Study 8:年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
ふとした瞬間に、何か不思議な既視感に包まれることがある。
過去に何度も経験したような。
子供の頃のぼくの魂がぼくの体の中を駆け抜けたような。
* * *
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
[ねんねんさいさいはなあいにたり、
さいさいねんねんひとおなじからず]
劉希夷の漢詩「代悲白頭翁」は「花は毎年同じように見えるけれど、人は変わるものだなー」と、人を生かすものとしての自然の美しさ・普遍性と、生きている人の命のはかなさ・瞬間性を対照的に描いた詩と解釈されている。
でもこの言葉、ぼくはここだけ切り取ってもっと別様に解釈したい。
「時間は過去から未来へと流れている」
普通はこう考える。
でもね、昔からぼくには到底そうは思えなかった。
たとえば、時間が未来から過去へ流れたとする。
どうなると思う?
答えはたぶん、いまと変わらない。
人は自分の経験を通して「いま」を感じる。
過去の経験を通じて「いま」を認識する。
ということは、未来から時間が流れてきたとしても、人は「過去」から時間が流れてきたように感じて物事を考えるはずだ。
だとすれば、人にとって時間が過去から未来へ流れようと、未来から過去へ流れようと、関係ないことになる。
それどころか、過去が変わってすべてが変化しようと、いきなりぼくが消えて別の人に魂が入れ替わろうと、ぼくらはまるでそれを認識できず、ただ普通に生きているように思うだけ、ということになりそうだ。
たとえば映画『転校生』(原作、山中恒著 『おれがあいつであいつがおれで』)だ。
(※ここでいう心とか魂は比喩で、霊魂の存在を肯定しているわけではない)
いま、ぼくはぼくを生きている。
あなたはあなたを生きている。
次の瞬間、ぼくの魂がぼくの体を離れ、あなたの体に入る。
あなたの魂があなたの体を離れ、ぼくの体に入る。
そうなったとする。
どうなるか?
おそらく何も変わらない。
あなたの体に入った瞬間、ぼくはあなたの過去を認識してぼくの魂はあなたの心になる。
同じように、ぼくの体に入ったあなたの魂はぼくの心になる。
そうなるだろう。
こういう可能性を考えると、すべてが覆る。
魂は世界にひとつしかないのかもしれない。
過去も未来もないのかもしれない。
過去も未来もたくさんあるのかもしれない。
過去はどんどん変わり、未来もどんどん変わっているのかもしれない。
この瞬間のぼくと次の瞬間のぼく。
両者は実は全然別物なのかもしれない。
ただ。
その瞬間瞬間だけが真実。
その瞬間瞬間だけは真実。
いつもぼくたちは過去を意識して、未来を考えて生きている。
でも、たしかな過去もたしかな未来も存在しないのかもしれない。
時間そのものが、存在しないのかもしれない。
ただ、瞬間のぼくが存在するためにはぼくの魂が必要で、ぼくが存在するためにはぼくの魂に加えてぼくの心が必要で、ぼくの心があるためにはぼくの心を作り出す他の人が必要で、ぼくと他の人が交流するためにはこの世界が必要で、この世界が存在するためには自然や物質や……
年年歳歳花相似 歳歳年年人不同
本当に大切なのはきっと……