世界遺産と世界史28.西アジアとインド世界の確立
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<オスマン帝国>
オスマン帝国の版図の推移
■オスマン帝国の台頭
この時期、小アジア、ペルシア、デカン高原でそれぞれ現在のトルコ、イラン、インドのもとになる大帝国が生まれます。
オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国です。
まずはオスマン帝国の歴史を見てみましょう。
1077年に成立したルーム・セルジューク朝は各地にベイ(君侯)を君主とするベイリク(君侯国)を配して統治していました。
しかし、13世紀にモンゴル帝国やイル・ハン国の支配を受けると次第にベイリクが勢力を強めて小アジアは分裂状態に陥ります。
1299年、テュルク系(トルコ系)のオスマン1世が小アジアに建てたベイリクがオスマン侯国です。
その息子オルハンは1326年にビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール)①の80kmほど南に位置するブルサ②を攻略し、同地に遷都。
その後、ダーダネルス海峡を渡ってトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)に侵攻し、イスラム教国として初となるアジア方面からのヨーロッパ進出を果たしました。
さらにその息子ムラト1世はトラキアを平定し、1365年にはアドリアノープルをエディルネに改称して都を遷しました。
この時点でビザンツ帝国は首都コンスタンティノープルと周辺を領有する程度にまで縮小・弱体化していました。
しかし、オスマン侯国は南北からビザンツ帝国を挟んだものの、この後100年もの間、攻略することができませんでした。
オスマン侯国はその勢いのままバルカン半島南部の多くを支配。
ヨーロッパ各国はイスラム教勢力の侵入に対してニコポリス十字軍を結成し、連合して討伐に乗り出します。
1396年、ムラト1世の息子バヤジット1世はニコポリスの戦いでこれを撃破。
この活躍でスンニ派イスラム教最高指導者であるカリフから地域支配者であるスルタンの称号を与えられています。
以下ではオスマンのスルタンを「皇帝」、オスマン侯国をオスマン帝国と表記します。
ヨーロッパを恐怖に陥れたオスマン帝国でしたが東から現れたティムールが小アジアに侵入。
1402年のアンカラの戦いに敗れると、バヤジット1世は捕らえられた後に死去し、オスマン帝国はほぼ滅亡してしまいます。
※①世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
②世界遺産「ブルサとジュマルクズック:オスマン帝国発祥の地(トルコ)」
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■ビザンツ帝国の滅亡
コンスタンティノープル攻略を描いたトルコ映画l『征服 1453』予告編
1412年、バヤジット1世の息子メフメト1世がオスマン帝国を再興すると、失った領土を次々に奪還。
続くムラト2世の時代には以前とほぼ同じ領域まで回復します。
1452年、第7代皇帝(スルタン)メフメト2世は悲願のコンスタンティノープル①攻略に着手。
しかし、ビザンツ帝国は海に鎖を張り巡らせて海軍の侵入を巧みに防ぎました。
オスマン帝国は数か月にわたってコンスタンティノープルを包囲しますが崩せません。
そこでメフメト2世は丸太に油を塗って道に並べ、その上に船を乗せて引っ張って山越えを慣行。
突如、金角湾に現れた70隻のオスマン艦隊を見てビザンツ帝国の士気は大きく下がったといわれています。
こうした作戦もあって1453年、ついにコンスタンティノープルが陥落してビザンツ帝国は滅亡します。
メフメト2世は正教会の総本山ハギア・ソフィア大聖堂をアヤソフィアとしてモスクに改修し、皇帝の居城として豪華絢爛たるトプカプ宮殿を造営してイスラム都市イスタンブールとして整備しました。
第9代皇帝セリム1世の時代には目を東に転じ、ペルシアの地に興ったサファヴィー朝と交戦。
1514年にはサファヴィー朝のイスマーイール1世をチャルディラーンの戦いで打ち破ります。
さらに南のマムルーク朝を攻めて1517年に首都カイロ②を落としてこれを滅ぼしました。
それまでマムルーク朝が管理していたイスラム教の2大聖地メッカとメディナを手に入れて、イスラム教最高指導者カリフを廃位。
伝説ではこのときカリフの称号を得たとされ、後のスルタン=カリフ制につながります。
これで実質的にオスマン帝国がイスラムの盟主となりました。
※①世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
②世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
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■スレイマン1世の全盛期
オスマン帝国最盛期を築くのが第10代皇帝スレイマン1世です。
東ではサファヴィー朝と戦ってティグリス=ユーフラテス川沿いのメソポタミアと、黒海とカスピ海の間に広がるコーカサス地方の多くを支配。
南ではエジプトから西に軍を進めて北アフリカの多くを占領し、地中海ではロードス島①のロードス騎士団(聖ヨハネ騎士団)を撃破します。
北ではハンガリーに対して1526年、モハーチの戦いに勝利してハンガリー領の多くを奪い取り、ハプスブルク家と敵対していたフランスと結んでオーストリアを攻撃します。
1529年には神聖ローマ帝国の帝都ウィーン②③を包囲(第1次ウィーン包囲)。
慣れない寒さもあってウィーン攻略は断念するものの、スレイマン1世はその名をヨーロッパ中にとどろかせました。
ヨーロッパとの戦いは地中海でも進められました。
1538年、ローマ・カトリック連合軍(ハプスブルク家のスペイン、教皇軍、ヴェネツィア④等)とオスマン帝国との間でプレヴェザの海戦が勃発。
これに勝利したスレイマン1世は地中海東部の制海権を掌握しました。
※①世界遺産「ロードス島の中世都市(ギリシア)」
②世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
③世界遺産「シェーンブルン宮殿と庭園群(オーストリア)
④世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
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■オスマン帝国のヨーロッパ進出
スレイマン1世の死後、跡を継いだ息子セリム2世はキプロスを攻めて占領するものの、スペインやヴェネツィア※を中心としたローマ・カトリック連合軍の反撃を受け、1571年のレパントの海戦に敗北を喫します。
しかし、フランスが仲介した講和条約はオスマン帝国に有利に進められ、キプロスの領有権を確保しました。
1683年には第2次ウィーン包囲を実施しますが、失敗。
これを受けて教皇インノケンティウス11世はオーストリア、ポーランド=リトアニア、ロシア、ヴェネツィアといった国々に呼びかけ、神聖同盟を結成してオスマン帝国に対抗します。
16年間にわたる大トルコ戦争(1683~99年)の末、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はヨーロッパの多くの領土をオーストリアに割譲。
帝国は1922年まで存続しますが、これ以降は衰退期に入ります。
※世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
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<サファヴィー朝>
サファヴィー朝の版図の推移
■サファヴィー朝の成立
イスラム教には神との直接的な交流を重視する「スーフィズム(神秘主義)」と呼ばれる信仰があります。
13~14世紀、シャイフ・サフィーが興したスーフィズムの一派がサファヴィー教団です。
シャイフ・サフィーとその一族はアルダビール※にモスクやマドラサ(モスク付属の高等教育機関)を建設し、イスラム宗教都市を築き上げました。
ティムール朝が衰退したあと、サファヴィー教団の長・イスマーイール1世がサファヴィー朝を建国します。
国が大きくなると、隣国でスンニ派の盟主でもあるオスマン帝国に対抗し、シーア派最大派閥の十二イマーム派に改宗。
ペルシア王を意味する「シャー」を名乗ってペルシアの盟主となります。
オスマン帝国のセリム1世は小アジアでシーア派を弾圧していたことから戦争は不可避となり、1514年にチャルディラーンの戦いが勃発。
オスマン帝国の繰り出す火砲や大砲の前にイスマーイール1世は散々に打ち破られ、はじめての敗北を喫しました。
※世界遺産「アルダビールのシェイフ・サフィー・アッディーンの修道院と聖者廟複合体群と寺院群(イラン)」
■サファヴィー朝の繁栄
イスマーイール1世没後、オスマン帝国のスレイマン1世の攻撃を受けてメソポタミアやコーカサス地方を奪われ、首都をタブリーズ①からガズヴィーンへ遷都。
その後もオスマン帝国との戦いが続き、サファヴィー朝は神聖ローマ帝国やスペイン、ポルトガルに近づきますが同盟は失敗に終わります。
サファヴィー朝の最盛期はアッバース1世によってもたらされました。
アッバース1世は一時オスマン帝国と和平を結び、その間にオスマン帝国のイェニチェリに対抗するためにシャー直属の奴隷兵団グラームを組織し、火砲・大砲を充実させて軍の近代化を図ります。
1597年、アッバース1世はイスファハン②③④に遷都。
モスク・マドラサ・庭園などを整備し、商業の振興を図るとやがて人口は50万を超え、東西南北を結ぶ要衝となって世界各地の文化が集いました。
特にイマーム広場の美しさは「イランの真珠」と讃えられ、「世界の半分」が集まるといわれるほどの繁栄を誇りました。
アッバース1世は17世紀はじめにいよいよオスマン帝国と開戦。
これを打ち破り、コーカサス地方の奪還に成功します。
※①世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)」
②世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン)」
③世界遺産「イスファハンのジャーメ・モスク(イラン)」
④世界遺産「ペルシア庭園(イラン)」
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■サファヴィー朝の滅亡
アッバース1世の死後、衰退は早いものでした。
幼い君主や政治に関心のない君主が続いたことで政治は安定せず、オスマン帝国の逆襲や、クルド人やコサックをはじめ諸民族の反乱が相次ぎ、国は荒廃します。
1722年にはアフガニスタンで起こったホターキー朝によってイスファハン①が落城。
首都を失ったサファヴィー朝ですが、タフマースブ2世が即位し、名将ナーディルがこれを支える形で勢いを盛り返し、1730年にイスファハンを奪還します。
ナーディルはこの勢いで多くの領土を取り戻します。
力を強めるナーディルは1732年にタフマースブ2世を追放してアッバース3世を擁立。
1736年にアッバース3世を退位させ、自らがシャーとなってアフシャール朝を築き、ここにサファヴィー朝は滅亡します。
このあと群雄割拠の時代を経てイランを統一したのがテュルク系のアーガー・ムハンマドが建てたカージャール朝です。
1796年にシャーハンシャー(諸王の王)を名乗って王位に就き、ゴレスタン宮殿②建設して首都をテヘランに定めています。
※①世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン)」
②世界遺産「ゴレスタン宮殿(イラン)」
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<ムガル帝国>
ムガール帝国の版図の推移。Timurid Empire=ティムール朝、Fergahana=フェルガナ、Babur's Dominions=バーブル政権、Mughal Empire=ムガール帝国、Kamran's Domains=カムラン政権
■ムガル帝国の成立
ウズベキスタンの都市フェルガナの領主バーブルはティムールの玄孫(やしゃご。孫の孫)です。
1526年、デリー・スルタン朝最後の王朝ロディー朝を滅ぼしてデリー①とアグラを掌握し、イスラム王朝のムガル帝国を興します。
初代皇帝バーブルの死後、長男フマユーンが跡を継ぎます。
フマユーンはインドの諸勢力との戦いに敗れて一時ペルシアのサファヴィー朝へ逃れ、亡命政権を樹立。
この間にシェール・シャーのスール朝がインド北部を支配しますが、フマユーンはアフガニスタンに基盤を作ってからインドに侵攻し、1555年にスール朝を滅ぼしてインド北部を平定します。
翌年、フマユーンが事故死すると、王妃ハージ・ベグムは亡き夫のためにデリーのヤムナ川沿いに9年をかけて壮麗な廟(フマユーン廟)②を建設します。
インド・イスラム美術の粋を集めたもので、タージ・マハル③をはじめとするムガル美術に多大な影響を与えました。
第3代皇帝に就いたのはフマユーンの息子アクバルです。
アクバルは非イスラム教徒に課されていた人頭税ジズヤを廃止してヒンドゥー教徒の信頼を勝ち取り、ヒンドゥー教徒であるラージプート族の娘をめとることでインド西部の支配を固めました。
さらにガンジス川を下ってインド東部を治め、ムガル帝国の基盤を整えました。
アクバルはアグラ城④を建設して遷都。
子宝に恵まれなかったアクバルはスーフィズムの司祭に皇子誕生を祈願し、これが叶うと感謝の意を込めてアグラの北10kmほどの位置に「勝利の都」ファテープル・シークリー⑤を建設して都を遷します。
アクバルはさらにラホール城⑥を造って遷都しますが、その後首都をアグラに戻しています。
※①世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド)」
②世界遺産「デリーのフマユーン廟(インド)」
③世界遺産「タージ・マハル(インド)」
④世界遺産「アグラ城塞(インド)」
⑤世界遺産「ファテープル・シークリー(インド)」
⑥世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン)」
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■ムガル帝国の最盛期
ムガル帝国最盛期を築いたのが第5代皇帝シャー・ジャハーン、第6代皇帝アウラングゼーブの親子です。
シャー・ジャハーンの妃はムムターズ・マハル。
インドのバザールで偶然で出会ったふたりはひと目で恋に落ち、15歳と12歳で婚約し、5年後に結婚したといいます。
ふたりの仲はむつまじく、シャー・ジャハーンはハーレムを築くこともなく、外征には必ずムムターズを伴い、結婚生活18年で14人の子をもうけました。
しかし、ムムターズは最後の女児を出産すると急死してしまいます。
その死を悼んでシャー・ジャハーンが20年の歳月と2万人の労働力を投入して築いたのが白大理石の墓廟タージ・マハル①です(以上はすべて伝説)。
シャー・ジャハーンはタージ・マハル以外にも数多くの建造物を残しています。
赤砂岩のアグラ城②を改築し、白大理石でモティ・マスジド(真珠のモスク)をはじめとする美しい建物を増設。
デリーに遷都するとレッド・フォート(ラール・キラー)③を建設して居城とし、ラホール城④を整備して噴水を多用したシャーリマール庭園④を開設しました。
また、現在のパキスタン南部のシンド地方の都市タッタ⑤やマクリ⑤には青タイルを多用したペルシア風のジャーメ・マスジド(金曜モスク)をはじめとする数々の建造物を築きました。
ムガル帝国最大版図を築いたのがアウラングゼーブです。
アウラングゼーブはそれまでのイスラム教・ヒンドゥー教の調和を嫌ってイスラム教による統治を行い、人頭税ジズヤを復活。
抵抗したラージプート族を力で平定すると、南インドのヒンドゥー勢力を倒して領土を広げます。
アウラングゼーブの死後、ムガル帝国は統一を保てず分裂し、デカン高原をマラータ王国を中心としたヒンドゥー連合・マラータ同盟が占拠します。
インド西部ではラージプート族やシク教徒、東部ではベンガルなども独立し、ムガル帝国にはデリー周辺のみが残されました。
※①世界遺産「タージ・マハル(インド)」
②世界遺産「アグラ城塞(インド)」
③世界遺産「レッド・フォートの建造物群(インド)」
④世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン)」
⑤世界遺産「タッタとマクリの歴史的建造物群(パキスタン)」
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次回は中世ヨーロッパの飛躍を紹介します。