Study 4:病気と個性
受けろ受けろとうるさいから久しぶりに健康診断を受けた。
長旅から帰って以来、ほとんど健康診断を受けたことがない
ぼくは大病を患っても治療なんていらない、と思っている。
でもまぁとにかく受診して最近結果が出た。
なんと、ほぼ完璧。
マラリアにかかったり変な皮膚病になったりしたからどんな結果が出るやらとビクビクだったが、とりあえずはよかったよかった。
ただし。
ほぼ完璧なのだが、たった1項目画竜点睛を欠いた。
酒と美食に関する数値だ。
ヘヘッ、オレって美食家だから……
さて、言い訳をしてみよう。
「これは個性だ!」
* * *
病気の何がやだって、そりゃ痛いところ、苦しいところだ。
痛くなくて苦しくなければ、病気だの障害だのなんて個性のひとつにすぎない。
そう主張してみようじゃないか。
たとえば目の見えない人は音感がとてつもなく発達する。
スティービー・ワンダーのように。
たとえば色盲の人はある色に対してはとてつもなく敏感になる。
ゴッホのように。
どっか悪けりゃそれを補完するためにどっか優れている。
それなら個性って言えるじゃないか。
精神病って何だろう。
あるところにとても気の短い人がいる。
別のところにとても気の長い人がいる。
ふたりの気の短さ・長さはある薬剤を投与することでコントロールできる。
どういうときに医師は彼らに薬剤を処方するのか?
医学は、たとえば95%の人が所属する数値の範囲を「正常」ということにしよう、と定める。
で、残り5%を異常ということにして、薬の投与を開始する。
だから、それを96%にするか94%にするか、基準ひとつで病気と判断されたり判断されなかったりするわけだ。
一方、対人関係が激しい文化がある。
穏やかな文化もある。
先の基準を適用すると、多くの人が異常者になってしまう文化が出てきたりする。
その社会ではまったく問題はないのに。
実は、「医学」は科学というより政治に近い。
その社会において、正常・異常をどのように判断をすべきか?
どんなタイプの人間を排除したいのか?
たとえば長生き。
本当に長生きしたければ、活性酸素をおさえるために、涼しいほどの部屋から出ず、運動もせず、基本的な栄養素だけ摂って、イモリみたいに生きるべきだという。
近い将来、そういう生活をして150歳まで生きるスタイルが当たり前になっていたとしよう。
その場合、運動は害悪だ。
運動を好む活発で外交的な人間はある種のホルモンが多く出すぎている。
そこで医師は彼を「病気」と診断し、精神病院に連れて行き、薬を投与して穏やかにする。
こうして彼を「治療」するわけだ。
たとえば遠い未来、海にいるある種のカニのように、人間の右手はやたら大きくなって、左手がとても小さくなって、左腕が退化しているとしよう。
そこに現在の人間みたいな子供が産まれたら、医師や親はその子を「障害児」と呼ぶだろう。
そして左右の手を整形し、医師も親も喜ぶに違いない。
実際に。
インドでは指が6本ある人をよく見かけた。
あれだけいるということは、日本にもそういう子がたくさん生まれているということだと思う。
きっと日本では生まれた途端に整形しているのだろう。
そうして異常者は治療され、治りきらない人間は病院に隔離される。
片腕がないとか、近視だとか、肥満だとか、精神病だとか、肝臓病だとかいったところで、それが当たり前の社会、それが普通の基準になってしまえば、それを病気とは言わない。
現に盲腸が機能を停止し、機能停止が病気につながる可能性があるのに、誰も自分が病気だとは言わない。
病気かどうかには絶対的な基準があるわけじゃなくて、社会が都合に合わせて決めているだけだ。
国家の基準に合わない人間は、肉体的にも精神的にも異常者として治療されてしまう。
民族や国家単位でその基準に合わなければ、先進国はその国に病院や学校や工場を建てて社会を治療し、こうして世界は画一化されていく。
* * *
おおおっと。
でかい話になってしまった。
違う違う。
ここまででかい話にするつもりはない。
ないけれども、どうだろう。
痛かったり苦しかったりするのでないのなら、「病気」なんて言葉は使わず、「個性」ということにしてしまえないのだろうか?
治したい人は自分の個性をスタイルに合わせて変えていけばいいんじゃないだろうか?
で、もっといろんな文化、いろんな人生、いろんな身体、いろんな心を認めたらどうだろう。
その方がおもしろそーじゃん。
だから。
オレの数値だっていいじゃん……
うーん、苦しいかね、言い訳としては。