世界遺産と世界史23.イスラム帝国の分裂
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<イスラム王朝の拡散>
■各地のイスラム王朝
9世紀以降、アッバース朝の地方政権は次々と独立し、多数のイスラム国家が誕生しては滅亡し、盛衰を繰り返します。
この頃には以下のような実力者がいました。
○イスラム世界の実力者
- 正統カリフ:ムハンマドの後継者となった第1~4代カリフ
- カリフ:イスラム教スンニ派の最高指導者
- イマーム:イスラム教シーア派の最高指導者
- スルタン:地域の支配者。王
- アミール:軍隊の長。総督
- シャーハンシャー:諸王の王。ペルシアの皇帝
- シャー、パードシャー:ペルシアの王
カリフはイスラム教創始者ムハンマドの後継者であり、神の代理人とされました。
ローマ・カトリックの教皇を思わせますが、この頃のカリフは皇帝のような存在でもあり、政教両面において指導者的な立場にありました。
しかし、カリフの栄光はスンニ派内に留まり、シーア派などはその権威を否定し、やがて自らカリフを名乗る者さえ現れます。
スンニ派内でもやがてカリフは政治をスルタンに任せる形になり、政治力を削られていきます。
今後登場するイスラム王朝をシーア派、スンニ派、民族ごとに分けておきましょう。
オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国のような大国は含めていません。
○シーア派王朝(他はスンニ派)
- イドリース朝
- ファーティマ朝
- ブワイフ朝
○ベルベル人王朝
- イドリース朝
- アグラブ朝
- ムラービト朝
- ムワッヒド朝
○アラブ人王朝
- アッバース朝
- 後ウマイヤ朝
- ナスル朝
○クルド人王朝
- アイユーブ朝
○ペルシア人王朝
- ターヒル朝
- サーマーン朝
- ブワイフ朝
- ゴール朝
○テュルク系(トルコ系)王朝
- マムルーク朝
- セルジューク朝
- ホラズム・シャー朝
- カラ・ハン朝
- ガズナ朝
- デリー・スルタン朝
○モンゴル人王朝
- カラ・キタイ(西遼)
■イベリア半島のイスラム教教勢力
イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガルがある半島)の様子を見てみましょう。
750年にウマイヤ朝はアッバース朝に滅ぼされますが、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がただひとり生き残ります。
イベリア半島まで逃走した後、756年、コルドバ①を首都に後ウマイヤ朝を建国します。
後ウマイヤ朝の王は当初総督を意味するアミールを名乗りましたが、10世紀のアブド・アッラフマーン3世以降はアッバース朝やファーティマ朝に対抗してカリフを名乗りました。
アブド・アッラフマーン3世がコルドバ郊外に築いた宮殿都市がザフラー②です。
一方、キリスト教の西ゴート王国はウマイヤ朝によって711年に滅亡しますが、貴族であるペラーヨが反乱を起こしてアストゥリアス王国(首都カンガス・デ・オニス、後にオビエド③)を建国します。
そしてイスラム教勢力に対するキリスト教勢力の国土回復運動=レコンキスタを開始します。
814年頃にはイエスの十二使徒のひとりであるヤコブ(スペイン語で聖ヤコブ=サンティアゴ)の遺体が発見され、国王アルフォンソ2世はその場所に聖堂(後のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂③)を建設して埋葬し、聖地化と巡礼路⑤⑥の整備を進めました。
サンティアゴ・デ・コンポステーラはやがてヨーロッパ最大の聖地のひとつとなり、ヤコブ信仰はキリスト教勢力の精神的支柱となりました。
アストゥリアス王国は10世紀はじめにアストゥリアス王国、レオン王国、ガリシア王国に分裂し、まもなくアストゥリアス王国はレオン王国に吸収されています。。
後ウマイヤ朝は北からレコンキスタ、南から北アフリカのイスラム教勢力の圧力を受け、後継者争いが起こって1031年に滅亡。
イベリア半島は「タイファ」と呼ばれる小国分裂状態に陥り、この隙を突いてキリスト教勢力はレコンキスタを進め、一方イスラム教勢力も北アフリカに拠点を置くベルベル人のムラービト朝が侵入し、やがてムワッヒド朝と交替してキリスト教勢力との抗争を続けました。
※①世界遺産「コルドバ歴史地区(スペイン)」
②世界遺産「カリフ都市メディナ・アサーラ(スペイン)」
③世界遺産「オビエド歴史地区とアストゥリアス王国の建造物群(スペイン)」
④世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラ[旧市街](スペイン)」
⑤世界遺産「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路:カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群(スペイン)」
⑥世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路(フランス)」
[関連サイト]
■マグリブのイスラム教勢力
モロッコ周辺の勢力の推移。Barghawata=バガワタ、Sijilmāsa=シジルマサ、Idrisid dynasty=イドリース朝、Caliphate of Córdoba=後ウマイヤ朝、Almoravid dynasty=ムラービト朝、Almohad Caliphate=ムワッヒド朝、Marinid dynasty=マリーン朝、Wattasid dynasty=ワッタース朝、Saadi dynasty=サアド朝、Alaouite dynasty=アラウィー朝
この時代、アフリカ北部・リビア以西のマグリブ地方では遊牧民族であるベルベル人が定住生活をはじめ、イスラム教に改宗していきました。
そのためモスクを中心にさまざまな都市を造り、新国家を建設しました。
768年、ベルベル人は現在のモロッコでフェズ①を建設し、789年にイドリース朝を建てます。
また、隣のアルジェリアやチュニジア、リビア周辺に首都カイルアン②やチュニス③を造ってアグラブ朝を建国します。
こうした国々は909年にチュニジアで興ったファーティマ朝により統一されます。
1056年、同じモロッコの地にベルベル人王朝であるムラービト朝が興ると、「神の国」を意味する王都マラケシュ④を建設して遷都。
ファーティマ朝の版図を奪い、一時はガーナ王国を滅ぼして西アフリカにまで迫り、コルドバ⑤やセビリア⑥を征服してイベリア半島にも進出します。
1130年、さらにベルベル人王朝ムワッヒド朝が興ると、1147年にムラービト朝を侵略。
ムワッヒド朝はマラケシュをベースに北アフリカを広く治め、イベリア半島のレコンキスタに対抗するためにヨーロッパにも積極的に進出しました。
ムラービト朝やムワッヒド朝は西アフリカ内部にも進出し、マリ王国のトンブクトゥ⑦やジェンネ⑧といった国々と交易を行いました。
トンブクトゥやジェンネはベルベル人の一派、トゥアレグ人の造った交易拠点で、サハラ砂漠を縦断するサハラ交易で繁栄しました。
※①世界遺産「フェズのメディナ(モロッコ)」
②世界遺産「カイルアン(チュニジア)」
③世界遺産「チュニスのメディナ(チュニジア)」
④世界遺産「マラケシュのメディナ(モロッコ)」
⑤世界遺産「コルドバ歴史地区(スペイン)」
⑥世界遺産「セビリアの大聖堂、アルカサルとインディアス古文書館(スペイン)」
⑦世界遺産「トンブクトゥ(マリ)」
⑧世界遺産「ジェンネ旧市街(マリ)」
[関連サイト]
■ファーティマ朝、アイユーブ朝
ファーティマ朝の版図の推移
909年、チュニス①近くにファーティマ朝が成立します。
イスラム教創始者ムハンマドの娘ファーティマ・アル・ザハラの名を取ったシーア派王朝で、王族はファーティマの血を引くことを宣言し、王はカリフを名乗ってアッバース朝の討伐を目標に掲げました。
こうしてこの時代、アッバース朝、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝と3人のカリフが並び立ちました。
10世紀にはエジプトを占領して北アフリカを統一し、969年には新首都カイロ②を建設。
さらに東征を進め、エルサレム③を落とします。
しかし、1096~1099年の十字軍遠征によってエルサレムはキリスト教徒の手に渡り、さらに周辺にはエルサレム王国やエデッサ伯国といった聖地四国をはじめとするキリスト教諸国が成立。
特にエルサレム王国はたびたびエジプトへ侵入します。
1169年、ファーティマ朝はクルド人のサラディン(サラーフッディーン、サラーフ=アッディーン)を宰相・最高司令官に任命。
1171年にファーティマ朝のカリフが亡くなるとアイユーブ朝が成立し、サラディンはアッバース朝のカリフから支配者・王を意味する「スルタン」の称号を受けると、カリフを廃止してスンニ派国家へと路線を変えます。
シーア派-スンニ派の対立を収め、エジプトを落ち着かせたサラディンは、いよいよキリスト教討伐を開始します。
1187年にエルサレムを奪還。
1189年には西ヨーロッパの3大王、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサ、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世が連合した第3回十字軍を撃破。
サラディンはキリスト教諸国と戦いながら版図を広げ、エジプトからシリアに至る一帯を統一し、十字軍勢力の多くを駆逐しました。
※①世界遺産「チュニスのメディナ(チュニジア)」
②世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
③世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
④世界遺産「古代都市ダマスカス(シリア)」
■マムルーク朝
マムルーク朝の版図の推移
アイユーブ朝は、遊牧民族で騎馬技術にすぐれた「マムルーク」と呼ばれるテュルク系の奴隷を軍隊として組織してキリスト教徒に対抗していました。
第7代スルタン、サーリフはマムルークの妻シャジャル・アドゥルをめとり、寵愛しました。
1250年にサーリフが急死するとシャジャル・アドゥルが史上初の女性スルタンとなり、マムルーク朝がスタートします。
女性であることに対する反発も多かったため、同じマムルークのアイバクと再婚し、スルタンの座を譲りました。
この頃、モンゴル帝国第3代ハン・モンケの命を受けた総司令官フラグ率いる不敗のモンゴル軍が襲来し、アッバース朝のカリフ、ムスタアスィムを殺害して西アジアのほとんどを占領します(アッバース朝の滅亡)。
フラグはダマスカス①、アレッポ②を落とし、エルサレム③とマムルーク朝攻略の準備を進めていましたが、この頃モンケが急死したためタブリーズ④に撤退します。
しかし、フラグの部下キト・プカはそのまま戦いを続け、マムルーク朝と対峙。
1260年、これをアイン・ジャールートの戦いで迎え撃ったのが第4代スルタン・クトゥズとバイバルスで、モンゴル軍の不敗神話を打ち破りました。
この直後、バイバルスはカイロ⑤で第5代スルタンの座に就くと、モンゴルの手から逃れてきたカリフの一族を保護し、叔父をムスタンスィル2世として就任させることでカリフの復権に貢献します。
カリフを断絶から救っただけでなく、聖地メッカとメディナの保護を進め、イスラム圏全域にその名を響かせました。
※①世界遺産「古代都市ダマスカス(シリア)」
②世界遺産「古代都市アレッポ(シリア)」
③世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
④世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)」
⑤世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
[関連サイト]
■アッバース朝カリフの衰退
アッバース朝では次々と地方政権が独立し、政権は力を失っていきます。
それを補うためにテュルク系奴隷兵士マムルークを利用したのはアッバース朝も同様です。
マムルークの力で国を保ってはいましたが、逆にマムルークが勢力を伸ばし、首都バグダード①を荒らし回るほどでした。
836年に第8代カリフ、ムータスィムが首都をサーマッラー②に遷都したのは、マムルークをバグダードから引き離すためともいわれています。
マルウィヤ・ミナレットをはじめとする壮麗な宮殿やモスクを築きましたが50年ほどで打ち捨てられ、再びバグダードに遷都しています。
946年、イランの地に興ったペルシア人によるシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードに入城。
アッバース朝のカリフはブワイフ朝の王ムイッズ・ウッダウラに大アミール(総督)の称号を与え、イラクの統治を任せました。
1038年、テュルク系のトゥグリル・ベグが中央アジアでスンニ派のイスラム王朝セルジューク朝(セルジューク・トルコ)を建国。
西アジア、現在のイランの地を占領すると、シーア派の手からカリフを救うという名目でバグダードへ進出します。
そして1055年にブワイフ朝を倒してバグダードを占領。
カリフは彼にアミールより上の称号であるスルタン(支配者。王)を与え、西アジアの支配者に任じました。
こうしてカリフの力は政教で分離され、政治力をアミールやスルタンに譲り、権威は急速に失われていきました。
※①イラクの世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「考古都市サーマッラー(イラク)」
■セルジューク朝
セルジューク朝の版図の推移
1038年に成立したセルジューク朝は確固たる首都を築かず、宮殿や行政機能を頻繁に移動させていたと考えられています。
首都的な機能を果たした都にはニーシャープール、イスファハン①、メルフ②などが挙げられます。
セルジューク朝はその勢いで西征を進め、第2代スルタン、アルプ・アルスラーンが小アジア(現在のトルコ)に侵入。
ビザンツ帝国と戦い、1071年にマラズギルトの戦いで勝利すると、皇帝ロマノス4世ディオゲネスを捕縛しました。
小アジアの多くを占領するとテュルク系の民族が移住を進め、一帯をイスラム化していきます。
キリスト教徒がカッパドキア③の地下や奇岩に隠れ住み、洞窟教会や地下都市を盛んに建設したのもこの頃です。
セルジューク朝は中央アジアからトルコ、エジプトの手前までを支配し、広大な版図を築きました。
大セルジューク朝(セルジューク帝国)と呼ばれましたが、実質的に内部は分裂していました。
1077年に小アジアに成立したのがルーム・セルジューク朝で、中央アジア西部に成立したのがホラズム・シャー朝です。
結局、大セルジューク朝は1194年にこのホラズム・シャー朝によって滅亡します。
こうしたイスラム教勢力拡大の危機に直面したビザンツ皇帝アレクシオス1世が教皇ウルバヌス2世に援軍の派遣を要請して結成されるのが十字軍です。
1096年に第1回十字軍が派遣されてルーム・セルジューク朝を打ち破りますが、同朝は首都をニカイアからカッパドキアの東に位置するコンヤに遷して難を逃れました。
ルーム・セルジューク朝は1240年代に入るとモンゴル帝国の圧力にさらされ、1243年にキョセ・ダグの戦いに大敗。
モンゴル帝国に服属し、1278年には後継国であるイル・ハン国に従いました。
ルーム・セルジューク朝は各地にベイ(君侯)を君主とするベイリク(君侯国)を配して統治していましたが、モンゴル帝国侵入後の混乱で次第にベイリクが勢力を強めて小アジアは分裂状態に陥ります。
そのひとつが1299年に成立するオスマン侯国(オスマン=ベイ)で、やがてオスマン帝国へと駆け上がります。
最終的に、ルーム・セルジューク朝は1308年に滅亡しました。
※①世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン)」
②世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン)」
③世界遺産「ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩窟群(トルコ)」
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■ホラズム・シャー朝とアッバース朝の滅亡
1077年、セルジューク朝の地方政権が独立してペルシア人スンニ派王朝・ホラズム・シャー朝が誕生します。
初期の首都はクニヤ・ウルゲンチ①で、後にサマルカンド②に遷都しています。
イラン・イラクの地を占領し、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を獲得。
セルジューク朝の版図をそのまま吸収して12~13世紀に一気に勢力を広げますが、ホラズム・シャー朝の滅亡は悲惨なものでした。
13世紀前半にチンギス・ハン率いるモンゴル軍が来襲し、ブハラ③、クニヤ・ウルゲンチ、サマルカンド、ニーシャープール、メルフ④、イスファハン⑤、タブリーズ⑥といった拠点都市を次々と攻略。
いずれの街も攻撃を受けましたが、特にクニヤ・ウルゲンチやサマルカンドなどは跡形もないほど破壊され、犠牲者100万以上ともいわれる史上稀に見る大虐殺が行われました。
こうした悲劇を経てホラズム・シャー朝は1231年に滅亡します。
その後第4代ハン、モンケの命を受けたフラグの軍が来襲し、1258年にバグダード⑦を落とします。
このときも大虐殺を行い、カリフであるムスタアスィムも処刑し、アッバース朝が滅亡します。
※①世界遺産「クニヤ・ウルゲンチ(トルクメニスタン)」
②世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン)」
③世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン)」
④世界遺産「国立歴史文化公園“古代メルフ”(トルクメニスタン)」
⑤世界遺産「イスファハンのイマーム広場(イラン)」
⑥世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)」
⑦イラクの世界遺産暫定リスト記載
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次回はインド、東南アジア、アフリカへのイスラム教の拡散を紹介します。