世界遺産と世界史34.宗教改革
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<宗教改革>
■教会への不信
現世における利益を否定し、心の平穏を説くその教えとは裏腹に、領地や役職を巡って勢力争いを繰り広げるローマ・カトリックの聖職者たちに対する人々の信頼は徐々に失われていきました。
ルネサンス以降、宗教にとらわれない「自由な視線」や「科学的・合理的な思考法」を手に入れた人々は、教会に服従するだけでなく、さまざまな思想を持つようになっていました。
加えてグーテンベルクが大規模に導入した活版印刷術の影響も大きいものでした。
それまで聖書は非常に貴重なものであるうえにラテン語で書かれていたためにほとんどの人は読むことができませんでした。
そのためイエスの教えは教会で与えられるものでしかありませんでしたが、印刷されたドイツ語の聖書が普及するとそのエッセンスは聖書を通して直接庶民の手に伝えられるようになりました。
「私は神に仕えているのであって、教会に仕えているのではない」
このような思想が広がるのも当然だったのかもしれません。
■ルターの改革
宗教改革の直接の契機はレオ10世の贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)にあるといわれています。
レオ10世はサン・ピエトロ大聖堂①の改築費用を捻出するために贖宥状を発行。
教会で祈り、寄進を行うことで罰が許されるものとし、許された証として発行したのが贖宥状です。
1517年、アイスレーベン生まれのドイツ人神学者マルティン・ルターはヴィッテンベルク城教会②の扉に贖宥状への反対と議論を呼び掛ける文書を貼りつけます(95か条の論題)。
論題がラテン語で書かれていたこともあって当初はなんの反応もありませんでしたが、何者かがドイツ語に翻訳し、当時普及しはじめていた活版印刷を使ってコピーをまいたためドイツ中に拡散されてしまいました。
ルターが主張したのは、聖書に書かれているイエスの言葉のみを信じること(福音信仰。聖書主義)。
聖書にはお金で罪が許されるなどと書かれておらず、聖書の内容と教会の行いが乖離していることを強く非難しました。
また、信者はいずれも神に直接仕える祭司であり(万人祭司主義)、神への信仰のみが義(善)への道であり神の恵みによってのみ義とされると主張しました(信仰義認主義)。
贖宥状が発行されたのはイタリア以外では主に神聖ローマ帝国、つまりドイツ。
「帝国」とはいうものの諸侯や都市といった地方政権の集合体で、強力な国王がいないために教会の介入を受けやすく、「ローマの牝牛」と呼ばれて資金源となっていました。
ローマ③の教皇庁①に対する反発を強めていたドイツの諸侯や都市はルターの主張に賛同し、その信仰はドイツ各地に広まりました。
これに対してレオ10世は1521年にルターを破門。
神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)はルターの国外追放を宣言しますが、帝国の有力諸侯のひとりであるザクセン選帝侯フリードリヒ3世はルターをヴァルトブルク城④にかくまいました。
ルターはこの地で聖書のドイツ語訳に専念しました。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
②世界遺産「アイスレーベンとヴィッテンベルクにあるルターの記念建造物群(ドイツ)」
③世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
④世界遺産「ヴァルトブルク城(ドイツ)」
[関連サイト]
■プロテスタントの成立
この頃、カール5世は難しい立場にいました。
ハプスブルク家は宿敵フランス・ヴァロワ家と戦争状態にありました(1494~1559年、イタリア戦争)。
カール5世は教皇レオ10世とは同盟関係にあり、フランスに対して連合して戦っていました。
ところが1526年、次の教皇クレメンス7世はフランソワ1世らとコニャック同盟を締結します。
これに激怒したカール5世は翌1527年にローマ①②に侵入し、街を破壊(ローマ劫略)。
これによってローマの盛期ルネサンスは終わりを告げます。
1529年にはフランスと結んだオスマン帝国のスレイマン1世が神聖ローマ帝国の帝都ウィーン③④を包囲(第1次ウィーン包囲)。
カール5世はなんとかこれを撃退したものの、オスマン帝国の圧力は消えませんでした。
1526年には信教の自由を認めてルター派(ルーテル派)領邦教会の活動を許可しますが、1529年に撤回。
これに対してルター派諸侯はカール5世に抗議書「プロテスタティオ」を提出します。
これが新教徒に与えられた抗議者「プロテスタント」の由来となります。
新教派=プロテスタントは1530年にアウクスブルク⑤の信仰告白を公表してルター派の立場や思想を明確化し、翌1531年にはシュマルカルデン同盟を結成してカール5世に対抗します。
1542年にイタリア戦争が激化してフランスと神聖ローマ帝国が戦争を再開。
この混乱に乗じてシュマルカルデン同盟が蜂起して内乱を起こします。
カール5世は1544年にフランスと和議を結ぶと内乱の鎮圧に乗り出し、1546~47年にかけてシュマルカルデン戦争が勃発。
鎮圧には成功するものの、1555年のアウクスブルクの和議において、領主に対しローマ・カトリックとルター派の選択権を認めました。
ただし、カルヴァン派の信仰や個人の信仰の自由は認められませんでした(一領邦一教派の原則/領邦教会制度)。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン市国)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
④世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)」
⑤世界遺産「アウクスブルクの水管理システム(ドイツ)」
[関連サイト]
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<宗教改革の拡散>
■カルヴァンの改革
スイスではチューリヒでツヴィングリ、ジュネーヴでファレルが宗教改革を先導していました。
これらを集大成したのがジャン・カルヴァンです。
カルヴァンは1540年代からジュネーヴで教会を中心とする政治体制を整え、聖書に基づく厳格な戒律を定めて神権政治を展開。
また教会や司教・司祭(神父)の権威を否定し、信仰のあつい者こそ他者を導く資格があるとして(万人祭司主義)、一般の信者を長老や牧師に任命しました(長老制)。
カルヴァン派はルター派が大勢を占めるドイツ以外の西ヨーロッパに広がり、フランスではユグノー、オランダではゴイセン、イングランドではピューリタン、スコットランドではプレスビテリアンの名で浸透していきます。
■イングランド国教会の成立
ヘンリー8世は必要のない者は処刑し、必要な女は必ず手に入れたという国王です。
妻キャサリンとの婚姻が無効であることを教皇クレメンス7世に認めさせようと働きかけますが、そのもくろみはことごとく失敗。
恋人アン・ブーリンとの結婚が進まず、怒ったヘンリー8世は教皇の首位権を否定すると、1534年に国王至上法(首長法)を公布して国王こそイングランドにおける教会の長であることを宣言しました。
そしてキャサリンとの結婚を無効とし、アンとの結婚を実現します。
ふたりの女性の運命は残酷なものでした。
キャサリンはキムボルトン城に幽閉された後、1536年に死去。
このときヘンリー8世とアンはその死を記念してダンス会を催したといいます。
アンは後にエリザベス1世となる娘を出産しましたが、そのアンも同年中に国王暗殺と姦通の疑いをかけられてロンドン塔①に幽閉され、処刑されてしまいます。
ヘンリー8世は処刑翌日にはジェーン・シーモアと再婚します。
ヘンリー8世はカンタベリー大聖堂②を総本山とする司教制度を整備し、教皇直属の修道院を廃止して土地と財産を没収。
国王を頂点とした教会組織を整備し、イングランド国教会が誕生します。
※①世界遺産「ロンドン塔(イギリス、1988年、文化遺産(ii)(iv))」
②世界遺産「カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン大修道院及び聖マーティン教会(イギリス)」
[関連サイト]
■対抗宗教改革/反宗教改革
ローマ・カトリックに対して高まる批判に対して教皇庁でも内部改革を行いました。
対抗宗教改革(反宗教改革)です。
その最たるものが1545~63年に行われたトリエント公会議で、聖職者の腐敗防止を掲げ、教会法を遵守して反社会的な行為を取り締まり、教会の引き締めを図りました。
一方で教皇の首位権を確認し、プロテスタントからの批判が多かった聖母マリアや聖人・聖遺物への崇拝に対してもその意義を認め、思想・信仰に関しては従来の主張を踏襲します。
こうした改革によって世俗化した教会はその権威を取り戻し、場合によっては魔女裁判をはじめとする異端審問によって他宗教や他教派を取り締まり、厳しく弾圧しました。
その結果、ヨーロッパ南部を中心にプロテスタントの勢力は大きく削られました。
■イエズス会の宣教活動
ローランド・ジョフィ監督『ミッション』予告編。パラナ川上流のグアラニー族に対するイエズス会の宣教の様子を描いており、パラグアイの世界遺産「ラ・サンティシマ・トリニダード・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道施設群」での物語が大いに参考にされています
教皇庁は新世界に対する宣教にも力を注ぎ、ドミニコ会やイエズス会を支持してローマ・カトリックの普及に努めました。
特にイエズス会は世界各国の世界遺産にも多大な貢献をしています。
1534年、パリ大学の同志だったイグナチオ・デ・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルら6人はパリのモンマルトルに集まって、清貧・貞潔・エルサレム①巡礼の悲願と、神と教皇への服従を誓います(モンマルトルの誓い)。
高い教育水準を誇るイエズス会士たちは、神学はもちろん文学や語学に通じており、そのため各地の大学に赴任して指導を行いました。
イエズス会は新大陸にも積極的に宣教師を派遣しました。
日本を訪れたフランシスコ・ザビエルやルイス・フロイス、ルイス・デ・アルメイダもイエズス会士です。
○イエズス会が関係した世界遺産の一例
- チェスキー・クルムロフ歴史地区(チェコ)の聖ヴィート教会
- クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(チェコ)
- 歴史都市トレド(スペイン)
- サラマンカ旧市街(スペイン)
- サン・ミジャン・ユソとサン・ミジャン・スソの修道院群(スペイン)
- エヴォラ歴史地区(ポルトガル)のエヴォラ大学
- コインブラ大学-アルタとソフィア(ポルトガル)
- ドゥブロヴニク旧市街(クロアチア)のイエズス会教会・神学校
- ヴィルニュス歴史地区(リトアニア)のヴィルニュス大学
- ゴアの教会群と修道院群(インド)のボム・ジェス聖堂
- ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群(マレーシア)のセント・ポール教会やセント・フランシスコ・ザビエル教会
- マカオ歴史地区(中国)の聖ポール天主堂や聖ローレンス教会
- 歴史都市グアナファトとその銀鉱群(メキシコ)
- カンペチェ歴史的要塞都市(メキシコ)
- サン・ミゲルの要塞都市とヘスス・デ・ナサレノ・デ・アトトニルコの聖地(メキシコ)
- キト市街(エクアドル)
- グアラニーのイエズス会伝道施設群:サン・イグナシオ・ミニ、サンタ・アナ、ヌエストラ・セニョーラ・デ・ロレート、サンタ・マリア・ラ・マジョール[アルゼンチン]、サン・ミゲル・ダス・ミソオエス遺跡群[ブラジル](ブラジル/アルゼンチン共通)」
- コルドバのイエズス会管区とエスタンシアス(アルゼンチン)
- ラ・サンティシマ・トリニダード・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道施設群(パラグアイ)
- チロエの教会群(チリ)
- チキトスのイエズス会伝道施設群(ボリビア)
- ファジル・ゲビ、ゴンダール地域(エチオピア)
- モザンビーク島(モザンビーク)
[関連サイト]
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次回は絶対王政を紹介します。