たびロジー4:相対主義の罠
キレイ・汚い、野蛮・野蛮じゃない、道徳・非道徳、恥ずかしい・恥ずかしくない、ワイセツ・ワイセツじゃない。
これらにカッチリした基準はないらしい。
ならば物事を比較してもしかたない。
それぞれいいところもあれば悪いところもある。
「電車の中で化粧をするな」
物事を比較してもしかたない。
若者の文化はおっさんたちの文化とは違うんだから認めてあげよう。
それぞれいいところもあれば悪いところもあるはずだ。
「北朝鮮には制裁が必要だ」
まぁまぁ、物事を比較してもしかたない。
いいところもあるんだろうし、やさしく見守ろう。
「キレイ・汚いの区別だって無意味だからなくしてしまおう」
無意味なんだったら明日から掃除をするのをやめよう。
ゴミもいっさい出さない。
何の批判もできない。
何の評価もできない。
相対主義者は語ることを許されない。
本当にゴミを出さず、ゴミにまみれ、虫にまみれて生きている人間がいたとする。
どの民族から見ても彼は「汚い」のではないか?
北朝鮮で人が飢えてバタバタと死んでいるとしたら、それを「おかしい」と思うのは人類共通なのではないか?
たとえば誰かを殴ったとする。
それを快感だと感じる民族はいない。
痛みは全人類共通で痛みだ。
同様に不協和音を心地よいと感じる民族もいない。
キレイ・汚い、野蛮・野蛮じゃない、道徳・非道徳、恥ずかしい・恥ずかしくない、ワイセツ・ワイセツじゃない。
これらに確固たる基準があるわけではないようだ。
しかし何かしら人類共通の基準はありそうだ。
そもそも価値観を共有する部分がなくては言葉など通じはしない。