世界遺産と世界史35.絶対王政
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<絶対王政の萌芽>
■中世の封建制
一家で地位を子々孫々受け継ぐ世襲の統治者=君主が国を治める政体を君主政、そうした制度を君主制といいます。
そして絶対君主政とは、君主に統治の権力を集中させた政体のこと。
絶対君主が国王である場合、絶対王政と呼ばれます。
権力に制限が加えられる場合は制限君主政、憲法が制限する場合は立憲君主政、権力がほとんどない日本の天皇のような場合は象徴君主政といわれます。
中世・近世のヨーロッパは大司教・司教や諸侯・騎士といった支配階級を事実上のトップとする封建社会で、荘園の中で農奴が農業を行っていました。
一応、教皇が皇帝や国王・大司教・司教を指名し、国王が諸侯や騎士を承認する形をとってはいましたが、皇帝や国王は実質的に諸侯や騎士の代表者にすぎませんでした。
皇帝や国王であっても他の司教や諸侯の土地に口出しはできませんでした(不輸不入権)。
だから「神聖ローマ帝国」といっても確固たる領土があったのはその下のオーストリア大公国やハンガリー王国、ボヘミア王国といった国や都市の王や諸侯・司教でした。
差はあるものの、基本的にこれは中世ヨーロッパのいずれの国でも同様です。
■主権国家
絶対王政はこれと違って国、特に国王に権力が集中していました。
こうした権力の移動が起こった理由のひとつは商業の拡大です。
11世紀以降の商業ルネサンス(地中海貿易や北海・バルト海貿易の隆盛)や15世紀以降の大航海時代(新世界貿易の興隆)に商業が拡大し、貨幣経済が浸透。
同時に毛織物業や金融業が発達して都市が繁栄し、領地で農業を行う諸侯や騎士以上に豊かになりました。
都市は市壁で町を囲んで軍を持ち(城郭都市)、国王や皇帝に税を納める代わりに特権を得て自治都市になりました。
絶対王政期の国々はこうした都市やギルド(職業組合)といった社団を後ろ盾としたことから「社団国家」とも呼ばれます。
そして決定打となったのが戦争です。
11~13世紀、諸侯や騎士たちは借金をして十字軍に参加しましたが、ほとんど得るものなく敗退。
14~15世紀の百年戦争やバラ戦争ではフランスやイギリスの国土が荒廃して諸侯や騎士が没落しました。
借金を返せない貴族は土地を国や都市に売ったため、ますます国と都市が強大化しました。
こうした国家間の大きな戦争が頻発したため、国に権力を集中させて他国に対抗する必要に迫られました。
そして国境を画定し、強力な常備軍を設置すると同時に、徴税を行う行政組織(官僚制)を整備して、国王を唯一の代表者(国家主権者)として祭り上げました。
主権国家の誕生です。
そして軍と官僚の維持に必要なお金を稼ぐために海外に進出して貿易を振興(重商主義)。
新世界貿易に関しては東インド会社や西インド会社を設立して独占させました。
一般的に、この場合の東インドはインド洋以東の東アフリカやアジア、西インドはカリブ海の西インド諸島を中心に南北アメリカ大陸全域を示します。
こうして国家は都市や諸侯では太刀打ちできない莫大な富と強大な権力を手に入れて絶対王政を推進していきます。
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<フランスの絶対王政>
フランスの版図の推移
■ユグノー戦争
16世紀、カルヴァン派のプロテスタント=ユグノーたちの新教派とカトリックの旧教派の対立が深刻化し、国を二分する騒ぎに発展していました。
この頃実権を握っていたのは10歳で国王となったシャルル9世の母にして摂政(せっしょう。幼君に代わって政務を司る役職)であるカトリーヌ・ド・ メディシスです。
イタリアのメディチ家の娘で、メディチ家と教皇庁との関係が濃かったことから旧教派に近いものの、新旧両派のバランスに気を配っていました。
1562年、そのカトリーヌ・ド・ メディシスが信仰の自由を認めたことに反対し、旧教派のギーズ公が反発して60人以上の新教派を殺害し(ヴァシーの虐殺)、ユグノー戦争が勃発します。
カトリーヌ・ド・ メディシスは両派の融和を図るために、娘のマルグリットと新教派でブルボン家の当主アンリとの結婚を計画し、1572年8月18日に式が行われました。
ところが、新教派はオランダ独立戦争(ネーデルラント独立戦争/八十年戦争)への介入を主張。
ネーデルラントはスペインからの独立を求めて戦っていることから、介入はスペインとの戦争を意味するため旧教派は新教派の一掃を決意します。
サン・バルテルミの祝日である8月24日、旧教派は大祭に出席したユグノーたちを虐殺し(サン・バルテルミの虐殺)、国は大混乱に陥ります。
そんなときシャルル9世が崩御し、続くアンリ3世が暗殺されるとヴァロワ家は断絶してしまいます。
ブルボン家の新教派・アンリ4世が即位してブルボン朝が成立しますが、旧教派はこの国王を認めることができずパリ①を封鎖し、別の王の擁立を図ります。
フランスを二分する混乱に対し、アンリ4世は1593年にサン=ドニ修道院教会(現・サン=ドニ大聖堂)②でローマ・カトリックに改宗し、翌年シャルトル大聖堂(シャルトルのノートル=ダム大聖堂)③で戴冠式を行いました。
1598年、アンリ4世はローマ・カトリックをフランスの国家宗教であると宣言しつつ、信仰の自由を認めるナントの王令を発布し、ユグノー戦争に終止符を打ちました。
フランスはこうしてローマ・カトリックに留まったものの、プロテスタントの信仰も承認しました。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②フランスの世界遺産暫定リスト記載
③世界遺産「シャルトル大聖堂(フランス)」
[関連サイト]
■ブルボン朝の勢力拡大
フランス絶対王政はブルボン朝の下で最盛期を迎えます。
アンリ4世の跡を継いだルイ13世が8歳で即位し、母であり摂政のマリー・ド・ メディシスと側近のコンチーニで政治を進めますが、諸侯の圧力を受けて三部会(第1身分=聖職者、第2身分=貴族、第3身分=都市・農民という3部の代表者からなる身分制議会)が召集されるなど宗教や身分を巡って対立は続いていました。
ルイ13世が旧教国であるスペインのフィリップ3世の娘アンナと結婚すると、旧教派が力をつける一方で新教派はこれに対して反乱を起こします。
こうした動きを見ていたルイ13世は母をブロワ城※に幽閉してコンチーニを暗殺。
リシュリューを宰相として自らの政治を推し進めていきます。
ルイ13世は三部会の開催を中止し、貴族を政府から追放しつつ、官僚を登用して中枢に据え、重商主義を推進。
反乱を起こしていた新教派を打ち破ると諸侯の城を破壊し、徹底的に弾圧します。
1618~48年にオーストリアのボヘミア(ベーメン)ではじまった三十年戦争では、ハプスブルク家に対抗するため旧教国であるにもかかわらずドイツ諸侯側(新教側)に立って戦い、アルザスを手に入れました。
※世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷(フランス)」
■ルイ14世とヴェルサイユ宮殿
そして絶対王政は太陽王・ルイ14世の時代に花開きます。
ルイ13世がルーヴル宮殿①で崩御すると、1643年、息子のルイ14世がわずか4歳で王位を継ぎます。
このとき宰相としてルイ14世を補佐したのがマザランです。
マザランは三十年戦争以降悪化していた財政を立て直すため重税を課し、国の借金の一部無効を宣言。
これに対して貴族が1648年にフロンドの乱を起こすと、中央集権化と重税に反対する民衆や農民がこれに追随します。
ルイ14世はパリ脱出を余儀なくされ、マザランは一時神聖ローマ帝国に逃れながらもこれを巧みに鎮圧。
ふたりはパリに帰還すると貴族勢力を取り締まり、パリ郊外に新たな宮殿の建設を開始します。
これがヴェルサイユ宮殿②です。
宮殿が完成すると各地の王や諸侯を招き、貴族たちを移住させ、庭園を庶民に開放して王の力を世に知らしめました。
そして国王こそが国の主権者であることを「朕は国家なり」という言葉で示し、自らが神の意志で地上を征服すること(王権神授説)を「私の中には太陽が宿っている」という言葉で表しました。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
<ヴェルサイユ宮殿に影響を受けた世界遺産の例>
○ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)
サンスーシ宮殿をはじめ影響を受けた宮殿や庭園は多く「プロイセンのヴェルサイユ」と呼ばれます。
○ヴュルツブルク司教館、その庭園群と広場(ドイツ)
ヴェルサイユ宮殿を参考にバルタザール・ノイマンが設計したドイツ・バロック&ロココの傑作です。
○シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)
ハプスブルク家の宮殿で、シェーンブルン宮殿は「オーストリアのヴェルサイユ」の異名を持ちます。
○ドロットニングホルムの王領地(スウェーデン)
ドロットニングホルム宮殿はプファルツ朝の宮殿で「北欧のヴェルサイユ」と呼ばれています。
○サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)
噴水ではヴェルサイユをも上回るペテルゴフ宮殿は「ロシアのヴェルサイユ」といわれます。
○アランフェスの文化的景観(スペイン)
スペイン・ブルボン家がヴェルサイユ宮殿を模して築いた宮殿や庭園があります。
○カゼルタの18世紀の王宮と公園、ヴァンヴィテッリの水道橋とサン・レウチョ邸宅群(イタリア)
スペイン・ブルボン家のカルロス3世がフランス・ブルボン家に負けじと建設した宮殿です。
○フェルテー湖/ノイジードラー湖の文化的景観(オーストリア/ハンガリー共通)
フェルトードのエステルハージ宮殿は「ハンガリーのヴェルサイユ」と讃えられています。
○ブレナム宮殿(イギリス)
王宮ではないイギリス唯一の "palace" で、「自然主義のヴェルサイユ」と称されます。
○国立歴史公園 -シタデル、サン・スーシ、ラミエ(ハイチ)
ハイチのサン・スーシ宮はヴェルサイユ宮殿を参考にバロック建築を取り入れています。
[関連サイト]
■ルイ14世の外征1
「領土拡張ほど気持ちのよい仕事はない」といったルイ14世はほとんどの周辺国と戦っています。
まずフランドル地方の領有を求めて南ネーデルラント継承戦争(1667~68年。フランドル戦争)を起こし、アーヘン和約でハプスブルク家からいくつかの都市を奪取。
さらにオランダ侵略戦争(1672~78年。ネーデルラント戦争)でイギリスのチャールズ2世とともにオランダを攻撃し、オランダ、神聖ローマ帝国、スペインの同盟軍に勝利します。
1685年にはフォンテーヌブロー①の王令を発布してナントの王令を廃止。
これによりプロテスタントの信仰は否定され、フランスは純粋な旧教国となり、商工業者の多くがオランダをはじめとする新教国に逃亡しました。
さらにプファルツ戦争(1688~97年。大同盟戦争)では神聖ローマ帝国内のプファルツ侯国の領有を主張して開戦。
新教国のオランダ、スウェーデンが参戦すると同時に、ハプスブルク家のスペイン、神聖ローマ帝国はアウクスブルク同盟を結成してフランスに対抗しました。
加えて1689年、イギリスで名誉革命が起こるとオランダのウィレム3世がウィリアム3世としてイギリス王に就任し、イギリスも同盟に加わります。
同時期、イギリスとの間ではアメリカでウィリアム王戦争を戦っており、インドなどでも争いが起こっていました。
こうして戦争は世界に広がり、同時進行で行われて混乱を極めました。
結局戦争は1697年のライスワイク条約で終結し、フランスはプファルツをあきらめる代わりにストラスブール②やハイチなどを獲得しました。
※①世界遺産「フォンテーヌブローの宮殿と庭園(フランス)」
②世界遺産「ストラスブールのグランディルとノイシュタット(フランス)」
[関連サイト]
■ルイ14世の外征2
1700年、スペイン王カルロス2世が死去すると、今度はスペインの後継者を巡る争いが起こります。
ルイ14世の王妃マリー・テレーズはカルロス2世の妹。
カルロス2世に後継者がいなかったことから、ルイ14世は自分の孫にあたるブルボン家のアンジュー公フィリップの王位継承を要求します。
カルロス2世は遺言で、フランスの王位継承権を放棄することを条件としてこれを承認していたことから、フィリップはフェリペ5世としてスペイン王に就任します(スペイン・ブルボン朝)。
フェリペ5世は何かとフランスに便宜を図ったため周辺国が反発。
イギリス、オランダ、オーストリアが同盟を組んで宣戦布告し、オーストリア・ハプスブルク家のカール大公をスペイン王として擁立します。
この頃、フランス国内でユグノーが反乱軍を蜂起。
アメリカでもアン女王戦争が起き、このスペイン継承戦争(1701~13年)もプファルツ戦争に続いて世界戦争の様相を呈します。
神聖ローマ帝国では皇帝レオポルド1世、ヨーゼフ1世が相次いで急死し、カール大公がカール6世として帝位に就きます。
カール6世がスペイン王を兼ねるとハプスブルク家の権勢があまりに拡大することから、同盟国側は1713年のユトレヒト条約でフェリペ5世の王位を承認。
その代償としてフランスとスペインの合同を永久に禁止し、フランスは海外植民地の多くを放棄しました。
※世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
[関連サイト]
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<スペイン黄金世紀>
スペインの版図の推移。オーストリア・ハプスブルク家としての領地は含まれていません。15世紀以前の主要国は、Asturias=アストゥリアス王国、Castile=カスティリャ王国、Navarre=ナバラ王国、Portugal=ポルトガル王国、Leon=レオン王国、Galicia=ガリシア王国
■スペインの絶対王政
続いてスペインの絶対王政を見てみましょう。
スペインではフェリペ2世の時代からスペイン・ハプスブルク朝が成立し、最盛期を迎えます。
フェリペ2世は熱心なカトリック教徒で、ローマ・カトリックの盟主を自認していました。
父カール5世(スペイン王カルロス1世)はアウクスブルク①の和議でドイツ諸侯に対してローマ・カトリックとプロテスタント・ルター派の選択権を認めましたが、フェリペ2世はこれを不服とし、旧教国のリーダーとして新教・旧教の抗争に介入していきます。
1570年、地中海進出の足掛かりとしてキプロス島を占領したオスマン帝国に対し、翌年ヴェネツィア②とともにレパントの海戦で大勝利を収め、地中海におけるオスマン帝国の脅威を払拭します。
この海戦でスペインの強力無比な艦隊は「無敵艦隊」の異名を獲得しています。
1580年、ポルトガル王エンリケ1世が亡くなると、フェリペ2世は王位を要求して軍を派遣。
フェリペ1世としてポルトガル王位を継ぐと、ポルトガルと同君連合(同じ君主を持つ連合国家)となってブラジルやアフリカ南東部をはじめ広大な植民地を手に入れました。
※①世界遺産「アウクスブルクの水管理システム(ドイツ)」
②世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
[関連サイト]
■オランダ独立戦争
こうして領地のいずれかにはつねに日が照っているという「太陽の沈まぬ帝国」を完成させたフェリペ2世ですが、スペイン財政は国王就任直後から芳しいものではありませんでした。
スペインは新世界からもたらされる金や銀によって潤ってはいましたが資源は枯渇しつつあり、イングランド女王エリザベス1世の私掠特許状を得た私掠船(王の許可を得て他国の船を攻撃・略奪する船)による海賊行為にも苦慮していました。
そのうえイギリスやフランスのように商工業や金融業に投資して産業を育成することもなかったので、それらが盛んなスペイン領ネーデルラントはスペインにとって非常に重要な徴税先となっていました。
一方、カルヴァン派=ゴイセンが多勢を占めるネーデルラントではフェリペ2世の進めるカトリック化政策と重税に苦しんでいました。
そのうえ自治権が制限されたことから1568年に反乱が起こってオランダ独立戦争(1568~1648年。ネーデルラント独立戦争/八十年戦争)が勃発します。
スペインは大軍を送り込みますが、簡単には崩せません。
そこでまずカトリック教徒の多い南部10州を懐柔し、和平を結んで独立戦争から撤退させました。
一方、北部7州はユトレヒト同盟を結んで抗戦を続け、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を宣言します。
新教国で羊毛の生産国であるイギリスは、同じ新教派で羊毛の輸出先であり加工場であるオランダを終始支援します。
この結果、オランダ独立戦争と並行してイギリス=スペイン戦争(英西戦争)が起こります。
フェリペ2世は無敵艦隊を送り込んで一掃を図りますが、イギリスが私掠船を集めて対抗すると、1588年のアルマダ海戦で大敗を喫してしまいます。
そして翌年にはフェリペ2世が病没。
1609年に休戦協定を結び、オランダは事実上独立します(正式な承認は1648年のウェストファリア条約にて)。
こうして16世紀を中心としたスペインの「黄金世紀」は終わりを告げ、17世紀の「オランダの世紀」へ引き継がれていきます。
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次回は「オランダの世紀」を駆け抜けるオランダと北欧世界を紹介します。