世界遺産と世界史11.古代ヨーロッパ文明
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<ヨーロッパの新石器時代>
■ロックアート、洞窟壁画
古代、ヨーロッパは深い森林に覆われていました。
ギリシア本土やエーゲ海の島々を旅するとその禿げ山ぶりに驚きますが、地中海沿岸のあのような荒野でさえ、古代ギリシア以前には深い森に覆われていたといいます。
そしてヨーロッパではネアンデルタール人が絶滅した一方で、人類はヨーロッパで広く活動し、さまざまなロックアートや洞窟壁画を残しました。
○ロックアートの種類
- ペトログリフ:岩に刻まれた線刻・石彫
- ペトログラフ:岩に塗られた岩絵・壁画
○ヨーロッパの岩絵や洞窟壁画など新石器時代の世界遺産の例
- アルタのロックアート(ノルウェー)
- タヌムの線刻画群(スウェーデン)
- スピエンヌの新石器時代の火打石の鉱山発掘地[モンス](ベルギー)
- ヴェゼール渓谷の先史遺跡群と装飾洞窟群(フランス)
- ショーヴェ=ポン・ダルク洞窟として知られるアルデシュ県ポン・ダルクの装飾洞窟(フランス)
- ヴァルカモニカの岩絵群(イタリア)
- イベリア半島の地中海沿岸のロックアート(スペイン)
- コア渓谷とシエガ・ヴェルデの先史時代のロックアート遺跡群(スペイン/ポルトガル共通)
- アルタミラ洞窟と北スペインの旧石器時代の洞窟画(スペイン)
- チャタルホユックの新石器時代遺跡(トルコ)
- アルプス山系の先史時代杭上住居跡群(イタリア/オーストリア/スイス/スロベニア/ドイツ/フランス共通)
- エネディ山地:自然及び文化的景観(イタリア)
■ヨーロッパ巨石文化
紀元前6000~前3000年頃、磨製石器や土器が登場し、農耕・牧畜が伝わって新石器時代がはじまります。
そして紀元前5000~前1000年前後、ヨーロッパ全域で「メガリス(巨石記念物)」が盛んに造られるようになりました。
ただ、こうした巨石文化を築いた民族についてはほとんどわかっていません。
○メガリスの種類
- メンヒル:立石。独立した石を立てたもの
- アリニュマン:列石。メンヒルを直線上に並べたもの
- ストーン・サークル:環状列石。円形に並べたメンヒル
- ヘンジ:環状に並べられた大規模で複合的な工作物
- エンクロージャー:石をドーナツ状に積み上げた大型の工作物
- ドルメン:支石墓。平らな天井石を複数の支石で支えた巨石墓
- 羨道墳:玄室への道=羨道(せんどう)のある巨石墓や石室墓
- 巨石神殿:より複雑な構造を持つ宗教的なメガリス
メガリスの宝庫といえるのがオークニー諸島①です。
紀元前3000~前2000年頃に造られた多数の遺跡があり、12本のメンヒルからなるストーンズ・オブ・ステネス、直径104mのストーン・サークル=リング・オブ・ブロッガー、日本の円墳を思わせる羨道墳メイズハウ、石造家屋スカラ・ブレイなどで構成されています。
ボイン渓谷②には40以上の羨道墳が集中しています。
いずれも紀元前3000年前後に造られたと見られており、特にニューグレンジ、ノウス、ドウスの3大石室墓が有名です。
世界でもっとも有名なメガリスがストーンヘンジ③です。
この地は紀元前3000~前1000年の長きにわたって祀られた聖地で、現在見られる石のヘンジ以前にも木のヘンジや土のヘンジが築かれていました。
※①世界遺産「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地(イギリス)」
②世界遺産「ブルー・ナ・ボーニャ-ボイン渓谷の考古遺跡群(アイルランド)」
③世界遺産「ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群(イギリス)」
[関連記事&サイト]
○上記以外の巨石文化の例
- ハル・サフリエニ地下墳墓(マルタ)
- セント・キルダ(イギリス)
- エヴォラ歴史地区(ポルトガル)
- サンマルラハデンマキの青銅器時代の埋葬地(フィンランド)
- エーランド島南部の農業景観(スウェーデン)
- ケルナヴェの考古遺跡[ケルナヴェ文化保護区](リトアニア)
- アンテケラのドルメン遺跡(スペイン)
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<エーゲ文明>
■トロイア、ミケーネ、クレタ文明
古代オリエントで生まれた青銅器文明は地中海を通ってヨーロッパ沿岸部に伝えられ、特にエーゲ海沿岸で花開きました。
エーゲ文明です。
紀元前2500~前1200年頃、小アジア(アナトリア半島。現在のトルコ)西部に栄えたのがトロイア文明です。
トロイア(イリオス)①は1,000年以上も存続した都市遺跡で、その遺構はなんと9層にわたります。
当初はオリエントから伝わったオリーブやブドウの栽培、羊の牧畜によって栄え、ミケーネ文明成立後はその影響を強く受けました。
紀元前2000~前1400年頃、クレタ島で繁栄したのがクレタ文明(ミノア文明)です。
国王が大きな力を持っていたようで、クノッソス遺跡②には巨大な宮殿跡が残されています。
その部屋数は数百を数え、あまりに巨大で複雑であることからギリシア人たちはこの遺跡を迷宮=ラビリントス(英語のラビリンスの語源)であると考え、人身牛頭の怪物ミノタウロスがこのラビリントスに封じ込められているという伝説を残しました。
紀元前1600~前1200年頃、ペロポネソス半島南端部で成立したのがミケーネ文明です。
ギリシア人たちは半島にミケーネ③やティリンス③といった城郭都市を造り、それぞれ都市国家として繁栄しました。
ギリシアのアテネ④に最初に女神アテナの神殿を造ったのもミケーネです。
紀元前1400~前1200年頃、これらの文明はドーリア人やアカイア人といったギリシア諸民族、あるいは海の民によって滅亡します(紀元前1200年のカタストロフ)。
※①世界遺産「トロイの考古遺跡(トルコ)」
②世界遺産暫定リスト記載
③世界遺産「ミケーネとティリンスの考古遺跡群(ギリシア)」
④世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
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<ギリシア文明>
■ポリス
紀元前8世紀。
バルカン半島やその下に突き出したペロポネソス半島、小アジアのイオニア地方をはじめ、エーゲ海沿岸部にやってきたギリシア人たちは各地に「ポリス」と呼ばれる都市を築きます。
アテネ①、スパルタ、テーベといった都市国家がその代表で、こうした都市は城壁を築いて町を囲い(城郭都市)、中央の丘=アクロポリスに神殿を築き、その周囲の市場=アゴラに集まって皆で政治を行いました。
諸ポリスはオリーブやブドウの果樹栽培や銀の採掘によって力を増していきました。
やがて諸都市は地中海に漕ぎ出し、あちらこちらに植民都市を建設し、フェニキアとともに地中海貿易を支配します。
ギリシア植民都市として発展した都市でもっとも有名なのがビザンチオン(後のコンスタンティノープル、現在イスタンブール②)やネアポリス(後のナポリ③)です。
※①世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
②世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)
③世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
[関連サイト]
■ペルシア戦争
エーゲ海を中心に地中海の支配を固めたギリシア人たち。
しかし、ライバルであるフェニキアを傘下に収め、全オリエントを統一した超大国アケメネス朝ペルシア(ペルシア帝国)は小アジア(アナトリア半島。現在のトルコ)を攻略し、ヨーロッパの目前まで迫っていました。
紀元前490年、ペルシア軍が船でバルカン半島に到達すると、2万~3万の兵がマラトンに上陸。
アテネやプラタイアを中心とする約1万のギリシア連合軍が迎え撃ちます。
連合軍は司令官ミルティアデスが重装歩兵(金属製の武具を身につけた市民部隊)にファランクスと呼ばれる陣を組ませて突撃し、ペルシア軍を打ち破ります(マラトンの戦い)。
この勝利をアテネに伝えるために一兵士が走りつづけ、アテネの城門近くで「我ら勝てり!」と叫ぶと絶命したといいます。
マラソン誕生の伝説です。
ペルシア皇帝クセルクセス1世は紀元前480年、自ら前回の数十倍の軍勢を率いて再来します。
ギリシアにとって時期が悪く、諸ポリスはオリュンピア大祭(古代オリンピック)やその他の祭で派兵できません。
大祭中の戦争や争いは禁じられており(エケケイリアの理念)、オリンピックが「平和の祭典」と呼ばれる由縁です。
この結果、出陣したのはスパルタ王レオニダス率いるたった300人の重装歩兵のみだったと伝わっています。
テルモピレーの戦いで、アケメネス朝の戦力5万~50万に対し、ギリシア連合軍は援軍を含めても1万に満たなかったといわれます(諸説あり)。
ザック・スナイダー監督『300 スリーハンドレッド』予告編。テルモピレーの戦いを描いた作品で、「100万対300」というコピーで話題になりました
テルモピレーは山と海に挟まれた非常に狭い道。
レオニダスはここに重装歩兵の陣を敷くと、数日間ではありましたが見事にペルシア軍の進軍を阻止します。
しかしながら最終的に連合軍は打ち破られ、ほぼ全員が戦死します。
このあと、ペルシア軍はポリスを破壊しながら進軍を続け、ついにアテネ※も占領・破壊されてしまいます。
西に逃げていた連合軍はアテネの軍人テミストクレスの進言もあってサラミス島近くの海でペルシア軍と対峙。
そしてペルシア艦隊を狭い水道に誘い込んで操船不能にした後、アテネ海軍を中心とする連合艦隊がこれを打ち破ります(紀元前480年、サラミス海戦)。
クセルクセス1世はこの敗戦で戦意を喪失し、マケドニオスに後を任せて帰国してしまいます。
紀元前479年。残されたペルシア軍はテーベに拠点を置き、戦いを繰り返します。
しかし、連合軍はついにプラタイアの戦いでペルシア軍に勝利。
連合軍はテーベを占領し、ペルシア軍をバルカン半島から追い出すことに成功しました。
※世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
[関連サイト]
■デロス同盟、ペロポネソス同盟
ペルシア戦争に勝利した諸ポリスは、サラミス海戦等で絶大な力を見せつけたアテネを盟主に、ペルシア軍の再来に備えてデロス同盟を結成します。
そしてアテネのペリクレスはポリスから集めた資金を投入して街の再興を図ります。
パルテノン神殿をはじめアテネのアクロポリス※で目にすることができる多くの建造物群はこのとき建てられたものです。
この時代をアテネの黄金時代、「ペリクレス時代」と呼びます。
アテネはデロス同盟の盟主として繁栄しますが、その繁栄は他のポリスから集められた資金を流用したもの。
反発も大きく、スパルタはコリントスなどとともにペロポネソス同盟を結成し、対決姿勢を強めました。
紀元前431年、ペロポネソス戦争によって両軍が対立。
スパルタはアケメネス朝の援助を得る一方で、アテネはペリクレスが病死してしまいます。
結局紀元前404年、アテネの降伏をもってスパルタの勝利で終了。
この後、テーベの繁栄等があるものの、ギリシアではポリス各国の対立が続いて次第に疲弊していきます。
※世界遺産「アテネのアクロポリス(ギリシア)」
[関連サイト]
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次回はアレクサンドロス3世の東征とヘレニズム時代を紹介します。