世界遺産と世界史14.漢と魏晋南北朝
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
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<漢>
漢の版図の推移
■漢の成立
史上はじめて中国統一を成し遂げた秦ですが、戦争や土木工事に駆り出される民衆の負担は重いものでした。
紀元前209年、兵役に向かう途中、事故で期日に間に合わなくなり死刑を覚悟した陳勝と呉広は仲間とともに反乱を起こします。
この反乱(陳勝・呉広の乱)はまもなく鎮圧されますが、楚の項梁が引き継ぎ、反乱は全国に飛び火して混乱を極めました。
秦に対する戦いの中で力を伸ばしたのが項梁の子・項羽、そして劉邦です。
紀元前206年、劉邦が秦の都・咸陽(かんよう)に入ると皇帝・子嬰(しえい)は即座に降伏します。
手柄を取られた項羽は怒り狂いますが、咸陽郊外で酒を酌み交わして和解(鴻門の会)。
項羽は劉邦を漢中に左遷すると子嬰らを殺し、阿房宮と咸陽宮を徹底的に破壊して火を放ちます。
当時は秘境といえるほどの山中にあった漢中の王(漢王)に飛ばされた劉邦は、やがて項羽に対して兵を挙げます。
彭城(ぼうじょう)の戦いをはじめ劉邦はことごとく戦に敗れますが、紀元前203年、ついに垓下(がいか)の戦いに勝利。
項羽は包囲された後(四面楚歌)、自害します。
紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し(以下、高祖)、長安※を都に定めて漢を建てます。
高祖に続く文帝、景帝は内政に力を尽くし、農業を支援したので国は大いに潤いました(文景の治)。
中国王朝に関する豆知識です。
中国では皇家が代わると国号(殷・周・秦・漢のような国名)が変わります。
ですから○○朝というような言い方はされません。
また、「高祖」のような名前は「廟号」と呼ばれます。
死後、宗廟や太廟(いずれも皇帝の祖先の位牌を収める廟)などの廟に載せるための名前で、一般的にはこちらの名前で呼ばれます。
※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
■武帝の外征
内政に憂いがなくなったところで外征に乗り出したのが漢の武帝です。
この時代、朝鮮半島から中央アジアに至る中国の北の広大な領域を匈奴(きょうど)が支配していました。
漢の高祖・劉邦は匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)と戦い、紀元前200年の白登山の戦いで大敗を喫し、匈奴に朝貢する(主君に対して贈り物を贈ること)という屈辱を受けていました。
武帝は匈奴に敗れてバクトリアに移った大月氏(後にクシャーナ朝を建国)に対し、匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぼうと張騫(ちょうけん)を派遣します。
張騫は匈奴に捕らえられて10年以上も彼の地で過ごしますが、機を見て脱出して大月氏へ赴きます。
結局、同盟は得られませんでしたが烏孫や大宛といった西域との交流が進み、その情報は衛青や霍去病(かくきょへい)の匈奴討伐に利用されました。
衛青や霍去病の活躍もあって匈奴を討つと、武帝は内モンゴルやタリム盆地に迫る広大な国土を獲得。
紀元前111年、敦煌をはじめとする河西4郡を設置します。
さらに、同年にベトナムの南越を滅ぼして日南郡等10郡、紀元前108年には朝鮮半島の衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡等4郡を置き、前漢の最大版図を築きました。
■後漢
その後、宦官(かんがん。後宮仕えの去勢された男子)や外戚(がいせき。皇后一族)らが勢力を伸ばす中で、力を握ったのが王家です。
そして西暦8年、外戚・王莽(おうもう)は皇帝から禅譲(ぜんじょう。皇帝位を譲ること)を受け、新を建国します。
国内は混乱し、各地で反乱が相次ぐ中で、漢の劉氏の血を引く劉玄が赤眉の乱を起こします。
王莽は100万を超える兵を率いましたが、23年の昆陽の戦いで劉秀を中心とする赤眉軍に破れ、新は滅亡しました。
代わって帝位に就いたのが劉秀です(以下、光武帝)。
光武帝は都を洛陽①に遷すと漢を再興します(後漢)。
後漢の時代、版図を大幅に西に広げたのが班超(はんちょう)です。
班超は1世紀に活躍した後漢の軍人で、西域都護として長年敦煌より西に在住して睨みを利かせました(都護は征服地に置かれた都護府の長)。
彼の時代に後漢は敦煌からはるか西、タリム盆地・タクラマカン砂漠を越え、クシャーナ朝の版図にまで迫りました。
これにより、クシャーナ朝の仏教文化が直接中国に伝わることになりました。
※世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
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<魏晋南北朝時代>
魏晋南北朝時代の解説動画(中国語)
■三国時代、五胡十六国時代
3世紀の黄巾の乱を皮切りに後漢は群雄割拠の時代に入り、魏・呉・蜀に分裂します(三国時代)。
周辺でも遊牧民族である匈奴・羯(けつ)・鮮卑(せんぴ)・氐(てい)・羌(きょう)の五胡が勢力を強め、中国は混乱を極めました(五胡十六国時代)。
後漢末の三国時代から隋の統一までを魏晋南北朝時代と呼び、おおよそ三国時代・晋・五胡十六国時代・南北朝時代に分けられます。
魏の曹丕(文帝)は220年、皇帝・献帝から禅譲を受けることで後漢は滅亡。
蜀は劉備、呉は孫権が帝位に就いて三国鼎立が完成します。
魏で曹氏に代わって実権を握った司馬氏が263年に蜀を滅ぼすと、265年に司馬炎(武帝)が魏の元帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国。
280年に呉を滅ぼして中華を統一します。
しかしながら各地の王による反乱=八王の乱が起き、さらに匈奴が洛陽※に侵入するとその晋も滅亡します。
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■南北朝時代
この後、北部と南部それぞれに皇帝が誕生する南北朝時代を迎えます。
まずは北朝。
中国北部は遊牧民族が入り乱れる五胡十六国時代を迎えますが、その中で力を増したのが北魏です。
386年、鮮卑の拓跋珪(たくばつけい)が北魏を建てて帝位に就き(道武帝)、太武帝が北部を統一。
太武帝の時代に道教が、以降は仏教が保護されて、道教・仏教美術が大いに開花しました。
しかしまもなく北魏は東西に分裂し、東魏→北斉、西魏→北周と移り変わります。
南朝では317年に晋の司馬氏の血を継ぐ司馬睿(しばえい)が皇帝に即位します(元帝)。
そして国土を南に移し、首都を建康(現在の南京)に置いて晋を復興(東晋)。
しかしこれも長続きせず、同じ建康を首都に宋→斉→梁→陳と推移します。
こうした南北朝の混乱は581年、楊堅が隋を建てて収められます。
■仏教の中国伝来
魏晋南北朝の時代は混乱の時代でしたが、あらゆる民族が入り乱れた多文化の時代でもありました。
クシャーナ朝のもとで発展した大乗仏教はシルクロードを経由して敦煌に入り、漢代に中国へもたらされました。
漢では儒教を保護していたこともあって受け入れられませんでしたが、遊牧民族、特に4世紀に北魏の庇護を受けて全土に広がりました。
北魏の文成帝は仏教を庇護し、曇曜(どんよう)に雲崗石窟①を造らせました。
孝文帝が都を洛陽に遷すと今度は龍門石窟②を造営しました。
また、敦煌にある莫高窟③には北魏から元代までおよそ1,000年の間に造られた膨大な数の石窟寺院と仏像・壁画が残されています。
これらは中国3大石窟といわれ、すべて世界遺産に登録されています。
五台山④、峨眉山⑤、九華山、普陀山の仏教4大名山が整備されたのもこの頃です。
また、東晋の時代には慧遠(えおん)が廬山⑥(ろざん)で浄土教を体系化しています。
※①世界遺産「雲崗石窟(中国)」
②世界遺産「龍門石窟(中国)」
③世界遺産「莫高窟(中国)」
④世界遺産「五台山(中国)」
⑤世界遺産「峨眉山と楽山大仏(中国)」
⑥世界遺産「廬山国立公園(中国)」
[関連サイト]
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次回は東南アジア・東アジア、アフリカの古代を紹介します。