世界遺産と世界史45.帝国主義
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
■電子書籍『世界遺産で学ぶ世界の歴史 ~海外旅行から世界遺産学習まで~』
1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<フランス植民地帝国>
フランスの版図の推移。西暦は左上に記載。およそ半分までが第1植民地帝国で、後半が第2植民地帝国
■第2帝政
フランスの政治体制はフランス革命以降、「第1共和政→ジャコバン独裁→第1帝政→復古王政→七月王政→第2共和政」と目まぐるしく変化し、イギリスとの植民地戦争に敗れてほとんどの海外領土を失っていました。
そんな中、1852年、ルイ・ナポレオンはナポレオン3世として皇帝位に就きます。
ナポレオン3世は国民投票を根拠に人民主権をうたいましたが、彼の治世で国民投票は2回しか行われませんでした。
ボナパルティスムは帝政ではありましたが、国民の人気を支持基盤としていたため、自由主義的な改革と積極的な外交は不可欠なものでした。
1830年代にはじまったフランスの産業革命は1860年代に完成し、この富を背景に都市や鉄道網を整備し、保護貿易から自由貿易に転換して産業の自由化を促しました。
一例がパリ改造で、1855年と1867年にはパリ万国博覧会を開催し、現在のパリ①の基盤が築かれました。
フランスでは他にリヨン②、マルセイユなどでも都市改造が行われ、バルセロナやストックホルム、ウィーン③などの都市改造にも影響を与えました。
ちなみに、フランスの産業革命において、エネルギー源である石炭を供給してフランスの近代化・工業化を支えたのがノール=パ・ド・カレー④です。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「リヨン歴史地区(フランス)」
③世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
④世界遺産「ノール=パ・ド・カレーの炭田地帯(フランス)」
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■ナポレオン3世の外征
ナポレオン3世の外征を以下にまとめます。
○クリミア戦争:1853~56年
ロシアとオスマン帝国の戦いで、フランスはイギリス、サルデーニャ王国と強力してオスマン帝国側に立ってロシアと戦いました。ロシアの敗北に終わり、ナポレオン3世はフランス国内で支持を高めます。
○アロー戦争(第2次アヘン戦争):1856~60年
フランス・イギリスと清の戦いで、1860年に北京を落とし、両国は不平等条約である天津条約・北京条約を締結。11港を開港させて自由貿易を推し進めました。
○インドシナ出兵(仏越戦争):1858~62年
スペインと共同でベトナム・グエン朝(阮朝)に出兵。サイゴン(現在のホーチミン)を占領してメコン川下流を割譲させ、コーチシナ(ベトナム南部)西部を占領し、カンボジアを保護国化してフランス領インドシナの基盤を築きました。
○イタリア統一戦争:1859年
サヴォイア、ニースの割譲を条件にサルデーニャ支援を約束しますが(プロンビエールの密約)、オーストリアと早々に単独講和し、ナポレオン3世の日和見的な態度が批判の的になりました。
○メキシコ出兵:1861~67年
メキシコ共和国が債権の利払いを停止すると、債権国であるフランス、スペイン、イギリスが開戦。スペインとイギリスは早々に撤退しますが、フランスは戦いを継続して首都メキシコシティを落とし、ハプスブルク家のマクシミリアーノ1世を皇帝に立ててメキシコ帝国を再興します。しかし、プロイセンとの緊張が高まってフランス軍を撤退させたため、マクシミリアーノ1世が銃殺されて大きな非難が寄せられました。
○プロイセン=フランス戦争(普仏戦争):1870年
統一ドイツの誕生を恐れたナポレオン3世が開戦しますが、スダンの戦いでナポレオン3世は捕縛されてしまいます。ヴェルサイユ宮殿を占領されたあげく、皮肉にも鏡のギャラリー(鏡の回廊/鏡の間)でドイツ皇帝の戴冠式が行われてドイツ帝国の誕生が宣言されました。
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■第3共和政
プロイセン=フランス戦争でフランスは敗北し、臨時政府は莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌ地方の割譲を条件に講和。
1871年3月にはドイツ軍のパリ入城を許しました。
こうした屈辱的な降伏に対してパリ市民20万人がオテル・ド・ヴィル・ド・パリ(パリ市庁舎)①前に集まって労働者政権パリ・コミューンを樹立。
パリで政権を奪いましたが、臨時政府のティエールはヴェルサイユ②に逃れて態勢を整えます。
5月21日からパリで両派の市街戦が勃発。
ドイツ軍がパリを包囲したため退路が経たれ、血で血を争う凄惨な戦いが繰り広げられましたた(血の週間)。
最終的にパリ・コミューンは3万の死者を出してほぼ全滅し、オテル・ド・ヴィル・ド・パリやテュイルリー宮殿などが破壊されました。
ドイツ軍が去ったあとフランスでは共和政が成立(第3共和政)。
制定された共和国憲法は大統領に議会の解散権を与えるなど大きな力を集中させていたため、王党派は大統領権限をベースに王政の復活を画策しますが、選挙で共和派が大勝したため王政復古はなりませんでした。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
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■フランス第2植民地帝国
フランスは19世紀後半から植民地支配を進めます。
1830年、北アフリカのアルジェリア征服を皮切りに、チュニジア、モロッコをフランス領北アフリカとし、サハラ砂漠から中央アフリカに至る地域を押さえてフランス領西アフリカ、その東の中央アフリカやガボン、チャド周辺をフランス領赤道アフリカとしました。
さらにフランス領ソマリランド(ジブチ)やマダガスカルを領有します。
アフリカ北部→西部→中部と侵略を進めて広大な植民地を獲得しますが(アフリカ横断政策)、1898年にイギリスの縦断政策とスーダンのファショダで衝突します(ファショダ事件)。
また、プロイセン=フランス戦争後に東南アジアのインドシナ半島に本格的に進出し、フランス領インドシナを構築。
現在のベトナム、カンボジア、ラオスにまたがる大領域を押さえ、1900年には中国でも広州湾租借地を加えました。
18~19世紀前半、イギリスとの植民地戦争に敗れてほとんどの植民地を失ったフランスですが、こうしてフランス植民地帝国の再興に成功します。
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<イギリス第2帝国>
イギリスの版図の推移。1783年辺りからが第2帝国。Constituents=本国、Dominion=自治領、Colony=植民地、Occupation=占領地、Claim=要求地、Commonwealth/Realm=連邦構成国
■帝国主義
イギリスは1837年に18歳で即位したヴィクトリア女王の時代(~1901年)に繁栄を極め、再び「太陽の沈まぬ帝国」を打ち立てます。
アメリカ独立で崩れた第1帝国に対し、こちらは第2帝国と呼ばれています。
この時代は産業革命が成熟し、金融資本が国家権力と結びついて市場を独占して膨大な富を獲得していました(独占資本)。
この富を背景に海軍力を増強し、海軍力を使って植民地を獲得。
あるいは不平等条約を結んで開国させた後に資源を吸い上げて資本を投下し、マーケットとして整備して自国の製品を売り込んで各地の富を収奪しました。
帝国主義の典型的な事業が鉄道や電信、そして戦争です。
相手国に借款(しゃっかん。国同士の長期資金の貸借)や投資という形で資本を投下(資本輸出)して鉄道や電信などのインフラを整備させ、税収で返済させたり、担保として土地や鉄道敷設権を手に入れました。
インフラ整備といってもそれを受注するのは帝国主義国家の企業で、これによりマーケットを独占し、支配体制を確立しました。
さらには戦争さえも仲介し、資金を両サイドに提供して利益を吸い上げることさえありました。
こうした政策の結果、多くの小国を支配下に置いて大帝国が形成されました。
このように国家と独占資本による植民地拡大政策を「帝国主義」と呼びます。
イギリスには皇帝が存在せず、アメリカには国王すらいなかったように、この場合の「帝国」は多くの国や地域を従える国といった意味で、皇帝が治める国を意味していません。
■イギリス第2帝国の版図
ヴィクトリア女王時代の主な支配地域は以下。
白人入植者が多い地域は自治させ、そうでない地域は直接支配しました。
括弧内は成立年代(アイルランドなら併合、インド帝国なら帝国の成立等)です。
○直轄植民地
アイルランド(1801年)、インド帝国(1877年)
○植民地
香港(1842年)、九龍(1860年)、キプロス島(1878年)、アフガニスタン(1880年)、エジプト(1882年)、ビルマ(1886年)、ケニア(1885年)、ナイジェリア(1886年)、ローデシア(1895年)、マレー連邦(1895年)、スーダン(1899年)
○自治植民地
カナダ連邦(1867年)、オーストラリア(1901年)、ニュージーランド(1907年)、南アフリカ連邦(1910年)
こうした大帝国を築く一方で、ヨーロッパ諸国からは一定の距離を取り、同盟を行わない孤立主義を貫いて「光栄ある孤立」を保ちました。
また、イギリスはその技術力を誇示し、他国と産業の交流を図るため、1851年にロンドン①②で第1回万国博覧会を開催します。
万博には40か国が参加し、のべ500万人が来場しました。
これ以降、万博は各国の威信をかけた催しとなり、最先端の技術を競い合いました。
1880年には万博がはじめて南半球に渡り、オーストラリアのメルボルン③で開催されています。
地球の裏側で開催することで、イギリスはまさに太陽の沈まぬ繁栄を誇示しました。
※①世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
②世界遺産「ロンドン塔(イギリス)」
③世界遺産「ロイヤル・エキシビジョン・ビルとカールトン庭園(オーストラリア)」
[関連サイト]
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<アメリカの台頭>
アメリカの版図の推移
■モンロー主義
1783年のパリ条約で独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は、ナポレオン戦争当初中立を守っていました。
ナポレオン1世が大陸封鎖令を発令すると、イギリスも同様にフランスとその同盟国の港を封鎖して対抗しました。
これによりアメリカの貿易は大きな不利益を受けただけでなく、イギリスはアメリカ船を取り調べ、アメリカ人の徴用をはじめたため米国内で主戦論が台頭しました。
1812年にアメリカ=イギリス戦争(米英戦争。~1814)が勃発すると、カナダを拠点とするイギリス軍は首都ワシントンを占領。
アメリカは窮地に陥りますが、1814年にナポレオン戦争が終わったことで大陸封鎖も解けてアメリカ=イギリス戦争も終戦となりました。
戦争中はイギリスとの貿易が停止したため、アメリカ国内で綿織物の生産が増えて産業革命を促しました。
戦後、イギリスは経済的な発展と同時にアメリカに対する堀や城砦として利用するために、カナダに多くの運河を建設します。
その一例がオタワとキングストンを結ぶリドー運河※です。
こうして英仏間の対立に巻き込まれたこともあり、第5代アメリカ大統領モンローはヨーロッパ諸国のアメリカ大陸に対する干渉を取り除くために孤立主義を取ることを宣言します(1823年、モンロー教書)。
同時に、ナポレオン戦争中に独立したラテン・アメリカ諸国を支援し、ウィーン体制の下で復活しつつあったスペインやフランスの台頭を牽制しました。
これをイギリスが支持したため、スペインなどの旧宗主国は植民地の再興を断念しました。
※世界遺産「リドー運河(カナダ)」
■西漸運動
19世紀にアメリカは大いに領土を拡張します。
1803年、ジェファソン大統領の治世にフランスからミシシッピ川以西に広がるルイジアナ西部を購入。
1818年にイギリス領カナダとの国境を画定し、翌年にはスペインからフロリダを購入します。
この頃、西部開拓は未開発地域の文明化であり、神から与えられた天命であるという「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」という思想が広がり、正当化されました。
未開拓地域との境界線は「フロンティア」と呼ばれ、フロンティアは開拓されるにつれて西に移動していきました(西漸運動)。
1836年、アメリカ人がメキシコ帝国のテキサスに大挙して入植し、テキサス共和国の独立を宣言。
アメリカはこれを支援し、1845年に併合します。
これに怒ったメキシコとの間でアメリカ=メキシコ戦争(1846~48年。米墨戦争)が勃発。
アメリカは首都メキシコシティ※を占領し、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約でカリフォルニアとニューメキシコを獲得しました。
これでアメリカの領土はついに太平洋岸に到達しました。
※世界遺産「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ(メキシコ)」
■奴隷州と自由州
アメリカが領土を広げ、産業が発達するにつれて南部と北部の対立が激化します。
北部では産業革命が進み、綿織物などの軽工業が発達しました。
イギリスの綿製品は北部の産業界の脅威となり、そのためイギリス製品に高い関税をかけて保護貿易を行うよう政府に要請します。
また、農奴解放による労働力の自由化(身分の自由、職業選択の自由、移動の自由)がヨーロッパの産業革命を推進したように、北部では黒人奴隷の自由化が望まれたほか、人道的に奴隷制を非難する声も少なくありませんでした。
一方、南部は黒人奴隷を労働力とするプランテーション(大規模農場)経営で成り立っていました。
主な生産品は綿花でイギリスに大量に輸出されていました。
南部としてはイギリスとの関係悪化や関税の掛け合いに反対して自由貿易を求め、奴隷解放は到底容認できるものではありませんでした。
西部開拓が進んで新しい州が誕生すると、州として奴隷制を認めるか否かが大きな問題になりました。
1819年に奴隷州(奴隷を認める州)と自由州(奴隷を認めない州)の数は同数でしたが、1820年にミズーリ州ができると両者の間で論争が巻き起こります。
結局ミズーリ州は奴隷州になりましたが、東部に自由州を増やすことで妥協し、翌年には北緯36度30分以北には奴隷州を作らないというミズーリ協定が結ばれました。
これ以後も奴隷州と自由州の争いは絶えませんでした。
■南北戦争
スティーヴン・スピルバーグ監督『リンカーン』予告編。リンカンが暗殺される直前の4か月を描いています
1854年に奴隷制反対を唱える共和党が結成され、1860年には共和党のエイブラハム・リンカンが大統領に当選します。
これに南部11州は反発し、ジェファソン・デヴィスを大統領に掲げてアメリカ連合国の建国を宣言。
リンカンはこの離脱を認めず、南北戦争が勃発します(1861~65年)。
経済力と人口では北部が圧倒していましたが、リー将軍率いる南軍とイギリス・フランスの援軍の前に北軍は苦戦を強いられました。
そこで1862年、リンカンは5年間の居住で国有地が与えられるというホームステッド法を施行して西部の農民の支持を得ると、1863年の奴隷解放宣言で国際世論を味方につけます。
1863年7月、南北戦争最大の戦闘にして転換点となったゲティスバーグの戦いで北軍が勝利。
この年の冬、リンカンはゲティスバーグの凄惨な戦場で演説を行い、有名な "Government of the people, by the people, for the people" (人民の、人民による、人民のための政治)という言葉を残しています。
もっともこの言葉はリンカンの発案ではなく、パンフレットからの引用だったといいます。
これで北軍は勢いを取り戻し、1865年に首都リッチモンドを攻略。
アメリカ連合国は敗退し、アメリカは再統一されました。
ただ、リンカンは戦勝の5日後に暗殺されています。
南北戦争終結後、1865年に連邦法が改正されて奴隷制は廃止され、1870年には黒人に選挙権が与えられました。
解放された黒人の多くはシェアクロッパーと呼ばれる小作人になりましたが、多くの地代を地主に納めなければならず、奴隷時代よりも厳しい生活を強いられる者もいました。
身分的にも完全な平等が実現したわけではなく、たとえばミシシッピ州では投票に際して人頭税の支払いや法律条文が読めることを条件にしたため、事実上、黒人に投票は認められませんでした(ミシシッピ・プラン)。
交通機関や学校・娯楽施設などにおいても人種ごとに分断する黒人分離政策が採られました。
「分離はするが平等である」とするこうした州法は1896年のアメリカ合衆国連邦最高裁判所の判決、いわゆるプレッシー判決によって合憲が確認され、人種差別は法的なバックグラウンドを得ました。
■アメリカ合衆国の完成
ケビン・コスナー監督『ダンス・ウィズ・ウルブズ』予告編。南北戦争を背景に、元北軍中尉とスー族の交流を描いてます。アカデミー賞ならびにゴールデングローブ賞の作品賞受賞作品
西部の発達とともに東部-西部を結ぶ有線通信網や交通機関が整備され、1869年にはシカゴとサンフランシスコを結ぶ最初の大陸横断鉄道・セントラルパシフィック鉄道が開通します。
電線や交通といったインフラ需要や市場の拡大から南北戦争後に重工業が急速に発達し、第2次産業革命が起こりました。
石炭・石油・鉄鋼石といった豊富な資源に恵まれたアメリカは19世紀末にはイギリス、ドイツを抜いて世界一の工業国の座に上りつめます。
労働力となったのは主として東ヨーロッパや北ヨーロッパ、あるいは中国やマレー半島からの移民=クーリー(苦力。契約移民)です。
1867年にはロシアからアラスカを買収します。
1896年にはそのアラスカで金鉱が発見され、ゴールドラッシュで沸きました。
西漸運動は1890年代のフロンティアの消滅によって終結し、ネイティブ・アメリカンの人口は100万人以上から25万人まで激減したといいます。
北アメリカ大陸本土におけるアメリカ合衆国の領土はこうしてほぼ確定しました。
■アメリカ帝国主義の拡大
アメリカは国内の基盤を固めると、巨大な資本を背景にいよいよ海外植民地の獲得に乗り出していきます。
発端となったのがアメリカ=スペイン戦争(1898年。米西戦争)です。
1860年代からキューバで独立運動が起こっていましたが、スペインはこれを鎮圧。
1890年代にはホセ・マルティの独立運動が活発化して1895年にキューバ共和国の独立を宣言します。
スペインは弾圧を続けますが、キューバに投資していたアメリカは介入を決断。
1898年にハバナ※に停泊していたアメリカ軍艦メイン号が爆破されて沈没すると(メイン号事件)、マッキンリー大統領はスペインに宣戦布告してアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)がはじまります。
この戦争はアメリカの勝利に終わり、同年に開催されたパリ会議でパリ条約を締結。
キューバの独立が認められ、アメリカはフィリピン、プエルト・リコ、グアムを獲得し、キューバのグアンタナモ基地の土地が永久租借となりました。
独立運動に揺れていたフィリピンはアメリカに協力してアメリカ=スペイン戦争に参戦しましたが、その結果アメリカ領に組み込まれて独立は認められませんでした。
これに対してフィリピン戦争(1899~1902年)が起こりますが、アメリカは武力で鎮圧しました。
中国分割に出遅れたアメリカは、国務長官ジョン・ヘイが1899年に中国の門戸開放・機会均等・領土保全というヘイの三原則を唱え、通商権や関税・入港税といった利権を各国に平等に開放するよう要求します。
1900年代にはセオドア・ローズヴェルト大統領が、棍棒を携えて穏やかに話すという「棍棒外交」を展開し、海軍力を背景にカリブ海諸国に積極的に介入します。
一例がパナマで、1903年にコロンビアからパナマ共和国が独立を宣言すると、アメリカは海軍を派遣してコロンビア軍の動きを阻止し、独立を成功に導きました。
パナマ運河条約により、アメリカは独立の承認と引き換えにパナマ運河と周辺の主権を獲得し、パナマを事実上保護国としました。
こうしてアメリカは資本と武力を背景に植民地を拡大し、帝国主義を進展させていきます。
※世界遺産「オールド・ハバナとその要塞群(キューバ)」
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次回はアジアの衰退・植民地化を紹介します。