絵&写真5:リンゴの正体 ~セザンヌ主義~

東京でいちばん好きな空間は?
ココをひとつの候補地として挙げたい。

 

東京新宿の損保ジャパン東郷青児美術館、常設の特別展示室。

ゴッホ「ひまわり」、ゴーギャン「アリスカンの並木路、アルル」、セザンヌ「リンゴとナプキン」が並んだあの空間だ。

フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」1888年、損保ジャパン東郷青児美術館
フィンセント・ファン・ゴッホ「ひまわり」1888年、損保ジャパン東郷青児美術館

さて、話は静物画だ。

学生時代は静物画などまったく理解できなかった。
この時代にリンゴだのナプキンだのを描いていったいなんの意味があるんだ?
正確に描きたければ写真を撮ればいいし、美を表現したければ風景なり抽象画を描けばいい。
物をキャンバスに写して何をしたいんだ?
そう思っていた。

そんな考えを変えたのがゴッホの「パリの小説」だ。
「美」についてたいへんな誤解をしているのではないかと気がついた。
セザンヌを見るとそれを強く意識させられる。

先日、横浜美術館で開催されていた「セザンヌ主義-父と呼ばれる画家への礼讃」を見に行った。
やっぱりセザンヌはいいなー。
いろいろな絵を描いているけれど、ぼくはなんといってもリンゴなどのフルーツを描いた作品が好きだ。

セザンヌはこんなことを言ったという。
「リンゴひとつでパリを征服する」
そしてリンゴにこだわった結果、リンゴの絵を60点以上も残すことになった。

ポール・セザンヌ「リンゴとビスケット」1895年、オランジェリー美術館
ポール・セザンヌ「リンゴとビスケット」1895年、オランジェリー美術館

セザンヌはリンゴを描くとき、じっと見つめるのはもちろん、触れて肌触りや重みを確かめ、香りを嗅ぎ、食べて味わい、その音に耳を澄ませ……五官をフルに使ってリンゴを感じていたという。
挙句に「匂いが見える」とさえ言ったらしい。
泣けるほどによくわかる。

そもそもリンゴってなんだろう?

リンゴの色はリンゴではない。
リンゴから反射した可視光線を人の目がとらえ、それを脳(人の思考)が処理して見せているのがリンゴの色であり形だ。
紫外線や赤外線、X線でリンゴを観測すればまったく違う色・形になるし、動物や昆虫の目でリンゴを見ると全然違うものに見えるだろう。

同じように、リンゴの味はけっしてリンゴではない。
味は人が感じているもので、味自体はリンゴではない。
もちろんリンゴの香りもリンゴではない。
本当の「リンゴ」はもともとそれらが渾然一体となっているものだ。

そうすると、リンゴの色や形や味は人が生み出したものだとさえ言える気がしてしまう。
ところが、それも考えずらい。
そりゃそうだ、この世界のすべてを自分自身で創り出していることになってしまうから。

本当の「リンゴ」と、それを感じる「私」との間には、とても親密な関係がある。
どちらがどちらとさえ言えないような、主観と客観が混じり合うとても不思議な関係が。

セザンヌの言葉を使えば、「風景が私の中で考える。私は風景の意識なのだ」ということになる。

(モーリス・メルロ=ポンティ著、中山元訳『メルロ=ポンティ コレクション』ちくま学芸文庫より)

ポール・セザンヌ「リンゴのある静物」1892-1895年、バーンズ美術館
ポール・セザンヌ「リンゴのある静物」1892-1895年、バーンズ美術館

話を戻そう。
リンゴを言葉で説明しようとすると、リンゴを色や形や肌触りや味や香りや音や物質の話に分けて語るしか方法がない。
でも、その方法ではどうやってもリンゴを正確に表現できない。
リンゴの味ひとつ、他人に伝えることができないのだから。
でも人は本当の「リンゴ」の存在を知っていた。
だからすべてを一気に説明する「リンゴ」という言葉を生み出した。

人は「リンゴ」も、それを感じているこの「私」も、正確に表現することができない。
ところが、人は「リンゴ」も、いままさに生きているこの「私」も、当たり前のように感じて生きている。

「原初的な知覚においては、この触ることと見ることという区別はあいまいである。次いで、人間の身体の科学によって、私たちは自分の五感を区別することを学ぶ。生きられた事物は、五感のデータに基づいて再発見されたり、構成されたりするのではなく、これらのデータを発散する中心として、一挙に自らを与える。私たちは事物の奥行き、手触り、柔らかさ、堅さを見る。セザンヌは<匂い>を見るとまでいっていた。画家が世界を表現しようとすると、色の配置がそのうちに、見えないものの『全体』を蔵している必要がある。そうでないと、画家の絵は、事物の暗示にすぎないものになり、差し迫った統一性、現前、乗り越えることのできない充溢(私たちのにとって現実的なものの定義とは、まさにこれにある)を与えることがない」

(中山元訳『メルロ=ポンティ コレクション』ちくま学芸文庫収容、モーリス・メルロ=ポンティ著『意味と無意味』より)

人が感じる「リンゴ」とは、リンゴの色や形や肌触りや味や香りや音や物質のことではない。
説明できなくても、人はすべてが一緒くたになったリンゴをなんとなくイメージすることができる。
自分自身がいままさに生きていることを、色や形や肌触りや味や香りや音や物質で証明しなくたって、即座に知ることができる。

だからこそセザンヌは言う。
「自然を円筒形、球形、円錐によって扱い、すべてを遠近法のなかに入れなさい。つまり対象や画の各側面がひとつの中心点に向かっていくようにしなさい。――地平線に平行な線は広がりを、つまり自然の一断面を与えます。あるいはお望みならば、全知全能にして永遠なる神が私たちの眼前に広げてみせる光景の一断面と言ってもかまいません」

(エミール・ベルナール宛の書簡より)

セザンヌにとって「リンゴを描く」とは、本当の「リンゴ」や本当の「私」にアクセスすること。
そして知性では到達できない「本当の世界」、「神の領域」に触れることを意味する。

だから、ぼくは時々損保ジャパン東郷青児美術館のあの部屋を訪れる。
そんな領域で生かされているぼくを見つめるために。

 

<関連サイト>

損保ジャパン東郷青児美術館(公式サイト)


News

★姉妹サイト「世界遺産データベース」を制作中です。現在、ヨーロッパの世界遺産を執筆しています。

★世界遺産カテゴリー "WORLD HERITAGE" にて新シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の建築」を立ち上げました。世界遺産を通して世界の建築を学びましょう。

 →世界遺産で学ぶ世界の建築

★世界遺産カテゴリー "WORLD HERITAGE" にて新シリーズ「世界遺産検定攻略法」が始動! 最難関の1級とマイスター攻略を中心に、受検戦略や学習法を紹介します。

 →世界遺産検定攻略法

E-book

■Amazon Kindle

■楽天Kobo

自然遺産候補地「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」の魅力を解説
自然遺産候補地「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」が5月に登録勧告を得て7月の正式登録が確実なものとなった。その内容を紹介する。クリックで外部記事へ
文化遺産候補地「北海道・北東北の縄文遺跡群」の魅力を解説
2021年7月に世界遺産登録の可否が決まる文化遺産候補地「北海道・北東北の縄文遺跡群(北海道・青森・岩手・秋田)」の魅力を解説する。クリックで外部記事へ

Topics

 

・All About 世界遺産 新記事

 北海道・北東北の縄文遺跡群

 奄美・徳之島・沖縄島・西表島

 2019年新登録の世界遺産

 ンゴロンゴロ/タンザニア

 イエローストーン/アメリカ

 

・その他

『朝日新聞 世界の扉』記事執筆。『Fine』自然遺産特集執筆。『地球の歩き方 MOOK 世界のビーチBEST100』『ノジュール』に旅のスペシャリスト・達人として参加。『PEN』でアフリカの世界遺産執筆。『MONOQLO』世界遺産特集取材協力。『女性セブン』で日本の世界遺産を解説。エクスナレッジ『聖地建築巡礼 世界遺産から現代建築まで、73の聖地を巡る旅』、洋泉社ムック『負の世界遺産』執筆。RKBラジオ、FM TOKYOで世界遺産特集出演。その他企業・大学広報誌等。

New articles

<旅論:たびロジー>

1.あなたは幸せですか?

.麻薬は悪? ゴキブリは汚い?

.裸とワイセツ

 

<エロス論:エロジー>

.遊びの本質

.おいしい、美しい、気持ちいい

.文化SM論

 

<絵と写真の話>

.アートと魂~抽象画とポロック

.ロスコの扉 ~ロスコ・ルーム~

10.写真と抽象芸術~グルスキー

 

<哲学的探究:哲学入門>

1.哲学とは何か?

2.「正しい-間違い」とは何か?

3.証明とは何か?

4.わかる・理解するとは何か?

5.力とは何か? 波とは何か?

6.物質とは何か?

7.見る・感じるとは何か?

8.空間とは何か?

9.時間とは何か?

10.物質と時間を超えて

以下続く。

 

<哲学的考察:ウソだ!>

.無と偶然

.ことだま-はじめに言葉ありき

10.物質とは何か?

11.神とは何か?-一神教と多神教

 

<世界遺産NEWS>

世界遺産最新情報/ニュース

 

<世界遺産ランキング集>

登録基準に見る世界遺産

世界の七不思議

国内集計の世界遺産ランキング

海外集計の世界遺産ランキング

世界遺産国別ランキング

 

<UNESCOリスト集>

日本の遺産リスト

無形文化遺産リスト

世界の記憶リスト

世界遺産リスト

ユネスコエコパーク・リスト

世界ジオパーク・リスト

創造都市リスト

世界危機言語アトラス・リスト

 

<世界遺産の見方>

知性的鑑賞法

感性的鑑賞法

異文化理解の方法論

正しい・間違いの基準

星と大地と古代遺跡

 

<味わう世界遺産>

.王様のワイン トカイ

.命の水 テキーラ

.ポルトガルの宝石 ポート

.神の贈り物チョコレート

 

<世界遺産で学ぶ世界史>

01.宇宙と地球の誕生

02.大陸の形成

03.地形の形成

04.生命の誕生

05.生命の進化

06.人類の夜明け

07.文明の誕生

08.エジプト文明

09.インダス文明

10.中国文明

以下続く。

 

<世界遺産で学ぶ世界の建築>

01.建築の種類1:城と宮殿

02.建築の種類2:宗教建築

03.建築の種類3:メガリス

04.木造建築の基礎知識

05.石造建築の基礎知識

06.ギリシア建築

07.ローマ建築

08.ビザンツ/ビザンチン建築

09.ロマネスク建築

10.ゴシック建築

以下続く。

 

<世界遺産写真館>

1.文化交差路サマルカンド1

2.文化交差路サマルカンド2

3.アッパー・スヴァネティ

4.グラナダのアルハンブラ宮殿1

5.グラナダのアルハンブラ宮殿2

6.コトル

7.プレア・ヴィヒア寺院

8.福建の土楼1

9.福建の土楼2

10.フォンニャ=ケバン国立公園1

以下続く。

 

<世界遺産攻略法>

1.世界遺産検定攻略の理念と背景

2.世界遺産検定の概要

3.試験戦略の一般論

4.試験戦略の理念

5.世界遺産検定の受検戦略

6.試験勉強の3要素

7.世界遺産検定 最効率学習法

8.時事問題・世界史・検定講座

9.マイスター試験の概要

10.マイスター試験問1・2対策

11.マイスター試験問3対策

12.マイスター試験時間術&解答術

Blog

Link

Search

Site map

○Travel[旅]

○World heritage[世界遺産]

○Art[芸術]

○Logic[哲学]

○Library[私的図書館]

○Profile[プロフィール]

○Work[仕事について]

○Inquiry[お問合せ]

○Blog[ブログ]

※本サイトはリンクフリーです