哲学的考察 ウソだ! 9:ことだま 後編 <天地創造>
ぼくらは未知なる海の中にいる。
知らないこと、見えないもの、触れることもできないものに囲まれている。
ぼくらがどこから来て、どこへ行くのか、誰も知らない。
いつもの例。
1個のリンゴがある。
リンゴの色はリンゴではない。
リンゴの像はリンゴから届く光を人の思考が分析して見せている虚像だ。
リンゴの香りもリンゴではない。
リンゴから届く香りの成分を感覚におとしめた結果が香りだ。
リンゴの味もリンゴではない。
リンゴとは、リンゴの色や香りや味を発するものであって、色や香りや味自体ではない。
本当のリンゴの姿ってなんだろう?
それは完全に闇の中。
未知の海に潜む謎の存在。
人の思考と感覚の域外の存在だ。
しかし、人は昔からその存在を知っていた。
だから、リンゴの色や香りや味や肌触りを表す言葉だけでは事足りず、それらをまとめて発する存在に言葉を与えた。
「リンゴ」という言葉を。
リンゴは赤い。
こうして「リンゴ」という見ることも聞くことも味わうこともできない存在は、その性質の一端を言葉で表されるようになる。
リンゴは甘い。
もうひとつのセンテンスで、さらにリンゴの性質が絞り込まれていく。
リンゴはよい香り。リンゴは掌くらいの大きさ。おいしいリンゴは重い……
こうして数多くの言葉が表現できるはずのないものを表現していく。
それは形のない魚を捕らえようとする投網のようなもの。
一本一本の糸がセンテンス。
数多くの糸が集まって、網の中に捕らえられた無色透明・無味無臭なものの存在を形作る。
直接見えることはなくても、たわむ糸々がその外形を象っていく。
人は幾重にも幾重にも言葉の糸を編んで、表現できぬものを形にしようと網を織り、未知という海に網投げて、目に見えぬものを捉えようとする。
「一輪の本当のバラは沈黙している。だが、その沈黙は、バラについての、リルケのいかなる美しい詩句にもまして、私を慰める。言葉とは本来そのような貧しさに住むるものではないのか。バラについてのすべての言葉は、一輪の本当のバラの沈黙のためにあるのだ」
(谷川俊太郎『二十億光年の孤独』集英社文庫収録「私にとって必要な逸脱」より)
これが言葉だ。これが名前だ。
そして、こうして世界は誕生した。
■宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』より
千尋「私の本当の名前は千尋っていうんです」
ゼニーバ「ちひろ……いい名だね、自分の名前を大事にね」
千尋「ハイ」
千尋「ハク、聞いて。お母さんから聞いたんで自分では覚えてなかったんだけど、私 小さい時 川に落ちたことがあるの。その川はもうマンションになって埋められちゃったんだって。でもいま 思い出したの。その川の名は……その川はね コハク川。あなたの本当の名は、コハク川」
ハク「あーっ。千尋、ありがとう。私の本当の名はニギハヤミ コハクヌシだ」
千尋「ニギハヤミ?」
ハク「ニギハヤミ コハクヌシ」
千尋「すごい名前。神様みたい」
千尋「ハクは? ハクはどうするの?」
ハク「私は湯バーバと話をつけて弟子をやめる。平気さ 本当の名を取り戻したから。元の世界に私も戻るよ」
千尋「またどこかで会える?」
ハク「ウン。きっと」
千尋「きっとよ」
* * *
言葉がなければぼくが生まれることはなく、世界が開けることはなかった。
言葉がなければ世界が開けることはなく、ぼくが生まれることはなかった。
いま見ているこの世界。
言葉が創ったこの世界。
それは、建物が人によって造り出されたというような小さな意味ではない。
この空も大地も木々も、言葉によって生み出されたものだ。
それを欲した人類が、言葉を与えることで生まれてきたものだ。
未知という海から言葉によって人類が引き上げた宝物。
それがこの世界だ。
言葉はその歴史を背負っている。
だから、ぼくらは過去のあらゆる人と共にある。
だからこそ。
言葉とはそのまま光であり、命であり、魂であり、神であり、世界なのだ。
「神は言われた。『光あれ』。そして、光があった。
神は光を見て、よしとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ば れた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である」
(『旧約聖書』「創世記」)より)
人はひとりでは生きられない。
誰かが言葉を創ったのだから。
誰かが言葉を伝えたのだから。
ぼくに。
あなたに。