世界遺産と世界史29.中世ヨーロッパの飛躍
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<大開墾時代>
■ヨーロッパの時代へ
中世、西ローマ帝国滅亡前後から、ゲルマン人、ノルマン人、スラヴ人、アジア系諸民族等が次々とヨーロッパに進出(民族大移動)あるいはヨーロッパ内を移動し、東西ヨーロッパはその姿を大きく変えました。
オリエント(西アジア)から見れば、中世初期のヨーロッパは地中海沿岸部を除けば森に閉ざされた辺境中の辺境。
文化・文明の最先端はアジアにあり、科学や芸術、農産物・水産物にしても暖かい地域の多彩な産物に比べれば貧相なものだったに違いありません。
これが変わりはじめるのが11~13世紀です。
第1ミレニアム(西暦1~1000年)末の世界滅亡説(千年王国説)を乗り切り、諸民族の大移動も終了し、人々は森を開拓して都市を築き、落ち着きを取り戻します。
そして大開墾時代、商業ルネサンス、大翻訳時代、12世紀ルネサンスといった数々のイノベーションを経て経済と文化が飛躍。
やがてルネサンス、大航海時代を生んで「ヨーロッパの時代」が幕を開けます。
■大開墾時代と封建制
古くからヨーロッパに住んでいた「森の民」ケルト人は大地とともに暮らしていました。
そして自然のあらゆる場所に神や妖精を見て巨人や人魚、火の精や水の精などの伝説を伝えました。
ところが『グリム童話』で描かれる森は恐怖そのものです。
「赤ずきん」でも「ヘンゼルとグレーテル」でも森は避けるべき場所であり、野獣や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈する恐怖の対象となっています(ただし「白雪姫」のような例もあります)。
「生めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚、空の鳥、地を這うすべての生物を支配せよ」(『旧約聖書』「創世記」より)。
中世にヨーロッパ中に広がったキリスト教思想には、根底にこのような考え方があります。
新たにヨーロッパに定住をはじめたキリスト教徒にとって森は支配すべき敵であり、切り拓いて手なずけるべき相手だったのかもしれません。
11~13世紀の大開墾時代、鉄器を手に入れた人々は次々と森を伐採して街を造り、畑を開いて農業を行いました。
当初は畑の地力がなくなると新たに森を開墾して移動する略奪農業でした。
おかげで森は一気に減少し、たとえばイングランドでは森の約9割が消え去ったといわれています。
やがて畑を春耕地-秋耕地-休耕地の3つに分けて輪作を行う三圃制(さんぽせい)を確立。
こうした工夫によって移動の必要がなくなると、郊外の森を切り開いて放牧地を造り、ウシやヒツジなどの家畜を飼って混合農業をはじめました。
当初農奴たちは諸侯や騎士と主従関係を結んで仕えていました。
諸侯や騎士は大きな荘園(領地)を持っており、農奴を保護し封土を与える代わりに種々の税や貢納・賦役(労働)を課しました。
領主の所有物となった農奴は荘園で作物や家畜を育て、それを食べ、農奴同士で結婚し、子供を産み、生活のすべてが荘園内で完結しました。
この頃の荘園は国王の力さえ及ばず、役人の立ち入りを禁止し(不輸不入権)、農奴に対しても移動の自由を奪っていました。
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■封建制の衰退
しかし、こうした封建制(農奴制)は13世紀頃から崩れはじめます。
後述するように商業が活発になると貨幣経済が浸透。
諸侯や騎士は小作に土地を貸し出し、地代を貨幣で納めさせるようになります(小作制)。
小作は農奴と違って土地に縛られず、領主を代えたり都市に移住することもでき、これにより労働力の流動化が進みました。
農業技術の恩恵で収穫量が飛躍的に増えたこともあり、小作たちの中には大きな富を築く者も現れ、こうした富農は農業経営者として独立しました(独立自営農民)。
また、14世紀にはペスト(黒死病)が大流行し、ヨーロッパ人口の3~5割、2,000万~3,000万人が病死したといわれています。
ペスト菌はノミが媒介し、そのノミはネズミに巣くっているのですが、大開墾時代後の畑や街はネズミの生息に最適で、森林の伐採はフクロウやオオカミといった天敵の減少をもたらしてネズミはその数を増やしていきました。
このためペストは「森からの復讐」といわれます。
貨幣経済への移行や農業人口の減少のおかげで農民が立場を強める一方で、都市の興隆もあって諸侯や騎士は弱体化していきます。
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<商業ルネサンス>
■都市の繁栄と地中海貿易
中世初期、ヨーロッパの地方を支配していたのは以下のような都市と身分です。
○中世ヨーロッパの都市と支配者
- 帝国都市・自由都市:帝国都市は神聖ローマ帝国の直轄都市で、諸侯の支配を受けず、ある程度の自治が認められています。一方、司教区に属さず、教会組織から解放された都市が自由都市で、両者を兼ねる都市を帝国自由都市といいます。ただ、これらの差異は次第にあいまいになっていきます
- 司教都市:教区を統括する司教座(カテドラ)が置かれた都市で、キリスト教の統治機関として建設されました。領主は大司教や司教です
- 諸侯:皇帝や国王から封土を授かった有力貴族。公・侯・伯・子・男などの爵位(大公・公爵・侯爵・伯爵……)は諸侯の上下関係を示します。彼らの治める領地が大公領・公領・侯領・伯領等々で、主権を持ち独立性が高い場合は大公国・公国・侯国・伯国などと呼ばれます
- 聖界諸侯:大司教領や司教領など領地を持つ上位聖職者
- 騎士:皇帝や国王・諸侯に仕える戦士階級で封土を持つこともありました
大開墾時代に人口が急増して交通ネットワークが整備されると、都市も急激に増えていきました。
荘園で農業を続ける諸侯や騎士に対して、新しい都市住民は地中海や北海を渡って商業を行い、あるいは毛織物業などの産業を興して貿易を行いました(地中海貿易、北海貿易)。
そして貨幣経済を導入して富を蓄積しました。
ひとつのきっかけになったのが十字軍です。
十字軍の影響は、政治的な側面はもちろん、文化的にも経済的にも非常に大きなものでした。
キリスト教とイスラム教という宗教上の対立はあっても文化・経済の交流は活発化して、地中海ではヨーロッパとレヴァント地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン周辺)を結ぶ東方貿易(レヴァント貿易)が発達しました。
これにより東方貿易の中心を担ったイタリアの都市国家が大いに発展。
ヴェネツィア①、ジェノヴァ②、ピサ③、アマルフィ④、ナポリ⑤などは貿易港として、内陸部にあるミラノ、フィレンツェ⑥などは毛織物業や金融業によって繁栄しました。
※①世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
②世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度(イタリア)」
③世界遺産「ピサのドゥオモ広場(イタリア)」
④世界遺産「アマルフィ海岸(イタリア)」
⑤世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
⑥世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
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■商業ルネサンス
北・東ヨーロッパでも北方十字軍やノルマン人の大移動の影響から文化・経済の交流が進み、北海・バルト海貿易が発達します。
北方の貿易港としてはベルゲン(中心地がブリッゲン)①、ストックホルム、リガ②、ノヴゴロド③、プスコフ④等が、ヨーロッパ側の貿易港としてダンツィヒ(グダニスク)、リューベック⑤、ブレーメン⑥、ブルッヘ(ブルージュ)⑦等が繁栄しました。
地中海商業圏と北方商業圏の急速な発達を受けて、主要輸出品である毛織物業が大いに振興します。
その中心を担ったのが加工地であるフランドル地方のガン(ヘント)、ブルッヘ、ブリュッセル⑧、アントウェルペン(アントワープ)や、羊毛の生産地であるグレートブリテン島のロンドン⑨⑩といった都市です。
また、フランスやドイツの内陸の要衝も発達し、パリ⑪、プロヴァン⑫、リヨン⑬、ケルン⑭、ニュルンベルク、アウクスブルク⑮といった都市が飛躍しました。
特にシャンパーニュ地方ではシャンパーニュ伯が商業を奨励し、シャンパーニュ大市と呼ばれる国際見本市を開催し、地中海商業圏と北方商業圏の商人が集まって取引を行いました。
その中心的な大市都市がプロヴァンです。
こうして11~12世紀にヨーロッパ全域で商業が活性化して都市が発達します。
商業ルネサンスです。
※①世界遺産「ブリッゲン(ノルウェー)」
②世界遺産「リガ歴史地区(ラトビア)」
③世界遺産「ノヴゴロドの文化財とその周辺地区(ロシア)」
④世界遺産「プスコフ建築派の教会群(ロシア)」
⑤世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック(ドイツ)」
⑥世界遺産「ブレーメンのマルクト広場の市庁舎とローラント像(ドイツ)」
⑦世界遺産「ブルッヘ歴史地区(ベルギー、2000年、文化遺産(ii)(iv)(vi))」
⑧世界遺産「ブリュッセルのグラン=プラス(ベルギー)」
⑨世界遺産「ウェストミンスター宮殿、ウェストミンスター寺院及び聖マーガレット教会(イギリス)」
⑩世界遺産「ロンドン塔(イギリス)」
⑪世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
⑫世界遺産「中世大市都市プロヴァン(フランス)」
⑬世界遺産「リヨン歴史地区(フランス)」
⑭世界遺産「ケルン大聖堂(ドイツ)」
⑮世界遺産「アウクスブルクの水管理システム(ドイツ)」
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■都市同盟
ハンザ同盟 "Hanseatic League" の解説動画。英語ですが画像だけでも参考になると思います
商工業が発達し、貨幣経済が浸透すると、都市は諸侯や騎士たちを超える富を手に入れ、自治を求めるようになります。
諸都市は自治権を獲得し、イタリアでは「コムーネ」、フランスでは「コミューン」と呼ばれる自治都市へ移行。
ドイツでも都市は神聖ローマ皇帝から特許状を得て、諸侯や騎士・司教の統制を離れて帝国都市や自由都市として自立します。
こうして独立した都市は自らを守るために城壁で街を囲み(城郭都市)、軍を保持。
お互いを守るため都市同士で同盟を組み、イタリアのロンバルディア同盟やドイツのハンザ同盟が結成されました。
デンマークやスウェーデンは後にハンザ同盟に対抗してカルマル同盟を結成しています。
なお、ベルギーやフランス北東部では自治都市がその象徴として壮大な鐘楼を建設しました。
こうした56基の鐘楼群をまとめた世界遺産が「ベルギーとフランスの鐘楼群(フランス/ベルギー共通)」です。
■ギルド
イギリスやフランスでは国王が都市の自治を認める代わりに税を納めさせました。
こうして都市は国王に近づき、地方を治めていた諸侯や騎士の手を離れました。
また、中世の自治都市では自分たちの産業を守るために「ギルド」と呼ばれる同業者組合を組織しました。
最初に生まれたのが遠隔地商業を担う商人たちによる商人ギルドで、貿易と富を独占して市政を担いました。
これに対して手工業者が手工業ギルドを結成し、商人ギルドとのツンフト闘争(市政参加を求めた闘争)を通じて地位を向上させます。
ギルドは商品の価格や品質をコントロールし、それぞれの産業を独占しました。
経済発展局面においてこうした独占体制はギルドに大きな利益をもたらしました。
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<教会勢力の衰退>
■大シスマ
12~13世紀、教皇権は絶頂期を迎えて教皇インノケンティウス3世は「教皇は太陽、皇帝は月なり」と語りました。
しかし、十字軍が失敗に終わって信頼は失墜します。
さらに諸侯や騎士が力を失い王が勢力を伸ばしたイギリスやフランスでは、次第に教皇との対立が表面化します。
その最大の出来事が1303年のアナーニ事件です。
フランス王フィリップ4世はイギリスとの戦いの費用を調達するために、1302年に貴族・聖職者・平民からなる三部会を開いて聖職者に対する課税を検討します。
教皇ボニファティウス8世はこれに反発してフィリップ4世を破門。
フィリップ4世は激怒してボニファティウス8世を彼の出身地であるイタリアのアナーニで捕らえます(部下の単独行動ともいわれます)。
ボニファティウス8世は数日後に救出されましたが、わずか3週間後に憤死してしまいます。
1305年、フィリップ4世が支持するクレメンス5世が教皇に即位。
1309年には教皇の座所である教皇聖座をローマ①から南フランスのアヴィニョン②に遷し、実質的にフランスの支配下に置きました(教皇のバビロン捕囚/アヴィニョン捕囚)。
こうしてフランスでは教皇に対する国王の優位を確認し、教皇と国王の序列が覆りました。
1377年、時の教皇グレゴリウス11世は教皇聖座をローマ③に戻します。
翌年グレゴリウス11世が死去すると、ローマではウルバヌス6世が即位。
一方、アヴィニョンでもクレメンス7世が教皇を名乗って即位し、ふたりの教皇が並び立つ大シスマ=教会大分裂がはじまります。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「アヴィニョン歴史地区:教皇庁宮殿、司教関連建造物群及びアヴィニョン橋(フランス)」
③世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
[関連サイト]
■ウィクリフとフス
こうして世俗的な争いを繰り返す教会に対し、イギリスのジョン・ウィクリフは聖書の教えから逸脱しているとローマ・カトリックを非難します。
聖書の教えに戻ることを主張し、聖書を英訳してイギリスに広めました(聖書主義)。
1411年にローマ①②の教皇ヨハネス23世が戦費調達のため、それを買って敵を倒せば罪が許されるという贖宥状(しょくゆうじょう。免罪符)を発行します。
これに対しヤン・フスはウィクリフ同様に聖書主義を掲げて強く非難。
フスの主張はボヘミア(チェコ西部)民衆の支持を集め、ボヘミアは国を二分するほどに混乱します。
こうした混乱を収拾するために神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱で開催されたのが1414年のコンスタンツ公会議です。
実はこの時点で3人の教皇が並存していましたが、この会議ですべての教皇位を廃位し、新教皇としてアレクサンデル5世を選出して大シスマを終結させました。
同時にウィクリフとフスの異端を決議しています。
フス処刑後の1419年、プラハ③でフス派と神聖ローマ帝国との間でフス戦争が勃発。
クトナー・ホラ④を拠点とする神聖ローマ皇帝ジギスムントは教皇マルティヌス5世とともに十字軍を組織して送り込みました。
結局フス派は1436年に大敗を喫して敗北しますが、教会の改革を求める運動は後を絶ちませんでした。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
③世界遺産「プラハ歴史地区(チェコ)」
④世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(チェコ)」
[関連サイト]
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<12世紀ルネサンス>
■大翻訳時代
古代ギリシアやローマで生まれた芸術や学問はキリスト教が浸透していく過程で失われていきました。
これらを研究したのはむしろイスラム圏で、アッバース朝やマムルーク朝をはじめとするイスラム王朝の庇護下で大いに研究が進められました。
そして東方貿易を経て研究成果はヨーロッパに逆輸入され翻訳されました。
これが大翻訳時代で、それ以後の文化的興隆を12世紀ルネサンスと呼びます。
大翻訳時代の中心となったのがかつてイスラム諸国の支配下にあったシチリア島のパレルモ①やイベリア半島のトレド②で、ここでアラビア語からラテン語に翻訳されました。
※①世界遺産「パレルモのアラブ=ノルマン様式の建造物群及びチェファルとモンレアーレの大聖堂(イタリア)」
②世界遺産「歴史都市トレド(スペイン)」
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<修道院の活躍>
■修道院と修道士
教皇と皇帝、諸侯・騎士と大司教・司教が聖職者の叙任権や課税を巡って争っていた一方で、生涯貧しいままに生き、隣人を愛しつづけたイエスの生涯を範として生活する人たちもいました。
こうした修道士たちは清貧・貞潔(結婚の否定)・服従といった修道誓願を立て、「祈り、働け」という戒律の下で厳しい修行生活に勤しみました。
修道士は中世ヨーロッパの地方に大きな影響を与えました。
神学や種々の科学を修め、この頃各地に整備された大学に赴任して地方の教育レベルを底上げし、建築や農業・手工業の先端技術を普及させて農地の開拓や架橋・道路の建造といった社会インフラの整備に貢献しました。
また、貧困層に対しては社会福祉を行い、病人やケガ人に対しては医療施設を開放しました。
修道院で生産する飲食物が地域振興・町興しとなり、地方の名物になるケースもありました。
現在ヨーロッパ中に存在する地ビールやワインの中でこの頃に修道院が普及させた銘柄も少なくありません。
たとえば世界一有名なワインであろうブルゴーニュ地方ヴォーヌ=ロマネ村①のロマネ=コンティやシャンパーニュ地方オーヴィリエ②のドン・ペリニヨンはいずれももともとはベネディクト会が開拓したブドウ畑で作られた修道院ワインです。
※①世界遺産「ブルゴーニュのテロワール、クリマ(フランス)」
②世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ(フランス)」
○修道院とワインが関係する世界遺産の例
- サン=テミリオン地域(フランス)
- ボルドー、月の港(フランス)
- ブルゴーニュのテロワール、クリマ(フランス)
- シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ(フランス)
- アルト・ドウロ・ワイン生産地域(ポルトガル)
- ライン渓谷中流上部(ドイツ)
- ラヴォー地区のブドウ畑(スイス)
- ヴァッハウ渓谷の文化的景観(オーストリア)
- ピエモンテのブドウ畑の景観:ランゲ=ロエロ、モンフェッラート(イタリア)
- コネリアーノとヴァルドッビアーデネのプロセッコの丘(イタリア)
■ベネディクト会
代表的な修道会を紹介しましょう。
カトリック最古の修道会がベネディクト会です。
6世紀、ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノにベネディクト修道院に創建したのがはじまりで、「労働は祈りにつながる」というモットーを掲げて共同生活を行いました。
先の「清貧・貞潔・服従」や「祈り、働け」といったモットーはベネディクト会の会則です。
ベネディクト会の修道院で世界遺産リストに登録されているものには以下の例があります(活動中止、あるいは会派を変えた修道院を含みます)。
○ベネディクト会が関係する世界遺産の例
- カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン大修道院及び聖マーティン教会(イギリス)
- ザンクト・ガレン修道院(スイス)
- ミュスタイアのベネディクト会ザンクト・ヨハン修道院(スイス)
- ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル教会(ドイツ)
- パンノンハルマの千年史を持つベネディクト会修道院とその自然環境(ハンガリー)
- モン=サン=ミシェルとその湾(フランス)
- ランスのノートル=ダム大聖堂、サン=レミ旧大修道院及びトー宮殿(フランス)
■シトー会
11世紀にベネディクト会から派生したクリュニー会から、さらに派生したのがシトー会です。
1098年にモレームのロベール(聖ロベール)がフランス・ブルゴーニュ地方に築いたシトー修道院を頂点とする組織で、ベネディクトゥスが提唱した理念に戻ることを目標としました。
労働を重視し、特に農業の開墾と三圃制の普及に尽力し、フランス大開墾時代の先頭に立ちました。
特にクレルヴォーのベルナール(聖ベルナール)がクレルヴォー修道院を設立してから大いに繁栄しました。
シトー会の修道院で世界遺産リストに登録されているものには以下の例があります(活動中止、あるいは会派を変えた修道院を含みます)。
○シトー会が関係する世界遺産の例
- フォントネーのシトー会修道院(フランス)
- ファウンティンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園(イギリス)
- ラヴォー地区のブドウ畑(スイス)
- ポブレー修道院(スペイン)
- エルツゲビルゲ/クルシュノホリ鉱業地域(チェコ/ドイツ)
- クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(チェコ)
- ゼレナー・ホラの聖ヤン・ネポムツキー巡礼教会(チェコ)
- マウルブロン修道院の建造物群(ドイツ)
- ランメルスベルク鉱山、歴史都市ゴスラー及びオーバーハルツ水利管理システム(ドイツ)
- アルコバッサ修道院(ポルトガル)
■ドミニコ会
定住や所有を否定し、地方を移動しながら托鉢(たくはつ。鉢を持って家を回り食物等を受けて回ること)によって活動を行う托鉢修道会がドミニコ会です。
1216年にドミニコが興し、教皇の認可を得て活動を開始。
教皇に直接仕えることで諸侯・騎士から独立した立場を貫きました。
世界遺産リスト登録のドミニコ会修道院の例には以下があります(活動中止、あるいは会派を変えた修道院を含みます)。
○ドミニコ会が関係する世界遺産の例
- バターリャ修道院(ポルトガル)
- レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(イタリア)
- ポポカテペトル山腹の16世紀初頭の修道院群(メキシコ)
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次回はイギリスとフランスの抗争と百年戦争・バラ戦争を紹介します。