世界遺産と世界史42.フランス革命とナポレオン
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<フランス革命>
■革命前夜
イギリス革命や産業革命、アメリカの独立革命で力を得たのは国王でも貴族でも領主でも特権商人でも軍人でもなく、市民(ブルジョワジー)でした。
ここでいう市民とは、主に都市で商工業を担う資本家であり、経済的に主役に躍り出ながらも政治的にはほとんど権利を持たない平民階級のこと。
啓蒙思想によって科学的な思考法を身につけ、資本によって工場などを経営し、自由な取引を求めて自由主義を掲げ、政治への参加を求めて民主主義を要求し、土地を仲立ちとした封建社会の打倒と市民社会の実現を目指していました。
しかし、国王や諸侯・騎士・司教といった既得権者はその利権を簡単には手放しません。
フランスでは第1身分の聖職者が約12万人、第2身分の貴族が約38万人、これに対して第3身分の平民は2,450万人。
それでいて第1・第2身分が土地や重要官職のほとんどを握り、富を持っているのに免税特権を持ち、税金を払うことさえほとんどなかったといいます。
もっとも悲惨だったのが農奴で、農奴は第3身分に含まれてはいたもののその最下層に位置していました。
貢租(地代)や賦役(無償労働)を払うためにほとんど奴隷のように働かされ、明日食べるものにさえ困っていたといいます。
イギリスではさまざまな要因で農民が自由農民ヨーマンや農業資本家になったり、都市に出て工場勤めを行って市民の一端を担いました。
産業革命や市民革命の進展具合はこうした農民・農奴の開放の度合である程度測ることができます。
彼らの労働力をうまく取り込んで産業革命につなげることが近代化のベースとなると同時に、一人ひとりが市民であることを意識することが国民国家の創設につながるからです。
フランスでは農奴の解放が遅れましたが、それが近代化についてイギリスに大きなリードを許した一因です。
こうした身分の分断をイギリスとアメリカは革命で乗り切りました。
イギリスは名誉革命を通して「国王は君臨すれど統治せず」という立憲君主政を成立させ、アメリカは独立することで君主を置かない共和政を完成させて市民社会を成熟させました。
しかし、フランスの事情は複雑でした。
啓蒙思想の広がりで第2身分の中にも王権に反対する者も多く、革命を予感する者もいました。
しかし第3身分も一枚岩ではなく、農民や都市の工場労働者は第1・第2身分を中心としたアンシャン・レジーム(旧体制)には反対していましたが、富を独占するという点でブルジョワジーが主導する自由主義・資本主義にも賛成しかねていました。
こうした事情がフランスの革命を複雑化していきます。
■三部会と国民議会
ルイ14世の時代から繰り返されてきた戦争の負担は想像以上に重いものでした。
ルイ16世は財政改革を行いますが、もはや増税は避けられません。
すでに第3身分への税負担は重いので、第1・第2身分への課税を決意して1789年5月にヴェルサイユ宮殿※の議場で三部会(第1・第2・第3身分の代表者からなる身分制議会)を招集します。
三部会では議決権を巡って第1・第2身分が各身分1票での投票を主張するのに対して、第3身分は各議員1票を主張。
このとき第1・第2身分の議員はそれぞれ約300人、第3身分には約600人がいて、第3身分の議員数は第1・第2身分の合計をわずかに上回っていました。
三部会の空転にしびれを切らした第3身分は、自分たちこそ国民の代表であるとして国民議会の発足を宣言。
第1・第2身分の議員の中にも合流する者が出はじめると、国王は議場を閉鎖して第3身分の議員を締め出します。
そこで国民議会はヴェルサイユ宮殿のジュ・ド・ポーム(球戯場)を議場に定め、憲法制定まで解散しないことを決議しました(球戯場の誓い)。
ルイ16世は三部会と国民議会の解散を宣言しますが、国民議会はこれを無視。
国民議会がパリ市民の圧倒的な支持を得ていることを見たルイ16世は、第2身分に国民議会への合流を指示して三部会は消滅。
国民議会は憲法制定に向けて動き出します。
※世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
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■バスティーユ牢獄の襲撃
1789年7月14日、ルイ16世は秘密裏に軍を動員して国民議会の武力制圧を図ります。
しかし、これを察知したパリ市民はアンヴァリッド(オテル・デ・ザンヴァリッド/廃兵院)①で武器を奪い、バスティーユの牢獄を急襲して武装蜂起します(バスティーユ牢獄の襲撃=フランス革命勃発)。
バスティーユの牢獄は政治犯を収容していたことから圧政の象徴とされ、さんざんに打ち壊されました。
パリ市民はアメリカ独立戦争で活躍したラファイエットを総司令官に任命。
こうした動きに呼応して全国の農民が蜂起し、封建社会の打倒を目指して革命を訴えました。
8月4日、国民議会は封建的特権の廃止を宣言。
これにより領主裁判権(領主が荘園内の問題を自ら裁定する権利)や教会への十分の一税などが廃止され、身分制度廃止に踏み込みました。
8月26日には「人間は自由であり、権利において平等な者として誕生し、また存在する」と自由・平等、主権在民、言論の自由などをうたった人権宣言を採択。
しかし、ルイ16世はこれを承認しなかったため成立させることはできませんでした。
10月5日、小麦の不作や物価の高騰に苦しむパリの女性がパンを求めてヴェルサイユ宮殿②まで抗議の行進を開始し、ラファイエットはその後に軍を従軍させます。
女性たちはヴェルサイユ宮殿でルイ16世にパンを要求し、人権宣言の承認を要求。
承認させた後、ルイ16世をパリのテュイルリー宮殿①に連れ帰り、国民議会もパリのブルボン宮殿①に移動しました(ヴェルサイユ行進)。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
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■国王と王妃の処刑
2015年のパリ同時多発テロ事件のあと、世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園」のヴェルサイユ宮殿両院合同会議場で国家ラ・マルセイエーズを歌うオランド大統領と上下院のメンバー
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは1791年6月20日、妻の実家であるオーストリアへ逃亡を図りますが、ヴァレンヌの町で露見してパリに引き戻されます(ヴァレンヌ逃亡事件)。
国を捨てたことで国民の同情と信頼を一気に失い、革命はより先鋭化していきます。
同年8月、フランス王政の危機を察知したオーストリアとプロイセンは、王政廃止が自国へ及ぼす影響を恐れ、ルイ16世の国王としての地位の継続を求め、そうでない場合は宣戦布告することを宣言します(ビルニッツ宣言)。
こうした外圧と、もともと国王を君主とする立憲君主政を目指していたことから、とりあえずは王政の継続が確認されました。
9月3日、1791年憲法が制定され、立憲君主政や制限選挙制(一定の税を納めた有産市民のみが投票できる選挙制度)を確立。
国民議会は解散され、10月にはじめての選挙が行われて立法議会が成立します。
議会では、国王の排除と共和政を求めるジロンド派と、これ以上の改革を求めないフイヤン派(立憲君主派)が対立していました。
王政の廃止を恐れるルイ16世はオーストリアに革命政権の打倒を要請。
緊張が高まるなか1792年にジロンド派が政権を握ると、4月にオーストリアに対して逆に宣戦布告を行います。
フランス軍の中には国王に同情的な指揮官や兵士も多く、ルイ16世やマリー・アントワネットはそうした王党派の指揮官に革命軍への反抗を指示したり、オーストリアに作戦を漏らしていたといいます。
そのためかフランスは連敗に次ぐ連敗で、オーストリア=プロイセン連合軍は国境を越えてフランスに侵入します。
政府がフランスの危機、革命の危機を訴えると、全国から義勇軍が集結。
マルセイユからやってきた義勇兵たちが歌っていたのがラ・マルセイエーズで、現在のフランス国歌になっています。
1792年8月10日、国王の反政府的な動きを察知したパリ市民はルイ16世の王権を停止して一族をタンプル塔に幽閉(8月10日事件)。
王党派の貴族らを殺害します。
同年9月20日、フランス軍はプロイセン軍とヴァルミーで対峙し、激しい砲火を浴びます。
しかしラ・マルセイエーズを歌いながら反攻を開始し、プロイセンを退却させます。
王権を停止したことで共和政をベースとした憲法の制定が必要となり、男子普通選挙(すべての成人男子に選挙権が認められた選挙)を実施。
9月21日に国民公会が召集されると、即日、王政の廃止と共和政の樹立が宣言されました(第1共和政)。
国民公会で急進共和主義のジャコバン派がルイ16世の処刑を主張。
賛成多数で可決され、1793年1月21日にルイ16世が現在のコンコルド広場※で斬首され、10月にはマリー・アントワネットも処刑されました。
※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
■対仏大同盟とジャコバン独裁
国王の処刑はヨーロッパの王政国家を大きく動揺させました。
各国が恐れたのは革命の輸出、革命の連鎖です。
1793年2月、イギリスの首相ピットの呼びかけで、オーストリア、プロイセン、ロシア、スペイン、オランダなどが第1回対仏大同盟を結成し、フランスと国内の革命派を牽制します。
フランスは一枚岩となって対仏大同盟に立ち向かう必要がありましたが、国民公会は国をまとめあげることができません。
この頃、政権を握っていたのは資本家や大地主・商工業者といった富裕市民=ブルジョワジーの支持を集めるジロンド派で、これに自営農民や小作・小商人・職人・手工業者といった下層市民=サン・キュロットが支えるジャコバン派が迫っていました。
インフレによる食糧難に苦しむパリ市民はジロンド派の進める自由主義・資本主義に反発していました。
これを利用して強引に一体化を図るロベスピエール率いるジャコバン派は「ブルジョワジーが貴族にとって代わろうとしているにすぎない」と非難し、1793年6月にジロンド派を国民公会から追放。
公安委員会を組織すると反対派を次々と処刑して独裁を開始します(ジャコバン独裁)。
ロベスピエールは封建地代を無償廃止して農奴を解放するなどサン・キュロットや農民向けの数々の施策を行いますが、行きすぎた恐怖政治から支持を失い、1794年7月に逮捕されて処刑されてしまいます(テルミドール反動)。
ジャコバン派が失脚するとブルジョワジーが力を盛り返し、独裁のような権力の集中を防ぐために5人の総裁からなる総裁政府を樹立します。
しかし、総裁政府は権力が分散して強力なリーダーシップを発揮できません。
このあいだ対仏大同盟は続いており、フランスは強力なリーダーの下でひとつにまとまる必要に迫られていました。
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<ナポレオンの時代>
1927年のアベル・ガンス監督のサイレント映画『ナポレオン』。上はフランシス・コッポラが復元した作品の予告編
■ナポレオンの政権奪取
1784年、コルシカ島出身のナポレオンは士官学校を卒業して将校として採用されました。
1795年にパリ①②で起こった王党派によるヴァンデミエールの反乱を鎮圧すると軍司令官に就任し、総裁政府成立後の1796年にはイタリア派遣軍司令官に任命されます。
ナポレオンの任務はイタリアから侵入してくるオーストリア軍を防ぐこと。
この頃、イタリアはヴェネツィア共和国やサルデーニャ王国などを除いてオーストリアの支配下にありました。
市民や農民はオーストリアやその封建的身分制度に反発してナポレオンを歓迎したため戦況を有利に進めることができました。
ナポレオンは破竹の勢いで攻め進み、ウィーン③④に迫るとオーストリアから和約を引き出すことに成功し(カンポ・フォルミオ条約)、第1回対仏大同盟を崩壊に導きます。
対仏大同盟は消滅しましたが、イギリスはフランスへの圧力を強めて大西洋と地中海両面から睨みを利かせています。
そこで帰国したナポレオンはイギリスとインドを結ぶ中継基地となっているエジプト攻略を提案。
これが採用されて1798年にエジプト遠征を開始します。
これに対してイギリスはエジプトを支配していたオスマン帝国やオーストリア、ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成。
フランス海軍は敗れてナポレオンはエジプトで孤立し、イタリアではフランス軍がロシア軍に敗れて国境が脅かされます。
こうした危機に、ナポレオンはエジプトを脱出して少人数で帰国。
1799年11月に総裁政府を倒すと、3人の統領からなる統領政府を立てて第1統領に就任します(ブリュメール18日のクーデター)。
事実上の独裁政権の誕生です。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
③世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
④世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
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■ナポレオンの戴冠
ナポレオンは1800年、第2回イタリア遠征を敢行してオーストリアやサルデーニャに勝利すると、翌1801年、敵対していたバチカンと和解するため教皇ピウス7世と宗教協約を結びます。
1802年にはイギリスとアミアン和約を締結して和解し、第2回対仏大同盟を解消してフランスの安全を確保。
圧倒的な人気を得たナポレオンはこの年、終身統領に就任します。
しかしこの平和も長く続かず、1803年にイギリスはアミアン和約を破棄するとフランスに宣戦布告。
これよりナポレオン戦争の幕が切って落とされます(~1815年)。
1804年、法の下の平等や契約の自由、私有財産の不可侵などを定めたナポレオン法典を制定。
ナポレオンは政治的には独裁的な性格を強めていくものの、自由主義の推進者であり、対外遠征ではアンシャン・レジームからの解放者として振る舞いました。
それは、「私の真の栄誉は40度にわたる勝利にではなく、永久に保証されるであろう民法典にこそある」「私はフランスに産業を創造した」といった言葉に表れています。
そして同年、教皇ピウス7世を呼び寄せてパリのノートル=ダム大聖堂※で戴冠式を行い、ナポレオン1世として皇帝に就任します。
皇帝は王以上の地位であり、アンシャン・レジームに属し、民主主義に反するものであるはずですが、ナポレオンは一応国民投票という民主的な方法によって承認を得ました。
第1帝政のはじまりです。
※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
■ナポレオン帝国
ナポレオン帝国の版図の推移。赤系がナポレオン帝国、紫がその同盟国、青が反ナポレオン諸国
ナポレオン1世自らは皇帝位に就きながら各国のアンシャン・レジーム打倒を呼びかけている――
この暴挙に対して1805年、イギリス、ロシア、オーストリアなどが第3回対仏大同盟を結成してフランスを包囲。
同年10月、ネルソン率いるイギリス海軍はフランス海軍をトラファルガーの海戦で散々に打ち破ります。
同年12月、ナポレオン1世は自ら軍を率いるとオーストリアに攻め込み、アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア=ロシア連合軍に勝利。
1806年、ドイツの諸侯や都市を集めてライン同盟を結成すると、16か国が神聖ローマ帝国を離脱して参加しました。
これに伴い、フランツ2世は神聖ローマ皇帝位を放棄して帝国の解散を宣言。
ここに神聖ローマ帝国は消滅しました。
ただし、ハプスブルク家はナポレオン1世が皇帝に即位した直後にオーストリアとハンガリーを中心にオーストリア帝国を再編し、フランツ2世はフランツ1世として初代オーストリア皇帝位に即位しています。
1806年、プロイセンに勝利したナポレオン1世は首都ベルリン①②に入城し、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発令。
諸国にイギリスとの通商を禁じつつ、フランスの貿易振興を画策します。
1807年にはプロイセン=ロシア連合軍を破ってティルジット和約を締結。
プロイセン領の半分ほどを奪ってワルシャワ大公国を建てると、これをフランスの属国としました(ポーランドの復活)。
プロイセンを同盟国として取り込むと、ナポレオン1世はハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズと結婚してこれも同盟国化。
さらに自分の兄弟をスペイン王やオランダ君主などに就任させ、イギリス、ロシア、スウェーデン、オスマン帝国を除くヨーロッパのほとんどを手中に収めました。
※①世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
②世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ)」
■イベリア半島の反攻
フランス軍の強さは革命戦士としての強さであり、革命の失敗は王政や封建制の復活を意味します。
アンシャン・レジームからの解放を目指して高い士気をもって戦闘にあたりました。
各国でもナポレオン1世は当初、大きな支持を集めて歓待され、ともに戦いました。
そしてナポレオン1世がヨーロッパを支配することで封建社会からの解放が進み、自由・平等といった革命の理念が輸出されていきました。
しかし、時が経つにつれて人々は気づきます。
ナポレオンと国王といったい何が違うのか?――
ナポレオン1世による支配も圧政という点で王政と変わらず、自分たちがフランスによって虐げられている事実は動かしがたいものでした。
たとえば大陸封鎖令の強要によってイギリスとの通商が途絶えると、景気が悪化して多くの人々の生活が困窮しました。
そして各国で民族意識や愛国心が鼓舞され、反ナポレオンの機運が高まります。
ナポレオンが広めた自由・平等といった理念がナポレオン自身を追い詰めていくのです。
これが明確化したのがイベリア半島です。
フランス革命以降、スペインとポルトガルはフランスの革命軍と戦ってきましたが、戦況の悪化に伴ってスペイン王カルロス4世はフランスと和解。
ナポレオン1世はスペインと同盟を結んでイギリス側につくポルトガルを攻撃します。
1806年に大陸封鎖令が発令されますが、イギリスとの交易で成り立つポルトガルはとても受容できず、これを拒否。
フランスとスペインは1807年にポルトガル遠征を行い、首都リスボン①を占領します。
このときポルトガル女王マリア1世やジョアン王子(後のジョアン6世)らはイギリス海軍に守られてブラジルに退避。
リオデジャネイロに遷都②し、ブラジル公国を王国に昇格させ、1815年にはポルトガル=ブラジル連合王国を成立させます。
スペインでは暴動が起きてブルボン朝のカルロス4世が追放されてフェルナンド7世が即位。
フランスがこの隙をついてスペインに侵攻したのに対して、スペイン市民が迎え撃ちました(1808~14年、スペイン独立戦争/半島戦争)。
しかし、フランス軍の勢いは止まらず多くのスペイン人が虐殺され、フェルナンド7世は退位。
ナポレオン1世の兄ジョゼフ・ボナパルトがスペイン王に就きました。
このあともスペインの反攻が続き、ナポレオン1世が直接マドリード③④に入城して鎮圧しますが、民衆はゲリラ戦を展開して対抗します。
フランス軍は各地で略奪・破壊を繰り返し、ゲリラを虐殺。
スペインやポルトガル民衆の愛国心が目覚め、人々は自国の独立を守るために抵抗運動に身を投じました。
ナポレオン1世はすでに解放者ではなく、明確に侵略者となっていました。
※①世界遺産「リスボンのジェロニモス修道院とベレンの塔(ポルトガル)」
②世界遺産「リオデジャネイロ:山と海の間のカリオカの景観(ブラジル)」
③世界遺産「マドリードのエル・エスコリアルの修道院と王領地(スペイン)」
④世界遺産「プラド通りとブエン・レティーロ、芸術と科学の景観(スペイン)」
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■第1帝政の終焉
フランス皇帝ナポレオン1世とイギリス軍司令官ウェリントンとの間で争われたワーテルローの戦いを描いたセルゲイ・ボンダルチュク監督『ワーテルロー』予告編
イベリア半島と同じようなことがヨーロッパ各地で起きました。
プロイセンでは政府が民衆の意見を取り入れ、封建社会に対する批判に応えるためにプロイセン改革を断行。
農奴制を廃止して農民を解放し、都市の自治や営業の自由を進めました。
プロイセンの改革はフランスに対抗するために行った「上からの改革」でしたが、この改革がやがてドイツ統一運動に発展します。
1810年、ロシアは大陸封鎖令を破棄してイギリスに対して穀物を輸出。
これに対してナポレオン1世は1812年にロシア遠征を開始します。
6月に60万の兵を率いて進軍をはじめますが、このときの兵は各国からの寄せ集めで士気が低く、すでに解放軍と呼べるものではありませんでした。
地元の人々の協力を得られないため食糧調達もままならず、続々兵が逃亡して8月には約15万に減少。
しかしロシア軍が退却に退却を重ね、首都モスクワ①をも放棄したため、ナポレオン1世は10万の兵を率いてモスクワに入城します。
ナポレオン1世は当初、モスクワを落とせばロシアも食糧も確保できると考えていました。
しかしロシア軍は住民とともにモスクワを退去し、焦土作戦で畑を燃やしていたためフランス軍はどちらも確保できません。
兵士は困窮を極め、10月に冬が到来すると降雪がはじまったため、ナポレオン1世はやむなく退却を決意します。
すると、ここぞとばかりにロシア軍が現れて追撃を開始。
寒さと飢えもあってフランス軍は散々に打ち破られ、帰国できたのはわずか5,000人だったといいます。
多くの兵を失ったナポレオン1世を見て、ヨーロッパ諸国が反撃を開始。
ロシア、オーストリア、プロイセンが中心となって連合軍を結成し、1813年のライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でフランス軍を打ち破り、1814年にはパリ②③に入城します。
ナポレオン1世は降伏し、イタリア半島に近いエルバ島へ流されました。
フランスは王政復古(国王による王政の復活)を行い、ルイ16世の弟であるルイ18世が王位に就いてブルボン朝が復活します。
しかし、王政の評判はきわめて悪く、1815年、これを耳にしたナポレオン1世はエルバ島を脱出して南フランスに上陸。
態勢を整えたあとパリに帰還して皇帝に復位します。
イギリス、オランダ、プロイセンは連合軍を結成してフランスに進軍。
ナポレオン1世はワーテルローの戦い敗れると、今度は南大西洋の孤島セントヘレナへ流されました。
この復活劇はパリ入城から退位まで100日間で行われたことから「百日天下」といわれています。
※①世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
③世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
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次回はウィーン体制と七月革命、二月革命を紹介します。