世界遺産と世界史26.北方騎馬民族とその周辺
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
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<3大騎馬民族の動き>
■3大北方騎馬民族
中国北部から東ヨーロッパや西アジアにかけて、砂漠やステップ(雨季にのみ草原が広がる亜熱帯高圧帯周辺の半砂漠地帯)を中心とする広大な乾燥地帯が広がっています。
砂漠やステップで生活するのは簡単ではありませんが、移動は比較的容易で、そのため古来ウマやラクダを利用した交易が行われていました。
シルクロード①②です。
人々は草原でヤギやヒツジ、ロバ、ウマ、高地ではヤクなどを放牧し、家畜のエサとなる緑を求めて移動を繰り返しながら遊牧生活を行っていました。
特に重要だったのがウマです。
ウマは生活用品の運搬の役を担い、農耕を行う際には畑を耕し、その背に乗ること(騎馬)ですばやい移動も可能になりました。
また、馬肉として貴重なタンパク源となっただけでなく、ミルクは不足しがちなビタミンを補い、ヨーグルトやバター、チーズ、馬乳酒に加工されて携帯食にもなりました。
当然戦争にも利用され、太古の昔から騎馬隊が活躍し、紀元前3000年頃にはメソポタミアで戦車(戦闘馬車)が発明され、まもなく馬上から弓を射る弓騎兵が登場しています。
そして内陸アジアはウマの名産地。
中国や西アジアの先進国はウマを手に入れるために遊牧騎馬民族と貿易を行い、あるいは傭兵として雇って騎馬軍団を形成しました。
もちろん騎馬民族が国を創り、中国や西アジアに攻め込むこともありました。
紀元前においては中央アジアのスキタイや東アジアの匈奴、鮮卑がその例で、春秋戦国時代や秦・漢代の万里の長城③は彼らが操るウマの侵入を防ぐためのものでした。
騎馬民族の中で大きな勢力を誇ったのがテュルク系、モンゴル系、チベット系の諸民族です。
まずはこれら3民族の主な国家をまとめてみましょう。
矢印は厳密に国家がこの順番で移り変わったことを示しているのではなく、著名な国家を順番に並べた程度のものです。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
③世界遺産「万里の長城(中国)」
○テュルク系(トルコ)
- 高車→突厥→ウイグル→キルギス→天山ウイグル
- カラ・ハン朝→ガズナ朝、セルジューク朝、マムルーク朝 等々
○モンゴル系
- 柔然→遼(キタイ)→西遼(カラ・キタイ)→モンゴル帝国→元→北元
○チベット系
- 吐蕃→西夏
- 南詔→大理
[関連サイト]
■テュルク系諸民族の動き
テュルク系国家の推移(他の民族も含まれています)。最初は中央アジアで活動し、次第に西に移動していくのがわかります。Xiongnu=匈奴、Hunnic Empire=フン帝国、Hephthalites=エフタル、Turkic Khaganate=突厥、Uyghur Khaganate=ウイグル、Yenisei Kirghiz=キルギス、Ghaznavid Empire=ガズナ朝、Seljiuk Empire=セルジューク朝、Dehli=デリー・スルタン朝、Rus States=ルーシ国家群、Golden Horde=キプチャク・ハン国、Chagatai Khanate=チャガタイ・ハン国、Kazakh Khanate=カザフ・ハン国、Timurid Empire=ティムール朝、Ottoman Empire=オスマン帝国
6世紀に中央アジア~東アジアにかけて大領域を支配したのがテュルク系の突厥(とっけつ)です。
この国がトルコの起源と考えられており、1952年にはトルコ建国1,400周年を祝っています。
6世紀後半に内紛が起きたり隋の離間の策を受けて東突厥と西突厥に分裂。
7世紀には唐の太宗が東突厥を攻撃して唐に組み入れ、続く高宗が西突厥を征伐してこれも版図に取り込みました。
東突厥、西突厥は唐の羈縻(きび)体制下に入ったものの王族はそのまま存続していました。
これを滅ぼして8~9世紀に覇を唱えたのがウイグルです。
ウイグルは東突厥の弱体化に乗じて744年にできたオルドゥバリク①を首都とするテュルク系国家です。
755年に安史の乱が起こると唐の要請を受けて軍を派遣。
唐とともに反乱軍を打ち破って長安②や洛陽②を奪還します。
ウイグルはその後、弱体化した唐にたびたび侵入してその領土を奪っていきます。
ところがウイグルは同じテュルク系のキルギスの反乱を受けて840年に滅亡。
キルギスも長続きせず、まもなく分裂します。
テュルク系民族はモンゴル人の内陸アジア進出を受けて多くの者が西に向かいます。
840年、中央アジアに誕生したカラ・ハン朝はウイグルから逃れた人々によって建てられた国家です。
テュルク系初のイスラム王朝で、これを皮切りにガズナ朝、セルジューク朝、ホラズム・シャー朝、マムルーク朝、デリー・スルタン朝といった国々を建国し、テュルク系は西アジアや南アジアへ進出してイスラム化していきます。
現在トルコがある小アジアにテュルク系が入植するのは11~12世紀のセルジューク朝期以降です。
※①世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル)」
②世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
■モンゴル系諸民族の動き
モンゴル系国家の推移(他の民族も含まれています)。Xianbei=鮮卑(民族系統不明)、Rouran Khaganate=柔然、North Wei=北魏、Liao=契丹・遼、Qara Khitai=西遼、Mongol Empire=モンゴル帝国
中国北東部を支配していたのがモンゴル系の諸民族です。
遼河流域で暮らしていた民族・契丹(きったん)もそのひとつで、耶律阿保機(やりつあぼき)が916年に皇帝を名乗ってキタイとして独立しますが、後に中国風に遼を名乗りました。
遼は西のモンゴル高原に進出し、東の渤海(ぼっかい。後述)を撃破。
さらに五代十国の後晋から燕雲十六州を割譲させると、万里の長城※より内側の中国内地に進出して北京や大同といった要衝を手に入れました。
宋が中国を統一すると、宋の太宗は燕雲十六州を奪還するために遼を攻撃。
遼は西夏と同盟してこれを撃退した後、聖宗は逆に1004年、宋へ攻撃を仕掛けます。
結局、宋の真宗は、宋を兄、遼を弟として宋が遼に毎年金銭・物品を下賜するという和約を結びます(澶淵の盟/せんえんのめい)。
遼はこの後、宋・西夏と安定した関係を保って繁栄しましたが、満州周辺に暮らしていたツングース系・女真族が反旗を翻し、1115年に完顔阿骨打(わんやんあぐだ)が金を建てて独立。
金は宋・西夏と結んで遼を攻め、1125年にこれを滅ぼしました。
このとき西に逃れた耶律大石が中央アジアで興した国が西遼(カラ・キタイ)です。
西遼は一時カラ・ハン朝を倒して繁栄しますが、モンゴル帝国が興るとこれに帰順し、その後滅ぼされました。
※世界遺産「万里の長城(中国)」
[関連サイト]
■チベット系諸民族の動き
吐蕃の版図の推移。途中で現れる薄い青は南詔
チベット高原では古くからチベット系の諸民族が活動していました。
633年、ソンツェン・ガンポはチベット初の統一王朝・吐蕃(とばん)を打ち立てます。
そして首都ラサにあるマルポリの丘に、後にポタラ宮①となる宮殿を建設します。
ソンツェン・ガンポは唐と戦闘を繰り返しますが640年に唐の玄宗の娘である文成公主をめとり、唐の冊封体制に入ります。
さらにネパールのリッチャヴィ朝からブリクティをめとりましたが、文成公主もブリクティも熱心な仏教徒であったことからラサににラモチェ(小昭寺)やトゥルナン寺(大昭寺。本堂はジョカン)①といった仏教寺院を建立し、ソンツェン・ガンポも仏教に帰依しました。
8世紀には国王ティソン・デツェンが仏教を国教に指定しています。
吐蕃と唐は戦争と和平を繰り返しますが、唐が力を失うと吐蕃はたびたび唐の領内に侵入。
755年の安史の乱で混乱すると、763年には首都・長安②にまで到達しました。
9世紀後半、吐蕃は内乱と唐の攻撃により混乱し、統一王朝は消滅。
ラサを中心とするチベット高原中央部は1254年のモンゴルによる統一まで地方政権が並び立ちました。
8世紀頃から中国南西部、現在の雲南省を中心とした地域に誕生したチベット系の王国が南詔(なんしょう)です。
雲南地方は中国-ミャンマー-インド-ペルシアを結ぶ西南シルクロードと、中国-チベット-インド・ネパールを結ぶ茶馬古道の要衝で、こうしたルートを利用した貿易で繁栄しました。
一時はラオス、ベトナムの一部をも支配下に治めた南詔でしたが内乱によって902年に滅亡します。
1038年には中国の北西でチベット系タングート族の李元昊(りげんこう)が西夏を建てます。
西夏は遼やラサのチベット政権と同盟を結んで宋に対抗。
1115年に金が興ると西夏は宋・金と同盟して遼を攻め、これを撃破。
遼滅亡後、金が1127年に宋を滅ぼすと、混乱に乗じて中国北西部の多くの土地を奪取します。
※①世界遺産「ラサのポタラ宮歴史地区(中国)」
②世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
[関連サイト]
世界遺産と建築22 仏教建築2:大乗仏教編(東南アジア、チベット、ネパール)
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<東アジアの動向>
■朝鮮半島の動き
668年に滅亡した高句麗以降の様子を見てみましょう。
朝鮮半島では新羅が勢力を広げて朝鮮半島の多くを版図に収めます。
新羅も唐に朝貢し、冊封体制に入っていました。
新羅の首都が金城①で、唐との戦いに備えて各地に城壁②を築いています。
新羅は仏教を奉じており、数々の寺院を築きました。
新羅仏教の最高峰といわれるのが仏国寺③です。
また、海印寺④に収められた版木によって印刷された高麗八萬大蔵経は日本を含む国内外に渡って仏教の布教に貢献しました。
朝鮮半島は10世紀に新羅、後百済、後高句麗の後三国時代に突入します。
918年、後高句麗の将軍・王建が反乱を起こして高麗を建国。
高麗は935年に新羅、936年に後百済を滅ぼして朝鮮半島を統一します。
太祖・王建は故郷に城壁を張り巡らせると、王宮を築いて首都・開州(現在の開城。ケソン)⑤を建設。
以後1392年まで開城は高麗の首都として繁栄します。
※①世界遺産「慶州歴史地域(韓国)」
②世界遺産「南漢山城(韓国)」
③世界遺産「石窟庵と仏国寺(韓国)」
④世界遺産「八萬大蔵経の納められた伽耶山海印寺(韓国)」
⑤世界遺産「開城の歴史的建造物と遺跡(北朝鮮)」
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次回はモンゴル帝国の世界征服を紹介します。