のあるスペースを提供しました。
いわゆる「精舎(しょうじゃ)」で、僧院=ヴィハーラの起源です。
その後、石窟寺院が普及しましたが、グプタ朝の時代にはストゥーパを伴うオープンな僧院が建造されるようになりました。
5世紀頃に建設された大乗仏教の大僧院=マハーヴィハーラがナーランダ僧院(ナーランダ・マハーヴィハーラ)①です。
8~12世紀、現在のバングラデシュの地で仏教を保護したパーラ朝が栄えました。
パーラ朝は多数の寺院を建立しましたが、同朝が建設したインド最大規模の仏教コンプレックスがソーマプラ僧院(ソーマプラ・マハーヴィハーラ)②です。
バラモン教では幾何学図形を描いて儀式を行っていましたが、こうした図形はヒンドゥー教や仏教に伝えられて世界の在り方を示す「マンダラ(曼荼羅)」となり、伽藍配置にも影響を与えました。
ソーマプラ僧院は各辺300mを誇る正方形の伽藍の中央にストゥーパを中心とした四面堂(四方が同様の造りである堂宇)式の本堂が座すマンダラ風伽藍で、かつては数百の僧院やストゥーパが整然と立ち並んでいました。
この頃の大乗仏教は密教化し、仏像やストゥーパは寺院や僧院に欠かせないものとなっていました。
こうした幾何学的な伽藍配置や仏教装飾は東南アジアのヒンドゥー教や大乗仏教寺院の伽藍配置に大きな影響を与えました。
※①世界遺産「ビハール州ナーランダのナーランダ・マハーヴィハーラの考古遺跡(インド)」
②世界遺産「パハルプールの仏教寺院遺跡群(バングラデシュ)」
■密教、仏教の衰退
ヒンドゥー教は仏教を同化・吸収して広がりますが、仏教(大乗仏教)側でも現世利益をもたらすヒンドゥー教の機能神(雷神、戦闘神など役割で分化した神々)的な要素を取り入れ、喜怒哀楽の表情豊かな仏や、バラモン教のマントラに影響を受けた真言や陀羅尼(ダラニ)、さらにはバラモン教やヒンドゥー教の神々さえ取り込んで世俗化していきました。
こうして多様化する仏教に対し、僧たちは仏教の再編成を行いました。
仏像はもともとブッダの姿(釈迦如来)を祀るものでしたが、世界の実相である大日如来や世界の根源である本初仏など種々の「如来(にょらい。悟りを開いた者)」や「菩薩(ぼさつ。悟りに近づいた修行者)」を祀る形式に変化し、こうした如来や菩薩たちはマンダラ(曼荼羅)によってその意味や役割を定められ、体系化されました。
こうして再編成された仏教、すなわち「密教」は一見したところ多神教的でそれまでの大乗仏教である顕教(けんぎょう)とは異なりますが、再編の過程で仏教の解釈が進み、真言やマンダラ、如来・菩薩等々は真理を象徴化したものと解釈されました。
もともと仏教は真理を悟り解脱することを目的としており、経典の解釈だけでは悟りは開けず、実践が重視されていました。
密教では真言やマンダラといった象徴とともに、儀式や瞑想、ヨーガ、舞踊等を通して実践を行い、成仏(じょうぶつ。仏になること)することを目指しました。
密教はインド北部からバングラデシュにかけて広がりましたが、12~13世紀に入るとイスラム教勢力によって駆逐され、ナーランダ僧院①やヴィクラマシーラ僧院、ソーマプラ僧院②といった大僧院=マハーヴィハーラはことごとく破壊され、インド仏教はほとんど消滅してしまいました。
※①世界遺産「ビハール州ナーランダのナーランダ・マハーヴィハーラの考古遺跡(インド)」
②世界遺産「パハルプールの仏教寺院遺跡群(バングラデシュ)」
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シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の建築」、第22回は東南アジア、チベット、ネパールの大乗仏教建築を紹介します。