世界遺産と世界史50.ヴェルサイユ・ワシントン体制
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
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<第1次世界大戦の戦後体制>
■ヴェルサイユ体制
1919年1月より、第1次世界大戦の講和会議としてパリ講和会議が開催されました。
ベースとなったのはウィルソンが1918年に発表した十四か条の平和原則で、これによりヨーロッパの民族自決(独立)が進められる一方で、植民地の自決は認められませんでした。
ドイツに対してはフランスの強い要望もあり、ヴェルサイユ条約で非常に厳しい条件を突きつけました。
その結果、ドイツはすべての海外植民地を手放し、1,320億マルク(約40兆5,000億円)という天文学的な賠償金が科されたほか、軍事的には徴兵制や戦闘機・潜水艦等の保有が禁止され、主力艦トン数も制限、さらにルールやラインラント地方での軍備が禁止されました。
そして戦後、以下の独立国が誕生しています。
○誕生した独立国
- ロシアから独立:フィンランド共和国、エストニア共和国、ラトビア共和国、リトアニア共和国、ポーランド共和国
- オーストリア=ハンガリーから独立:オーストリア共和国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国、セルブ=クロアート=スロヴェーン王国
オーストリア=ハンガリーはウィーン①を首都とするオーストリアとブダペスト②を首都とするハンガリーに引き裂かれたうえに、3/4の土地を割譲されました。
また、ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家)の皇帝カール1世はスイスに亡命し、オーストリアは君主を置かない共和政に移行しました。
オスマン帝国はバルカン半島の一部とアナトリア半島のイズミール地方をギリシアに割譲し、レヴァント地方(現在のシリア、レバノン、イスラエル、パレスチナ、ヨルダン周辺)については多くが国際連盟の管理下に置かれ、シリアはフランス、イラクやトランスヨルダン、パレスチナはイギリスの委任統治となりました。
ポーランドは独立が認められ、バルト海への出口としてポーランド回廊と自由市ダンツィヒ(グダニスク)の管理権を手にしました。
国家主席となったピウスツキは1920年にソビエトに侵攻してウクライナ西部やベラルーシの一部を獲得し、圧倒的な支持を得て軍事独裁を強めていきます。
また、スイスのジュネーブに国際連盟(LN)が創設されました。
当初は42か国が参加し、イギリス、フランス、イタリア、日本が常任理事国となりました。
ドイツやオスマン帝国、ソビエトは参加が認められず(ドイツは1926年、ソ連が1934年に加盟)、アメリカは提唱国であったにもかかわらずモンロー主義を掲げて参加しませんでした。
パリ講和会議以降に成立したこうした新しい国際秩序はヴェルサイユ体制と呼ばれています。
※①世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
②世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り(ハンガリー)」
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■ワシントン体制
国際連盟にアメリカが参加していなかったため、1921~22年にアメリカ大統領ハーディングの提唱で9大国(米・英・仏・伊・オランダ・ポルトガル・ベルギー・中・日)を招集してワシントン会議が開催されました。
この会議で海軍軍備制限条約、九か国条約、四か国条約が締結されています。
○ワシントン会議で締結された条約
- 海軍軍備制限条約:主力艦保有トン数比を米:英:日:仏:伊で5:5:3:1.67:1.67とする
- 九か国条約:中国の領土保全・主権尊重の承認(日本がドイツから奪った膠州湾等の中国返還)
- 四か国条約:太平洋領土の現状維持、日英同盟の破棄
こうしてワシントン会議は日本の中国・太平洋への進出を牽制するものとなりました。
ワシントン会議による国際秩序をワシントン体制と呼び、ヴェルサイユ体制と両輪となって戦後を支えました。
■オスマン帝国の滅亡とトルコ革命
オスマン帝国は、同国との講和条約であるセーヴル条約によって多くの土地を奪われました。
大戦で活躍したムスタファ・ケマルは政府の弱腰を非難し、1920年にトルコ大国民議会と国民軍を組織してアンカラ政府を樹立して帝国政府と対立します。
この混乱を見たギリシアは、大戦後にギリシア領となったアナトリア半島のイズミール地方に軍を展開。
ギリシア=トルコ戦争(1919~22年)が勃発し、帝国政府は苦戦を強いられます。
しかし、ムスタファ・ケマル率いる国民軍の活躍で1922年にイズミールを奪回し、ギリシア軍を撤退に追い込みました。
これにより国民の圧倒的な支持を得たムスタファ・ケマルは同年、イスタンブール①に入ってスルタン制を廃止。
こうしてオスマン帝国が滅亡します。
そして連合国との間に新たにローザンヌ条約を結んでイズミールやヨーロッパ・バルカン半島のトラキア(アナトリア半島と隣接するバルカン半島南東部)などを奪還して関税自主権を回復しました。
1923年にトルコ共和国が成立すると、トルコ大国民議会は大統領にムスタファ・ケマルを選出します。
翌年、共和国憲法を制定して議会制・主権在民・女性参政権の導入などを行い、カリフ制も廃止されたことで政教分離が実現しました(トルコ革命)。
これにより、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国という4大帝国はすべて滅亡しました。
※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
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■ワイマール共和国と不戦条約
ドイツでは1919年、ワイマール①②で開催された国民議会で社会民主党が連立政府を形成し、同党のエーベルトが大統領に選出されました。
7月に民主的な新憲法=ワイマール憲法を制定し、ワイマール共和国(1919~33年)が成立。
ただ、ワイマール憲法には大統領の緊急命令権(憲法を停止して緊急手段をとる権利)や議会解散権が定められており、これが後にヒトラーによる独裁を可能にしました。
1923年、ドイツの賠償金支払いが滞るとフランスとベルギーが炭田や工業地帯が集まるルール地方を占領。
ドイツの生産力は大幅に低下し、ドイツ・マルクが崩壊して一時は1ドル=4兆2,000億マルクというハイパー・インフレに見舞われます。
この危機に対し、シュトレーゼマン首相はレンテンマルクを発行し、1兆マルクを1レンテンマルクとすることでインフレを抑えることに成功しました。
フランスのルール占領に対して政府は生産を控えるなどの消極策しか採りませんでした。
これに対してナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)を率いるヒトラーはバイエルンのミュンヘンを拠点にクーデターを起こし、打倒ワイマール政府を掲げてベルリン③④⑤に進軍します(ミュンヘン一揆)。
しかし、支持を得ることができずにヒトラーは捕らえられ、ナチ党は政治活動を禁じられました。
シュトレーゼマンはその後外相として国際協調外交を展開。
めどが立たなかった賠償金支払いに対しても、賠償金の減額とアメリカ資本の注入による復興を採用し(1924年、ドーズ案)、賠償金の削減と返済期限の延長を実現して見通しを立てました(1929年、ヤング案)。
これらを受けてフランス、ベルギーもルール地方から撤退しています。
1925年には英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7か国でロカルノ条約を締結し、ドイツとフランス、ベルギー国境の現状維持や不可侵、ラインラント(ドイツ北西部、ライン川中下流域のベルギー国境付近)の非武装化などを決定。
ドイツの孤立は解消され、翌年、国際連盟へ加盟しています。
1928年、フランスのブリアンとアメリカのケロッグ国務長官の提唱でドイツや日本、ソ連を含む15か国(後に63か国)が不戦条約を締結。
紛争解決のための手段として戦争を放棄することを宣言したした。
※①世界遺産「ワイマール、デッサウ及びベルナウのバウハウスとその関連遺産群(ドイツ)」
②世界遺産「古典主義の都ワイマール(ドイツ)」
③世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
④世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ)」
⑤世界遺産「ベルリンのモダニズム集合住宅群(ドイツ)」
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■イタリア・ファシスト党の台頭
イタリアはオーストリアとサン=ジェルマン条約を結んでチロルやトリエステといった未回収のイタリアを回収することに成功しましたが、戦勝国として他に割譲地がなく、不満がくすぶっていました。
インフレにも見舞われて人々の生活が困窮し、各地でデモやストライキが起き、政府に対する不満が募りました。
この時期に勢力を伸ばしたのがムッソリーニのファシスト党(1921年までは戦闘ファッシ)です。
ファシスト党は個人の利益よりも全体の利益を優先し、国家が国民を統制して強力な国家統合を図るべきであるという全体主義を掲げ、愛国主義的な主張を前面に押し出しました。
これをブルジョワ層(中産階級)や貧困層が強く支持しました。
1922年、ファシスト党は数万人を動員してローマ①進軍を行い、これを見た国王はムッソリーニを首相に任じて政権を譲渡します。
ムッソリーニは当初連立内閣を組織していましたが、次第に選挙法を改正し、暴力や脅迫を用いて独裁色を強化。
1925年に議会を解散して独裁を宣言し、翌年には他の政党を解散させて一党独裁体制を確立しました。
そして外征に乗り出して1924年にバルカン半島の付け根に位置するフィウメ(リエカ)を併合し、1926年にアルバニアを保護国化。
一方で、断絶していた教皇庁と1929年にラテラノ条約を結んでバチカン市国②を承認し、関係を修復しました。
ムッソリーニがはじめたような、個人の自由や人権よりも国家を優先して議会などの民主的プロセスを否定し、対外的に侵略的な政策を採る専制・独裁的な政治理念を「ファシズム」と呼びます。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
[関連サイト]
■ソ連・スターリンの登場
1924年にレーニンが死去すると後継者争いが勃発します。
最有力と見られていたトロツキーは世界革命論を掲げて資本主義諸国における社会主義革命を期待していましたが、結局革命が広がることはありませんでした。
一方、スターリンは自国だけで社会主義が成立するという一国社会主義論を提唱。
この政争にスターリンが勝利するとトロツキーを追放して実権を握りました。
スターリンは新経済政策ネップに代えてコルホーズ(農民による共同経営の集団農場)やソフホーズ(モデルとなる国営農場)を設置して農業を組織化し、重工業を推進する第1次五か年計画を実施。
集団化に抵抗する農民を逮捕し、強制供出により多数の餓死者を出しましたが、ともかく社会主義化と工業化を進めました。
■覇権国家アメリカ
戦後、アメリカは国際連盟の成立やドイツの賠償金問題で主導的な役割を果たしながらも孤立主義(モンロー主義)が復活し、ヴェルサイユ条約の批准を行わず、国際連盟にも参加しませんでした。
経済的には、大戦中に貿易や借款(公的融資。戦時国債)によって莫大な利益を上げ、債務国から一気に債権国へ転換。
ロンドンのシティに代わってニューヨークのウォール街が国際金融市場の中心に躍り出ました。
ドイツなどヨーロッパの低迷によりアメリカの工業生産は世界の4割に達し、金についても4割以上を独占しました。
こうしたアメリカの資金は連合国のイギリスやフランスはもちろん、ドイツの経済復興をも支えました。
アメリカは1920代に「狂騒の20年代」あるいは「黄金の20年代」と呼ばれるほどに繁栄し、自家用車や洗濯機・冷蔵庫等の家電が普及し、大量生産・大量消費の現代型生活様式が確立されました。
* * *
<中国の統一運動>
■三・一運動と五・四運動
1911年の辛亥革命で清が倒れて中華民国に移行したものの、皇帝が大総統に置き換わっただけで民主的な近代国家に生まれ変わることはできませんでした。
国内では複数の勢力が割拠し、列強の外圧も受けて政権は安定しませんでした。
1914年に第1次世界大戦が勃発してから日本はドイツに宣戦布告し、ドイツの租借地である膠州湾(こうしゅうわん)の青島(チンタオ)やミクロネシアの島々を占領しました。
そして1915年にドイツ利権の継承などを求めて中華民国に二十一か条の要求を突きつけ、この多くを認めさせました。
こうした日本に対し、朝鮮半島や中国で数々の反対運動が巻き起こりました。
朝鮮半島に関して、1919年3月1日、ウィルソンの「十四か条の平和原則」で掲げられた民族自決を実現するため、パリ講和会議に乗り込んで日本からの独立を宣言しようとした朝鮮人の一団が逮捕されました。
これに反発してソウルのパゴダ公園で独立万歳を叫ぶデモが起こり、朝鮮半島各地へ飛び火。
のべ100万人を超える大規模な独立運動に発展しました(三・一運動)。
朝鮮総督府は軍と警察を動員してデモを鎮圧しますが、上海に亡命政府として大韓民国臨時政府が結成され、初代大統領に李承晩(イ・スンマン)が就任しました。
朝鮮総督府は1910年の韓国併合時より軍の指揮下にあって武断政治を敷いていましたが、これ以降、朝鮮人の地方官を採用し、出版や集会の自由を一部認めるなど軍政を緩めて文治政治に転換していきます。
中国では1919年のパリ講和会議で二十一か条の要求の取り消しを求めましたが退けられ、デモや日本製品のボイコット、ストライキなどが行われ、各地に拡大しました(五・四運動)。
■第1次国共合作
国民党は1913年に解散しましたが、国民党勢力を結集して秘密結社・中華革命党が結成され、1919年に中国国民党となって孫文が総理に就任します。
1924年には共産党員の入党を認め、統一戦線による北京軍閥政権と列強の打倒を打ち出しました(第1次国共合作)。
しかし、孫文は1925年3月に病死してしまいます。
1925年5月、上海の紡績工場でストライキが起こり、日本人の責任者が中国人労働者を射殺する事件が起こります。
5月30日に青島でも同様の事件が起こると抗議運動が起こり、上海に飛び火。
ストライキは全国に広がり、日本やアメリカ、イギリス、イタリアが弾圧に回ります(五・三〇運動)。
ナショナリズムの高揚を確認した中国国民党は同年7月に広州で広東国民政府(主席・汪兆銘/おうちょうめい)を樹立。
翌1926年、蒋介石率いる国民政府軍は北京政権の打倒を目標に北伐を開始し、1927年に拠点を武漢に遷し(武漢国民政府)、まもなく南京・上海の占領に成功します。
この頃、国民政府の間でも対立が表面化していました。
共産党を中心とした汪兆銘ら左派(改革を求める革新派)は大衆運動の拡大や反帝国主義の拡大を主張。
一方、蒋介石ら右派(現状維持を掲げる保守派)は浙江(せっこう)財閥や列強の支持を得ており、共産党の資本主義批判や帝国主義批判が自らに向かうことを恐れていました。
このため右派は共産党排除の方向に舵を切ります。
■国民政府の中国統一
上海では国民政府軍が到着する前に共産党の周恩来らの支援を受けて労働者が蜂起し、臨時政府を建てていました。
1927年4月、蒋介石はこの臨時政府を攻撃して共産党を上海から排除(上海クーデター)。
南京国民政府を樹立して主席に就任すると、広州や北京でも共産党の弾圧を行い、李大釗らを殺害します。
こうして第1次国共合作は崩壊。
武漢国民政府でも右派が勢力を広げ、南京国民政府と統合されました。
そして1928年4月、蒋介石は北伐を再開します。
この頃、日本は北京の北東、満州の地で勢力を広げようとしていました。
満州の実力者である奉天の軍閥・張作霖(ちょうさくりん)の協力を得ようと画策しますが、張はこれに応じません。
そこで張が北伐軍と戦い、北京に引き上げる道中、満州に投入されていた日本の関東軍が彼の乗る列車を爆破して殺害します(張作霖爆殺事件)。
これに対して息子・張学良は軍閥を継いで蒋介石と提携。
国民政府の北京入城を認めて抗日戦線を統一しました。
これにより、国民政府による中国統一が一応は成功を収めました。
上海クーデター以降、中国国民党による弾圧を受けた共産党は大きな打撃を受け、農村や辺境に拠点を移して再起を図ります。
そして江西省の井崗山(せいこうざん)では毛沢東(もうたくとう)が紅軍を組織し、勢力を広げていました。
1931年、毛沢東はソ連の支援を受けて瑞金(ずいきん)で中華ソビエト共和国臨時政府を建てて主席に就任。
蒋介石は国民政府軍を送って共産党討伐に乗り出します。
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<インドの独立運動>
リチャード・アッテンボロー監督『ガンジー』予告編。マハトマ・ガンディーの半生を描いた第55回アカデミー賞作品賞受賞作
■インドの反英闘争
第1次世界大戦において、イギリスはイギリス領インド帝国内の人々に対し、自治を約束する代わりに戦費と兵の協力を求め、多数のインド兵が西部戦線※などに投入されました。
そして民族自決の求めに応じて1919年にインド統治法を制定しますが、中央政府の自治は認められず、州など地方に一定の自治を認めるにすぎませんでした。
同時に制定されたローラット法はインド総督に逮捕状なしでの逮捕や裁判なしでの投獄を認めるもので、民族自決の理念と反対にイギリスの支配体制を強化するものでした。
同年、パンジャーブ地方のアムリトサルでローラット法に反発するデモが起こり、イギリス軍がこれに発砲(アムリトサル事件)。
千人を超える死傷者を出し、インド全域で反英運動が激化しました。
この時期、非暴力・不服従の反英運動を掲げたのがマハトマ・ガンディーです。
ガンディーはローラット法の制定を機に非暴力・不服従を理念とするサティヤーグラハ(真理の把握)運動を始動。
アムリトサル事件が起こるとインド国民会議でイギリスに対するあらゆる非協力を決定し、全国規模で派兵や政府行事の拒否、イギリス製品の不買、裁判のボイコットなどを行いました(非協力運動)。
この頃、イスラム教徒の間ではオスマン帝国のカリフ(スンニ派のイスラム教最高指導者)の地位を守るためにヒラーファト運動が広がっていました。
オスマン帝国が第1次世界大戦に敗れ、スルタン=カリフ制が崩れてカリフの権威が失墜したのはイギリスの仕業であるとして反英運動に発展。
ガンディーが協力を表明したことからヒラーファト運動はヒンドゥー教徒にも広まり、一方ヒンドゥー教徒を主体としたインド国民会議の非協力運動にもイスラム教徒が参加し、両宗教が結束して運動を進めました。
しかし運動は次第に加熱し、1922年に農民暴動が起こって警察官を殺害すると、ガンディーが運動の中止を指示。
まもなくガンディーは逮捕・投獄されてしまいます。
これで運動方針に混乱が生じてヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立が表面化。
さらに1922年にはトルコでスルタン制が廃止されてオスマン帝国が滅亡し、1924年にはカリフ制も廃止されためヒラーファト運動は消滅しました。
※世界遺産「第1次世界大戦[西部戦線]の葬祭と記憶の地(フランス/ベルギー共通)」
■ヒンドゥー・イスラムの対立
1927年、インド統治法改正のための憲政改革調査委員会が開かれましたが、インド人が含まれていなかったことから再び反英運動が高揚。
インド総督はインドを自治領にすることを約束しましたが、具体的な提案はありませんでした。
ガンディーは復帰するとこれらの意見をとりまとめ、1929年にラホール※で開催された国民会議派の大会で急進派のネルーらの意見を採用して完全独立(プルーナ・スワラージ)を目標とすることを決議します。
独立運動の高まりを警戒したインド総督アーウィンは1830~32年にかけてイギリスで円卓会議を開催。
第2回円卓会議ではインド国民会議の代表として招待されたガンディーがインド全体の完全な自治を要求しますが、イスラム教徒は親イギリス的な態度を示して分離選挙を求めるなど意見がまとまらず、合意に至ることはありませんでした。
1935年、イギリスは新インド統治法を制定。
州の自治は大幅に認めましたが、イギリスがインド統治を行う内容であることに変わりはありませんでした。
1937年、この法の下で州選挙が行われるとインド国民会議派が多くの州で第1党となりましたが、この結果を受けてイスラム教徒は危機感を覚え、対立は深刻化しました。
全インド=ムスリム連盟はこの頃からイスラム教徒の独立国家創設を目標に掲げ、ジンナーらは1940年のラホール大会でイスラム国家パキスタンの建国を決議しました(パキスタン決議/ラホール決議)。
※世界遺産「ラホールの城塞とシャーリマール庭園(パキスタン)」
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次回はファシズムと世界恐慌を紹介します。