世界遺産と世界史49.第1次世界大戦
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<ヨーロッパの火薬庫>
■列強の対立関係
帝国列強は世界分割の中で植民地獲得競争を繰り広げながら、利害の合うもの同士で同盟や協商という形で関係を築いていきました。
ビスマルク体制下では独・墺・露が三帝同盟、独・墺・伊が三国同盟、独・露が再保障条約を結び、英が光栄ある孤立を貫いていました(なお、「墺」はオーストリア、この時代はオーストリア=ハンガリーを示します)。
1890年にドイツが再保障条約の更新を拒んだことから、ロシアは翌年資本を求めてフランスと露仏同盟を締結。
1902年にイギリスは孤立を解き、ロシアを牽制するために日英同盟を結び、1904年にはドイツに対抗するため英仏協商を締結しました。
日露戦争後、ロシアは東アジアにおける南下政策を断念し、関係を改善するため1907年に日露協約を締結し、バルカン半島へ侵出を図るドイツに対抗するため英露協商を結びます。
こうして英・仏・露は三国協商と呼ばれる関係を構築しました。
独・墺・伊の三国同盟の一端を担っていたイタリアは、南チロルやトリエステといったオーストリア領に留まった「未回収のイタリア」を巡ってオーストリア=ハンガリーと関係が悪化。
これに対抗するためイタリアはフランスに接近して1902年に仏伊協商を結びます。
ドイツとオーストリア=ハンガリーはパン=ゲルマン主義で一致し、三国協商と対立しました。
■バルカン半島を巡る混乱
1908年にオスマン帝国で青年トルコが政権を握ると(青年トルコ革命)、混乱に乗じてオーストリア=ハンガリーは1878年のベルリン会議以来保護していたボスニア・ヘルツェゴビナを併合します。
また、オスマン帝国下にあったブルガリアも独立を宣言し、翌年承認されました。
バルカン半島のセルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアはオスマン帝国に対する軍事同盟として1912年にバルカン同盟を結び、ロシアはこれを支持します。
こうしてバルカン半島ではオスマン帝国と、オーストリア=ハンガリーが主導するパン=ゲルマン主義、ロシアが主導するパン=スラヴ主義が激しく対立しました。
1911年、バルカン同盟はアルバニアの反乱を機にオスマン帝国に宣戦布告(~1913年、第1次バルカン戦争)。
ロシアが支援に回ったこともあってバルカン同盟が勝利すると、1913年のロンドン条約でオスマン帝国はヨーロッパ領とクレタ島を失い、ついにヨーロッパから撤退します。
結果的にアルバニアの独立が承認されたほか、マケドニアが分割されてブルガリアが大きく勢力を伸ばしています。
ブルガリアはもともとテュルク系(トルコ系)が多く、マケドニアの領有権を主張していました。
このため1913年にセルビアやギリシアに侵攻して第2次バルカン戦争がはじまります。
オスマン帝国、モンテネグロ、ルーマニアがセルビア・ギリシア側についたためブルガリアは敗北を喫し、ブカレスト条約によってブルガリアは領土を削られました。
こうして民族・宗教が入り乱れ、さらにオスマン帝国、パン=ゲルマン主義、パン=スラヴ主義の綱引きが加わり、さらに東方での勢力拡大を目指すイギリスやフランス、イタリアをはじめとする他の帝国主義国家の思惑もあって混迷しました。
バルカン半島はきわめて不安定な状態となり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるに至ります。
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<第1次世界大戦>
第1次世界大戦の勢力の推移。Central Powers=同盟国(中央同盟国)、Allied Forces=連合国、Neutral States=中立国
■サラエボ事件
1914年6月28日、ボスニアのサラエボを訪れていたオーストリアの皇太子フランツ・フェルディナントとその夫人がセルビア主義(スラヴ系セルビア人によるバルカン西部統一運動)を掲げる学生民族主義者に射殺されました(サラエボ事件)。
オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は背後にセルビアがいるとして、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の支持を得た後、10の条件を記した最後通牒を送付。
セルビアが条件をつけたことから国交を断絶し、7月28日に宣戦を布告します。
ロシア皇帝ニコライ2世はセルビア支援を表明し、軍部が動員をかけたことに対してドイツが反発して最後通牒を送達。
これを受けて8月1日にロシアがドイツに宣戦布告すると、露仏同盟により同3日にフランスがドイツに宣戦布告しました。
そもそもビスマルク外交では、ドイツを東西から挟むロシアとフランスが手を結ばないよう戦略を立てていました。
しかし、この状況を打開するためドイツ軍部は協商国との戦争をシミュレートし、西のフランスをいち早く叩いて東のロシアと対峙するシュリーフェン・プランを成立させました。
これが戦争の急速な拡大を招いたともいわれます。
シュリーフェン・プランを成功させるためには、戦争がはじまるや否や電撃的にフランスを侵略する必要があります。
ドイツは中立国ベルギーに対して軍の通過を要求しますが、ベルギーがこれを拒否。
ドイツが8月4日に侵入を強行したことでベルギーとの戦闘が開始され、中立が犯されたことを理由にイギリスが参戦します。
三国同盟のもう1か国であるイタリアは「未回収のイタリア」を巡ってオーストリア=ハンガリーと対立が深刻化していたこともあり、8月2日に中立を表明。
翌年には協商国とロンドン条約を結んで連合国(協商国を中心とした国々)側に立って参戦します。
日英同盟を結んでいた日本はイギリス側に立ち、中国やミクロネシアのドイツ領・ドイツ権益を狙って8月23日にドイツに対して宣戦を布告。
アメリカは序盤、モンロー主義(アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉)を掲げて中立を保ちました。
■戦線の拡大
ドイツは西部戦線※でベルギーの予想外の抵抗に遭遇。
なんとかリエージュの戦いに勝利してフランスに侵入するも、イギリスのフランス支援もあって時間を費やし、マルヌの戦いで侵攻は阻止されてしまいます。
西部戦線はやがて穴や溝を掘った塹壕に潜んで戦う塹壕戦となって膠着します。
東部戦線ではロシアが予想外にすばやく動員を行い、8月17日に東プロイセンを攻撃します。
ドイツはこのタンネンベルクの戦いで大勝利を収めますが、西部と東部両戦線での対応を迫られてシュリーフェン・プランは早々に頓挫しました。
ロシアはこの大敗に大きなショックを受けて戦線を後退させ、一方のドイツもロシア領へ歩を進めるものの冬の到来と二正面作戦のために十分な戦力を供給できず、こちらも膠着してしまいます。
バルカン半島では、オーストリア=ハンガリーとセルビアの戦いが行われていましたが、10月に反ロシアを掲げるオスマン帝国が同盟国側に立って参戦。
オスマン帝国が黒海と地中海をつなぐダーダネルス海峡とボスポラス海峡を押さえたことでロシアは地中海への出口を失ってしまいます。
制海権を得るためにロシアの協力が必要なイギリスとフランスは、翌春からダーダネルス海峡のガリポリ要塞を攻撃しますが(ガリポリの戦い)、オスマン帝国はムスタファ・ケマル(後のトルコ共和国初代大統領ケマル・パシャ/ケマル・アタチュルク)の活躍でこれを阻止。
1915年10月にはブルガリアが同盟国側、ギリシアが連合国側で参戦し、12月にはオーストリア=ハンガリーがセルビアを落として占領します。
※世界遺産「第1次世界大戦[西部戦線]の葬祭と記憶の地(フランス/ベルギー共通)」
■イギリスの中東戦略と日本
デヴィッド・リーン監督『アラビアのロレンス』予告編。イギリスの陸軍将校トーマス・エドワード・ロレンスの活躍とアラブ反乱を描いた第35回アカデミー賞作品賞受賞作品
東ではオスマン帝国が参戦したことから、エジプトを事実上保護国化していたイギリスが正式に保護国化を宣言します。
そしてイギリスはカイロ※を拠点にアラブ各地の民族自決を支援して反乱を先導し、1915年にはアラブの独立とアラブ人のパレスチナ居住を認めるフサイン=マクマホン協定を締結。
翌1916年、メッカのアミール(総督)であるハーシム家のフサイン・イブン・アリーがアラブ国家の創設を目指してアラブ反乱を起こし、ヒジャーズ王国(首都メッカ)を建国します。
同年、イギリスはフランス、ロシアと秘密協定(サイクス=ピコ協定)を結んでオスマン帝国崩壊後の分割方法を協議。
さらに、ユダヤ人の協力を取りつけるため、1917年にユダヤ人居住地の創設を承認します(バルフォア宣言)。
イギリスはこうした三枚舌外交によってレヴァント地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン周辺)とアラビア半島を切り刻み、諸民族を利用しつつ支配域の拡大を図りました。
これが将来のユダヤ=パレスチナ問題や中東戦争の要因となります。
遠く極東において、日本は1914年9月にドイツが支配する山東半島に上陸し、膠州湾(こうしゅうわん)の青島(チンタオ)を攻略。
その後ミクロネシアのマーシャル諸島やマリアナ諸島をはじめとするドイツ領を占領します。
1915年1月には中華民国の大総統・袁世凱(えんせいがい)に対して山東省のドイツ権益の継承や南満州の旅順・大連の租借期限延長などを求めた二十一か条の要求を突きつけ、ほとんどを認めさせました。
※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
■消耗戦・総力戦
第1次世界大戦末期の様子を描いた2022年版『西部戦線異状なし』予告編
塹壕戦が展開されていた西部戦線では、1916年にドイツがフランスに対して総攻撃を仕掛けたヴェルダンの戦い、イギリス・フランスが逆攻勢をかけたソンムの戦い※が勃発。
戦車・攻撃機・毒ガスなどの新兵器が投入された結果、両軍合わせて200万を超える犠牲者を出しましたが、戦況は変わりませんでした。
海ではイギリスが海上封鎖網を敷いてドイツの貿易を停止させると同時に、ドイツ海軍の主力をバルト海に封じ込めていました。
これに対してドイツはUボートと呼ばれる潜水艦を配備して無差別に船舶を襲撃する無制限潜水艦作戦を展開。
イギリスは当初大打撃を受けますが、1915年5月にイギリスの豪華客船ルシタニア号が撃沈されてアメリカ人128人を含む1,198人の犠牲者が出ると、アメリカをはじめとする中立国からも多くの非難が出て無差別の作戦は一時中止されました。
イギリスはその後、護送船団方式と機雷で対抗し、被害を大幅に減少させました。
こうしていずれの戦線でも長期消耗戦・総力戦の様相を呈し、特に海運を遮断されたドイツやオーストリア=ハンガリー、ロシアは軍事優先の産業転換・食料の配給制・女性の軍需産業への動員などが行われ、国民の生活はきわめて悪化しました。
※世界遺産「第1次世界大戦[西部戦線]の葬祭と記憶の地(フランス/ベルギー共通)」
■ロシアの離脱、アメリカの参戦
戦局は1917年に動き出します。
ロシアでは連敗と食糧・燃料不足から戦争反対・政権打倒の機運が広がり、各地でデモやストライキが頻発。
その結果、1917年3月(ロシア暦2月)に二月革命が起こってニコライ2世が退位し、ロシア帝国が滅亡します(革命については後述)。
11月(同10月)には十月革命でレーニンやトロツキーらのソビエト政権が誕生。
レーニンは「平和に関する布告」を発表し、労働者や農民・兵士の立場に立って無償金(無賠償)・無併合・民族自決・秘密条約の破棄を原則とする講和を呼びかけました。
各国の市民に対して反戦を訴えるこの革命・布告は資本主義を掲げる連合国だけでなく、帝政を敷くドイツやオーストリア=ハンガリー、オスマン帝国にも大きな衝撃を与えました。
連合国は革命の拡大を恐れて布告を無視しましたが、ソビエト政権は1918年3月、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国、ブルガリア、ウクライナとブレスト=リトフスク条約を締結して講和し、大戦から離脱します。
アメリカのウィルソン大統領は、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦の再開を宣言すると連合国側での参戦を決意し、4月にドイツ、12月にオーストリア=ハンガリーに宣戦を布告します。
1918年1月、ウィルソンは「平和に関する布告」に対抗して「十四か条の平和原則」を発表。
秘密外交の廃止、海洋の自由、関税障壁の撤廃、軍縮、ベルギーの主権回復、アルザス・ロレーヌのフランス返還、ポーランドの独立、国際平和機構の設立、民族自決などを呼び掛けました。
これ以降、アメリカを含めた連合国はドイツに対抗するだけでなく、ソビエトへの干渉を強めていきます。
■ドイツ、オーストリア両帝国の滅亡
ドイツはソビエトと講和したことで西部戦線に部隊を集中して春季攻勢を開始。
パリ①の目前まで迫りますが、200万を超えるアメリカの兵力が到着しはじめると戦況は逆転し、1918年7月のマルヌの戦いや8月のアミアンの戦いで大敗を喫します。
1918年9月にはブルガリア、10月にはオスマン帝国が事実上降伏して休戦協定を締結。
ドイツも敗戦が濃厚となり、10月には出撃命令を受けたキール軍港の水兵たちが命令を拒否します。
これに処罰が下されると水兵らは反乱を起こし(キールの反乱)、各地で反乱や暴動が起こってバイエルン王国などで王政が倒されました。
オーストリア=ハンガリーは10~11月に戦われたイタリアとのヴィットリオ・ヴェネトの戦いで大敗し、国内でもチェコスロバキアやポーランド、ボヘミア(ベーメン)、クロアチアなどで独立運動が活発化。
ドイツもオーストリア=ハンガリーも敗戦どころか帝国崩壊の危機に直面します。
11月3日、オーストリア=ハンガリーはイタリアに降伏して休戦協定に調印。
11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が事実上退位してオランダに亡命、ドイツ帝国が滅亡。
11月11日、オーストリア=ハンガリー皇帝カール1世がウィーン②のシェーンブルン宮殿③で国事不関与宣言を行って事実上退位し、オーストリア=ハンガリー帝国も崩壊しました。
この日、ドイツ共和国の臨時政府は連合国と休戦協定を結び、ここに第1次世界大戦が終結しました。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
③世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
[関連サイト]
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<ソ連の成立>
■第2次ロシア革命
フランクリン・シャフナー監督『ニコライとアレクサンドラ』予告編。ニコライ2世と皇后アレクサンドラを中心に1917年の第2次ロシア革命(二月革命と十月革命)を描いています
ロシアは大戦の緒戦のタンネンベルクの戦いに大敗して以来負けを重ね、国民は食糧や燃料にも困窮する生活を強いられていました。
政権への不満が募って各地でデモやストライキが頻発。
労働者や兵士たちは労働者自治組織=ソビエト(評議会)を組織して集まり、不満を訴えました。
1917年3月(ロシア暦2月)、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク※)で女性労働者がパンを求めてデモを開始。
これに各地のソビエトが呼応して帝政打倒を掲げる反乱に発達し、ロマノフ朝の皇帝ニコライ2世が退位して帝政が崩壊しました(二月革命。グレゴリオ暦の3月にあたることから三月革命とも呼ばれます)。
ロシアの国会(ドゥーマ)のメンバーを中心に臨時政府を立てて戦争を継続しますが、ソビエトは戦争に反対し、農民は土地を、ウクライナ人やフィンランド人などの諸民族は独立を求めて蜂起しました。
ロシアでは1898年にマルクス主義を掲げるロシア社会民主労働党が設立されていましたが、直後にレーニンらのボリシェヴィキとプレハーノフらのメンシェヴィキに分裂。
レーニンは労働者解放運動に参加した罪でシベリアに流刑となり、その後スイスに亡命していました。
1917年4月にレーニンがペトログラードに帰還すると、四月テーゼで「すべての権力をソビエトへ」という方針を発表し、人々に臨時政府を支持しないよう訴えます。
7月にボリシェヴィキが戦争反対を掲げてデモを開催すると、首相となったケレンスキー率いる臨時政府はこれを弾圧(七月暴動)。
レーニンはフィンランドに亡命しますが、反戦を掲げるボリシェヴィキに対する支持はこの後も拡大していきます。
9月に軍部のコルニーロフが反乱を起こしますが、臨時政府はこれを押さえきれず、代わりにトロツキーらが率いるボリシェヴィキが赤衛軍を組織して反乱を鎮圧します。
十分な支持と力を確信したレーニンは武装蜂起を決意。
11月(ロシア暦10月)にペトログラードの冬宮殿※を襲撃して臨時政府を打倒しました(十月革命。十一月革命とも)。
二月革命と十月革命はロシア革命、あるいは1905年の血の日曜日事件以来の第1次ロシア革命(第1革命)と対比させて第2次ロシア革命(第2革命)と呼ばれています。
※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)」
■世界初の社会主義政権
十月革命の翌日、ボリシェヴィキが多数を占める全ロシア=ソビエト大会が開催されて新政権が誕生。
世界初の社会主義国家、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国(ソビエト共和国)が成立しました。
レーニンは人民委員会議長となり、実質的に元首に就任。
また、レーニンが起草した無償金・無併合・民族自決・秘密条約の破棄を原則とする「平和に関する布告」と、地主の土地を取り上げて農民に配分する「土地に関する布告」が採択されました。
1918年1月には憲法制定議会を閉鎖。
3月にボリシェヴィキは共産党に改称し、他の政党を禁止して共産党独裁を完成させました。
この頃、首都機能もモスクワ※に遷されています(正式な遷都は1922年)。
1918年3月、ソビエト政権は同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結。
政情の不安定と国際的な孤立から、ポーランド、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、フィンランドの放棄やウクライナの独立を認めさせられるなど大幅な譲渡を強いられましたが、ともかく終戦を実現し、いち早く第1次世界大戦の戦線から離脱しました。
※世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア)」
■ソ連の誕生
戦争が終わって平和が訪れるかに見えましたが、連合国にとって反帝国主義・反資本主義を掲げる第2次ロシア革命の成功は阻止すべきものでした。
このためボリシェヴィキをテロ組織と断じて反革命組織(白軍)を支援し、対ソ干渉戦争を開始します。
1918年3月にイギリス、フランスは北極圏のムルマンスクに上陸し、日本はウラジオストクを占領。
さらに、シベリアで戦っていたチェコスロバキア兵の救出を口実にして、主に日本とアメリカがシベリア出兵を行いました。
これらに対してソビエト政府は赤衛隊を発展させた赤軍とチェカ(非常委員会)を展開して対抗しました。
ドイツとの西部戦線での戦いが激化したことで連合国は干渉戦争に集中することができません。
また、ドイツの敗戦が決まると厭戦ムードが広まって干渉軍は徐々に撤退。
ソビエト国内の反革命派も1920年ほどまでに鎮圧されていきました。
こうしてレーニンは干渉戦争と反革命運動の制圧に成功しますが、戦時共産主義によって人々の生活は困窮しており、農民や労働者の反乱は続きました。
このため一定の範囲で市場経済を容認した結果(新経済政策=ネップ)、経済は回復し、資本主義諸国との関係も改善に向かいました。
そして1922年、ロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ザカフカースという4つのソビエト共和国が連邦を形成。
ここにソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生します。
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次回は戦後体制とアジア・アフリカの民族運動を紹介します。