世界遺産と世界史44.ロシア・イタリア・ドイツの飛躍
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<ロシアの近代化>
■不凍港を求めて
ロシアは広大な版図を得ていましたが、海岸線の多くは北極海沿いにあり、冬は凍結するため港として使用することができません。
このため1年中港として活用できる不凍港、特に大西洋に出ることができる不凍港が何より必要とされました。
そこで目をつけたのが地中海を通じて大西洋につながる黒海です。
18世紀後半、ロシア皇帝エカチェリーナ2世はオスマン帝国の保護下で黒海北部を治めていたクリミア・ハン国を併合し、クリミア半島を獲得。
アレクサンドル1世はギリシア独立戦争(1821~29年)に介入し、オスマン帝国&エジプトと、英仏露で争われたナヴァリノの海戦に勝利してアドリアノープル条約で黒海北岸を獲得しました。
クリミア半島の港はたしかに不凍港でしたが、地中海に出るにはオスマン帝国の首都イスタンブール※を横切るボスポラス海峡やその西のダーダネルス海峡という細い海峡を通らなければなりません。
ロシアは1829年にオスマン帝国から商船の通航権を得てはいましたが、両海峡をオスマン帝国が押さえている限り、ロシアは自由な港を得たとはいいがたい状態でした。
※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)
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■エジプト=トルコ戦争
この頃、オスマン帝国と対立を深めていたのがエジプトで、エジプトをリードしていたのがムハンマド・アリーです。
ムハンマド・アリーは対フランスの司令官として活躍してエジプト民衆の人心を掌握し、1805年にエジプト総督(ワーリー)に就任。
総督は王に匹敵する権限を認められていたことから実質的にオスマン帝国からの自治・独立を勝ち取り、ムハンマド・アリー朝が成立していました。
1811年、ムハンマド・アリーはエジプトで力を保ちつづけてきたマムルーク(テュルク系奴隷兵士)約500人を宴会と称してカイロのシタデル(城塞)※に集め、彼らを虐殺して政権の安定を確保(シタデルの惨劇)。
その後フランスを範として工業や農業、教育や軍の近代化を推し進めました。
1821~29年のギリシア独立戦争ではオスマン帝国の依頼を受けて出兵し、戦争には敗れるもののクレタ島とキプロス島を獲得していました。
戦争参加の代償としてムハンマド・アリーはオスマン帝国にシリアを要求しますが、オスマン帝国はこれを拒否。
1831年に攻撃を開始し、第1次エジプト=トルコ戦争(1831~33年)がはじまりました。
オスマン帝国はロシアにふたつの海峡の通航権を与えて支援を得ますが、ロシアの進出を恐れたイギリスとフランスはオスマン帝国のマフムト2世にシリアなどの統治権をエジプトに引き渡すことを認めさせます。
オスマン帝国は1839年、シリア奪還を目標に第2次エジプト=トルコ戦争(1839~30年)を開始。
ムハンマド・アリーはネジブの戦いでこれを破ると、シリア総督を兼ねたエジプト総督の世襲権を要求します。
フランスはエジプトの支援に回っていましたが、エジプトのこれ以上の台頭を恐れたイギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンがオスマン帝国を支持。
孤立を恐れたフランスが撤退すると、ムハンマド・アリーはイギリス軍に敗退しました。
1840年のロンドン会議でムハンマド・アリーはエジプトとスーダン総督の世襲権を認められますが、シリアについてはオスマン帝国に返還。
ロシアのボスポラス海峡とダーダネルス海峡の通航権は停止され、海峡は封鎖されました。
※世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
■クリミア戦争
1851年、ロシアの支援もあって、正教徒たちはフランスが保持していたエルサレム①の管理権をオスマン帝国に認めさせました。
しかし翌年、フランスのナポレオン3世がオスマン帝国に迫って聖地管理権を回復。
これに対してロシアのニコライ1世は、聖地管理権とオスマン帝国領内の正教徒保護を名目にクリミア戦争を開始します(1853~56年)。
1854年にイギリス、フランス両国とサルデーニャ王国がオスマン帝国側について参戦。
ロシア軍数十万~100万に対して連合軍は5万~7万程度にすぎませんでした。
しかし、蒸気船をはじめ産業革命以降に飛躍した近代装備を誇る英仏軍にロシアはまったく対抗できません。
1855年にクリミア半島の古代都市ヘルソネソス②に築かれたセヴァストーポリ要塞が陥落してロシアは大敗を喫し、30万ともいわれる死者を出します。
1856年のパリ会議で締結されたパリ条約では、ボスポラス海峡とダーダネルス海峡における軍船の通航が禁止され、黒海は中立化されました。
ここまでロシアの南下政策はことごとく失敗に終わりましたが、ヨーロッパ諸国がしのぎを削る東方問題はそのまま残されました。
※①世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
②世界遺産「古代都市タウリカ・ヘルソネソスとそのホーラ(ウクライナ)」
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■アルクサンドル2世の改革
クリミア戦争で露呈した英仏との差はいかんともしがたく、近代化が不可欠なのは誰の目にも明らかになりました。
特に改革が必要とされたのが農奴制です。
皇帝アルクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発令し、農奴に職業選択や移動の自由を与えて貴族の支配から解放しました。
しかし、既得権を手放したくない貴族の反発は根強く、解放は骨抜きにされました。
アレクサンドル2世は近代化のために自由主義的な改革を進めましたが、多くの反発を目の当たりにしました。
このため反動的に皇帝による専制的な政治=ツァーリズムを強化し、労働者や知識層に対する弾圧を強めます。
そもそも自由主義改革を強く望んだのは農奴以上にヨーロッパ先進国の繁栄を知る都市部の知識階級層=インテリゲンツィアです。
農奴の真の解放こそ必要であると考えた彼らの一部は「ヴ=ナロード(人民の中へ)」をスローガンに農村に入り込み、啓蒙活動を行った(ナロードニキ運動)。
しかし、知識のない農奴にその思いは通じず、運動は頓挫。
一部は政府を一気に転覆させるテロリズムに走り、これが1881年のアレクサンドル2世の暗殺をもたらしました。
これを見た次のアレクサンドル3世は改革派の弾圧に走りました。
そんな中、アレクサンドル2世の「上からの改革」はようやく1890年代に芽吹き、外国資本を導入して工業化を進めて産業革命期を迎えます。
一例がシベリア鉄道で、フランス資本を導入して1891年に建設がはじまり、1905年に全線が開通。
日本海の不凍港ウラジオストクまで鉄道で結ばれたことによってロシアは太平洋進出の足掛かりを得ました。
* * *
<イタリアの統一>
イタリア統一までの版図の推移。Sardinia=サルデーニャ王国、Piedmont=ピエモンテ(サルデーニャ王国)、Lombardy=ロンバルド王国、Veneto=ヴェネト王国、Toscana=トスカーナ大公国、Papal States=教皇領、Two Sicilies=両シチリア王国、Italy=イタリア王国
■リソルジメント
イタリアには長らく統一国家が存在せず、北には教皇領①やヴェネツィア共和国②、南にはナポリ王国(首都ナポリ③)やシチリア王国(首都パレルモ④)といった多数の領邦(諸侯や都市による領土・国家)が成立していました。
しかし、細分化された領邦の力は小さく、イギリスやフランス、オーストリア、プロイセン、ロシアといった大国と肩を並べるためには統一以外に方法はありませんでした。
北イタリアは神聖ローマ帝国が支配していた時代が長く、イタリア戦争以後はオーストリアやフランス、スペインなどの介入が続きました。
ナポレオンのイタリア遠征軍が1796年に来襲するとイタリアの人々はこれを歓迎。
オーストリアを追い払い、ロンバルディア⑤、モデナ⑥、ヴェネツィアといった北イタリアの多くを統一してチザルピナ共和国を樹立します。
1802年にはナポレオンが大統領に就任してイタリア共和国に改称し、1805年には王位に就いてイタリア王国が成立します。
このイタリア王国はウィーン会議のウィーン議定書で否定されてオーストリアの支配が回復しますが、自由主義・民主主義・ナショナリズムは高揚してイタリア統一・独立を目指すイタリア統一運動=リソルジメントが広がりました。
ウィーン体制下で北イタリアはロンバルド=ヴェネト王国(首都をミラノ⑦に置くロンバルド王国と、ヴェネツィアに置くヴェネト王国の同君連合)となり、オーストリア皇帝が国王を兼ねてオーストリア軍がイタリアに駐留します。
これに対しサルデーニャ王国は各地の暴動を支援し、リソルジメントをリードします。
※①世界遺産「バチカン市国(バチカン市国)」
②世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
③世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
④世界遺産「パレルモのアラブ=ノルマン様式の建造物群及びチェファルとモンレアーレの大聖堂(イタリア)」
⑤世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア)」
⑥世界遺産「モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカ及びグランデ広場(イタリア)」
⑦世界遺産「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(イタリア)」
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■サルデーニャ王国
サルデーニャは現在のフランス・サヴォイア地方とイタリア・ピエモンテ地方を拠点とするサヴォイア家の公国で、18世紀のスペイン継承戦争でイギリス、オーストリア側についてフランス軍を破ったことでシチリア島を入手し、王国となりました。
1720年にシチリア島をサルデーニャ島と交換してサルデーニャ王国が成立。
ウィーン体制下では首都トリノ①やジェノヴァ②を中心に北西イタリアを押さえ、北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国と覇を競うまでに成長しました。
サルデーニャ王国のピエモンテ地方③④では、1820年に秘密結社カルボナリ(炭焼党)によるピエモンテ蜂起、1831年にはフランス七月革命の影響で反乱が起きますが、いずれもオーストリアによって鎮圧されていました。
また、一八四八年革命ではサルデーニャ王国とオーストリア軍の戦闘が起こりましたが、こちらもサルデーニャの敗北に終わっています。
1849年、ローマ⑤でマッツィーニ率いる青年イタリアの運動が実を結び、ローマ共和国が成立。
これを受けてバチカン⑥の教皇ピウス9世はナポリ⑦に亡命します。
オーストリアの勢力拡大を恐れたフランスのルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)は、教皇の復権を掲げて軍を進め、ガリバルディ率いるローマ共和国軍を撃破。
国内の旧教派へのアピールもあって、以後ローマにフランス軍を常駐させます。
サルデーニャ王国をはじめとする北イタリアの反乱はこうして鎮圧され、リソルジメントはまたも失敗に終わりました。
※①世界遺産「サヴォイア王家の王宮群(イタリア)」
②世界遺産「ジェノヴァ:レ・ストラーデ・ヌオーヴェとパラッツィ・デイ・ロッリ制度(イタリア)」
③世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア)」
④世界遺産「ピエモンテのブドウ畑の景観:ランゲ=ロエロ、モンフェッラート(イタリア)」
⑤世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂、イタリア/バチカン共通)」
⑥世界遺産「バチカン市国(バチカン市国)」
⑦世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
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■イタリア統一戦争
1849年、サルデーニャ王国でヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が王位に就き、首相にカヴールを任命します。
このふたりが中心となって王国の近代化を進めつつ、再びイタリアの統一を計画します。
1853年にはじまるクリミア戦争においてイギリス、フランスを支援して軍を派遣。
これでコネクションを作ると、フランス皇帝となったナポレオン3世とプロンビエールの密約を結び、秘かに支援を得ることに成功します。
この密約を知ったオーストリアが1859年に宣戦布告し、これを機にサルデーニャ王国はイタリア統一戦争を開始。
ロンバルディア①を押さえると、パルマ、モデナ②、トスカーナ③などでもオーストリアに対する反乱が勃発し、これらの国をまとめて一気に北イタリアの多くが統一されます。
これを見たナポレオン3世はサルデーニャの大国化と教皇領への侵攻を恐れ、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世と単独講和して撤退してしまいます(ヴィラフランカの和約)。
しかしながら翌1860年、サルデーニャはサヴォイア、ニースの割譲を条件に、ローマ④に軍を駐留させているフランスの許可を得て中部イタリアを併合します。
これらの動きとは別に、1860年5月、ガリバルディが赤シャツ千人隊と呼ばれる義勇兵を率いてイタリア半島南部の両シチリア王国(シチリア王国とナポリ王国が合併して成立した国)のシチリア島とナポリ⑤を相次いで占領。
両国をサルデーニャ王国に献上します。
1861年、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア王国の成立を宣言し、自ら初代王位に就きます。
首都は1865年までトリノ⑥に置かれ、その後フィレンツェ⑦に遷されました。
さらに1866年、イタリア王国はプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争/七週間戦争)でプロイセン側について勝利し、オーストリアからヴェネツィア⑧を獲得。
1870年にはプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)でフランスが敗れてローマから撤退すると、ローマを占領して教皇領を併合し、翌年には首都をローマに遷しました。
これをもってリソルジメントは完成しますが、トリエステ、南チロルなどはオーストリア領にとどまって「未回収のイタリア」となりました。
また、サンマリノ⑨は都市国家として独立を守り、独立を望むバチカン⑩の教皇庁はイタリアと対立を続けます。
※①世界遺産「ピエモンテとロンバルディアのサクリ・モンティ(イタリア)」
②世界遺産「モデナの大聖堂、トッレ・チヴィカ及びグランデ広場(イタリア)」
③世界遺産「トスカーナ地方のメディチ家の別荘と庭園群(イタリア)」
④世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂、イタリア/バチカン共通)」
⑤世界遺産「ナポリ歴史地区(イタリア)」
⑥世界遺産「サヴォイア王家の王宮群(イタリア)」
⑦世界遺産「フィレンツェ歴史地区(イタリア)」
⑧世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
⑨世界遺産「サンマリノ歴史地区とティターノ山(サンマリノ)
⑩世界遺産「バチカン市国(バチカン市国)」
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<ドイツの統一>
ドイツ帝国成立までの版図の推移。Prussia=プロイセン王国、Sardina=サルデーニャ王国、Enemies=プロイセンの敵国、Allies=プロイセンの同盟国。書いてありませんがプロイセンの下の大きな国がオーストリア=ハンガリー帝国、プロイセンの左下の小さな国の集合体がドイツ諸国、サルデーニャの直上がスイス
■ドイツ関税同盟
ドイツではこれまで、神聖ローマ帝国→ライン同盟→ドイツ連邦という形で連帯してきました。
しかし、たとえばドイツ連邦は35の君主国と4つの帝国自由都市からなる連邦で、こうした国々を移動するためにはそれぞれの国境を抜けなければならず、いちいち出入国して関税を支払わなければなりません。
こうした不便もあって商工業の発達は阻害され、産業は農業に限られていました。
これに対して1834年、プロイセンを中心としてドイツ関税同盟=ツォルフェラインが発足。
域内の関税が撤廃され、経済的な統合が実現します。
こうした成果もあり、1840年代にはドイツで産業革命がはじまります。
産業界はこの改革を促進し、他国に追いつき追い越すためにもドイツの統一を強く望みました。
一八四八年革命では3月にプロイセンの首都ベルリン①②で自由主義と統一国家創設を目指して革命運動が起こります(三月革命)。
しかし、共和政と君主政、大ドイツ主義(オーストリア領のドイツを含むオーストリア主体の統一)と小ドイツ主義(オーストリア領を排除したプロイセン主体の統一)の対立が解消できず、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世もドイツ皇帝就任を拒否したため、失敗に終わりました。
※①世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
②世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島](ドイツ)」
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■プロイセン=オーストリア戦争
プロイセンはあくまでオーストリアを排除した小ドイツ主義による統一を目指していました。
1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン王に就くと、翌年、農場領主ユンカー出身のビスマルクを首相に任命。
ビスマルクは兵器(鉄)と兵士(血)を増強する鉄血政策を敷いて軍事力を拡張します。
一方、オーストリアではチェコ人・ハンガリー人・イタリア人らによる改革・独立運動が次々と弾圧されていました。
そして1849年にオーストリアは帝国の不分割を宣言して帝国憲法を制定し、大ドイツ主義を牽制しました。
1864年、デンマークのシュレスヴィヒ州とホルシュタイン州でドイツ系住民がドイツ連邦への編入を求めて暴動を起こします。
プロイセンのビスマルクはオーストリアとともにデンマークに侵攻してこれを撃破。
シュレスヴィヒ州をプロイセン、ホルシュタイン州をオーストリアが治める形でガシュタイン協定が結ばれます。
デンマーク戦争でオーストリア軍を観察したビスマルクは勝利を確信し、オーストリアに対する戦争を決意。
ホルシュタイン州の領有を巡ってオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世を煽り、1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争/七週間戦争)が勃発します。
プロイセンは圧勝し、戦争はわずか7週間で終結してホルシュタイン州を併合しました。
1866年、プラハ条約でオーストリアを盟主とするドイツ連邦の解体が決定し、オーストリアはドイツから除外されました。
プロイセンがハノーヴァーやナッサウ、フランクフルト、ヘッセンなどを獲得して領土を広げた一方で、プロイセンを支援したイタリア王国によってオーストリアはヴェネツィア①を接収されました。
この機に乗じてオーストリアでは各民族の独立運動が高まり、翌年にはマジャール人に対してハンガリー王国(首都ブダペスト②)の自治を認める代わりにオーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねることで妥協し(オーストリアとハンガリーの和協=アウスグライヒ)、オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)が成立します。
※①世界遺産「ヴェネツィアとその潟(イタリア)」
②世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り(ハンガリー)」
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■プロイセン=フランス戦争
オーストリアからドイツ連邦が解放・解体されると、プロイセンは1867年にライン川の支流であるマイン川以北の22か国をまとめて北ドイツ連邦を組織します。
ローマ・カトリックで親オーストリア的だったバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、ヘッセン・ダルムシュタットの南ドイツ4か国は南ドイツ連邦を組織する予定でしたが、こちらは成立しませんでした。
着々と大国化を進めるプロイセンに対し、フランスのナポレオン3世は戦々恐々としていました。
1870年、プロイセン王家であるホーエンツォレルン家の分家出身のレオポルドがスペイン王位を継承すると、東西から挟まれる形となったフランスは強く反発。
1870年7月、フランスがプロイセンに対して宣戦を布告します。
北ドイツ連邦に南ドイツ諸国も加わり、フランスとドイツの全面対決となりました(プロイセン=フランス戦争/普仏戦争)。
プロイセンはすぐさまフランスに侵攻。
9月1日のスダンの戦いでフランス軍を破ると、ナポレオン3世を捕らえます。
これを聞いたパリ市民は暴動を起こして臨時政府を樹立し、第2帝政は崩壊します。
プロイセン軍は1871年1月にヴェルサイユ宮殿①を占領し、鏡のギャラリー(鏡の回廊/鏡の間)でヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式を行い、ドイツ帝国が成立します。
ドイツ帝国は神聖ローマ帝国を継ぐという意味で第2帝国とも呼ばれています。
フランス臨時政府が莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌ地方の割譲を条件に講和すると、3月にプロイセン軍がパリ②に入城します。
こうした数々の屈辱に対し、労働者を中心とするパリ市民は自治政府パリ・コミューンを樹立しますが、臨時政府との戦いに敗北。
臨時政府が政権を取り戻すと、プロイセン軍はドイツに帰還しました。
ビスマルクはフランスから得た莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌ地方の豊富な地下資源を使って鉄道などのインフラ整備や軍備増強などを行い、産業革命を後押ししました。
1871年4月にはドイツ帝国憲法(ビスマルク憲法)を制定し、プロイセン王がドイツ皇帝位を世襲し、プロイセン首相がドイツ帝国宰相となることが定められます。
事実上、皇帝位はホーエンツォレルン家の世襲で、宰相についてはビスマルクが約20年にわたって独裁的な権力を握りました。
※①世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
②世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
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■パン=スラヴ主義
外交について、ビスマルクは国内で中央集権化・近代化を進めることを優先して周辺国と盛んに同盟を結びました。
1873年にドイツ、オーストリア=ハンガリー、ロシアの間で三帝同盟を結成。
しかし、ロシアはオーストリアやオスマン帝国内のスラヴ系民族の独立を支援したため(パン=スラヴ主義)、対立が深まります。
1875年にはボスニア・ヘルツェゴビナの正教徒がオスマン帝国に対して反乱を起こします。
ブルガリアでも同じような反乱が起きると、セルビアやモンテネグロの正教徒がこれを支持。
正教徒たちはスラヴ系民族であったことからロシアのアレクサンドル2世が保護に回り、1877年にオスマン帝国と開戦しました(1877~78年、ロシア=トルコ戦争/露土戦争)。
ロシアは一気にアドリアノープロを攻略し、オスマン帝国の首都イスタンブール※に接近。
喉元まで攻め込まれたオスマン帝国は敗北を認め、1878年のサン=ステファノ条約で黒海沿岸の領土をロシアに割譲し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立してブルガリア公国が自治公国となった。
ロシアの狙いは地中海です。
バルカン半島にセルビア、モンテネグロという親ロシアのスラヴ系国家を成立させることに成功し、事実上ロシアの保護国となったブルガリア公国は黒海からエーゲ海に及ぶ大きな領域を獲得しました。
こうしたロシアの南下政策とパン=スラヴ主義に対して、西アジアを狙うイギリスと、バルカン半島のゲルマン系民族を保護するオーストリア=ハンガリーが開戦も辞さない構えで強く反発します。
この危機に対してドイツのビスマルクが仲裁に入り、相互の利益を調整するために1878年にベルリン会議を開催します。
その結果、ブルガリア公国はエーゲ海沿いの領土を縮小されたうえでオスマン帝国に留まることになり、その代わりにセルビアやモンテネグロ、ルーマニアの独立は認められました。
バルカン半島にスラヴ人国家が誕生することを懸念するオーストリア=ハンガリーにはボスニア・ヘルツェゴビナの統治権を与え、西アジアの覇権を狙うイギリスはキプロス島を獲得しました。
これにより東方問題には一応の決着がつき、ロシアはバルカン半島における南下を断念し、中央アジア・東アジアに目を転じて南下政策を継続します。
※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)
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■ビスマルク体制
ドイツにとってもっとも脅威だったのがプロイセン=フランス戦争以来関係が悪化している隣国フランスです。
そのためフランスと同盟を結ぶ可能性のある国々と矢継ぎ早に同盟を結びました。
1881年、ドイツ、オーストリア、ロシア間で新三帝同盟を結成。
続いて1882年、ドイツ、オーストリア、イタリアで三国同盟を結びます。
バルカン半島を巡るオーストリア-ロシアの対立で新三帝同盟が破棄されると、ドイツ-ロシアの間で1887年に再保障条約を締結。
こうしてビスマルクはいわゆるビスマルク体制を敷いて万全を喫しました。
なお、この間イギリスは外交において「光栄ある孤立」といわれる孤立主義を採っています。
しかし、1888年にヴィルヘルム2世が29歳で即位すると、ビスマルクを辞任させて親政(君主が自ら政治を行うこと)を開始。
ドイツ人を中心としたゲルマン系による帝国創設を目指してパン=ゲルマン主義運動が広がっていたこともあり、イギリスなどに植民地の再配分を求め、世界分割による植民地獲得競争に乗り出します(世界政策)。
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次回はアメリカ、イギリス、フランスを中心に帝国主義の台頭を紹介します。