世界遺産と世界史38.プロイセンとロシア
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<プロイセンとオーストリアの争い>
オーストリアとプロイセンの版図の推移。Austria=オーストリア、Prussia=プロイセン
■啓蒙思想と啓蒙専制君主
ルネサンス以降の宗教改革や科学革命によって、次第に人々の中に宗教や迷信に捉われない「自由な視線」が普及していきました。
客観的・科学的・理性的な態度はやがて社会科学に対しても拡張され、啓蒙思想が生まれます。
「蒙」は暗いという意味で、道理がわからないことを示します。
そして啓は「啓(ひら)く」こと。
無知で盲目だった状態から抜け出し、世界を見通す理性的な目を手に入れることを意味しています。
たとえば国家に対してこのような問いが持ち上がります。
「なぜ人は国家に従属しなくてはならないのか?」
絶対王政では、国王は神の代理として国を治めました。
しかし、「神とか天使とかよくわからない存在に頼らずに、もっと理性に基づく合理的な方法で物事を考えようよ」という発想が啓蒙思想です。
この文脈で生まれるのが啓蒙専制主義です。
専制政治とは、ある個人や少数の支配者に権力が集中した歯止めのない政治体制を示し、これを行う君主を専制君主と呼びます。
絶対王政も一種の専制政治です。
絶対主義の場合、王権神授説を唱えて神の名の下に権力を集中させました。
これに対して啓蒙思想の下に集中させるのが啓蒙専制主義です。
人々の権利を守るためには国家に権力を集中させるべきで、それでこそ戦争や犯罪から個人の権利を守り、平等で平和な社会を築くことができます。
そのうえで、強い力(コモン・パワー)を持った国家が主導して近代化を推し進めれば、大いに繁栄が望めます。
ならば啓蒙専制君主に権力を集めよう!
絶対主義と啓蒙専制主義は両者を代表するふたりの言葉の違いによく表れています。
フランスの絶対君主ルイ14世「朕は国家なり」。
プロイセンの啓蒙専制君主フリードリヒ大王「君主は国家第一の僕(しもべ)」。
啓蒙専制主義といえばプロイセンやロシア、オーストリアですが、前二者はこの時代まだまだ後進国で、オーストリアは没落の危機にありました。
これらの国々が大国の位置に昇り詰めるためにはこうして中央集権する必要があったのです。
■プロイセンの成立
プロイセンの歴史はホーエンツォレルン家にはじまります。
ホーエンツォレルン家は1415年に神聖ローマ皇帝ジギスムントの命でブランデンブルク選帝侯に就任。
この選帝侯(ドイツ王選出権を持つ諸侯。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となりました)が治めるブランデンブルク辺境伯領はいまでこそベルリンがあるドイツの中心ですが、当時は「辺境」の名の通り片田舎にすぎませんでした。
16世紀、ホーエンツォレルン家のアルブレヒトがドイツ騎士団総長に就任。
ドイツ騎士団はリトアニアなど北方の異教徒たちと戦っていましたが、リトアニアがポーランドと同君連合になってローマ・カトリックに改宗したうえ(ポーランド=リトアニア連合王国。1569年からはポーランド=リトアニア共和国)、戦争にも敗れ、ドイツ国境付近のプロイセンに追いやられます。
アルブレヒトは教皇の命を受けて戦っていたカトリック教徒でしたが、ルターの考え方に感銘を受けるとプロテスタントに改宗。
そして1525年には騎士団の名を返上し、ポーランドの下にプロイセン公国を打ち立てます。
1618年にブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公を継承すると同君連合ブランデンブルク=プロイセンが成立。
スペイン継承戦争(1701~13年)で神聖ローマ皇帝レオポルド1世に援軍を送ったことからプロイセン王に任ぜられ、1701年にプロイセン王国に昇格します。
初代国王フリードリヒ1世はルイ14世とパリ①②に憧れ、首都ベルリンを大幅に改造。
ベルリンは「シュプレー川のアテネ」と呼ばれるほどに繁栄します。
このときヴェルサイユ宮殿をまねて造った宮殿がシャルロッテンブルクです。
※①世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
②世界遺産「ヴェルサイユの宮殿と庭園(フランス)」
[関連サイト]
■オーストリア継承戦争
プロイセンが大国になり上がるのはフリードリヒ大王(フリードリヒ2世)の時代です。
「哲人王」と呼ばれ、芸術と学問に秀で、拷問や検閲を廃止するなど啓蒙思想に影響を受けた合理的な人物で、野心家でもあって数々の戦争を戦いました。
この頃、オーストリア・ハプスブルク家では男子が生まれず、娘のマリア・テレジアがオーストリアとハンガリー、ボヘミアの大公位や王位を継承していました。
ハプスブルク家は代々男子が家督を継承してきたためこの即位に周辺国が反発。
特にプロイセンのフリードリヒ大王は強硬に反対し、彼が国王に即位した1740年にシュレージエン(シレジア。ポーランド・チェコ国境周辺)割譲を要求して占領してしまいます(1740~48年、オーストリア継承戦争)。
さらにバイエルンやザクセンが神聖ローマ皇帝位を狙って立ち上がり、ハプスブルク家の宿敵フランス・ブルボン家のルイ15世がこれを支援し、同じブルボン家のスペインもフランス側に回ります。
そして一連の国々でバイエルン公を神聖ローマ皇帝カール7世として即位させてしまいます。
マリア・テレジアは周囲を包囲された中で戦いを強いられました。
1745年、オーストリアに侵入したプロイセンをなんとか撃退。
同年にカール7世が急死すると、夫であるトスカーナ大公をフランツ1世として神聖ローマ皇帝に即位させます。
1748年、アーヘンの和約で終戦を迎え、プロイセンはシュレージエンを獲得。
その他の土地はオーストリアがほぼ取り返し、マリア・テレジアとフランツ1世の王位や皇帝位も承認されました。
■七年戦争
マリア・テレジアはプロイセンに対する復讐を決意。
富国強兵とともにプロイセンの孤立化を図り、ルイ15世の愛妾であるポンパドゥール婦人に接近して長年の宿敵ブルボン家と和解します(外交革命)。
これを受けてルイ16世のもとに嫁ぐのが第十一女のマリー・アントワネットです。
さらに、ロシアの女帝エリザベータと結び、女性3人の活躍でプロイセン包囲網を構築します(3枚のペチコート)。
包囲網に驚いたフリードリヒ大王は先制攻撃を仕掛けて七年戦争(1756~63年)が勃発。
当初はプロイセンが連勝しますが、フランス軍とロシア軍が到着すると戦況は逆転し、一時は首都ベルリン※を占領されてしまいます。
1761年にロシアのエリザベータが急死。
ピョートル3世が皇帝位に就くと、彼がフリードリヒ大王の崇拝者であったことからプロイセンと単独講和して包囲網から離脱します。
両国がすでに疲弊していたことからこれを機に和平交渉が進み、プロイセンとオーストリアとの間で1763年にフベルトゥスブルク条約が結ばれて終戦を迎えます。
この条約によりプロイセンのシュレージエン領有が確認され、大国としての地位が確定。
一方、マリア・テレジアはプロイセンに長男ヨーゼフ2世の神聖ローマ皇帝就任を認めさせることでなんとか面目を保ちました。
※世界遺産「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群(ドイツ)」
[関連サイト]
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<帝政ロシア>
ロシアの版図の推移。Muscovy=モスクワ大公国、Russia=ロシア(国王の肖像の下にTsardom of Russia=ロシア・ツァーリ国、Russian Empire=ロシア帝国などとさらに細かく記載されています)
■モスクワ大公国
中世から近世にかけて、現在のウクライナ、ロシア西部に君臨していたのはノヴゴロド公国やモンゴル帝国の後継であるキプチャク・ハン国(ジュチ・ウルス)です。
そしてキプチャク・ハン国の徴税を請け負い、急速に力をつけたのがモスクワ大公国です。
15世紀に、モスクワ大公国のイヴァン3世がノヴゴロド公国を征服。
キプチャク・ハン国への貢納を拒否して「タタールの軛(くびき。モンゴル人=タタール人の支配体制)」を終わらせました。
そしてイヴァン3世はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇帝の姪であるソフィアをめとります。
ローマ①②で育ったソフィアはモスクワにイタリア文化を持ち込み、これに影響を受けたイヴァン3世はモスクワのクレムリン(城塞)③にロマネスク建築をはじめとする華やかな建造物群を築きます。
その結果モスクワは「第3のローマ」といわれるほどに繁栄します(「第2のローマ」はコンスタンティノープル④)。
1453年、ビザンツ帝国はオスマン帝国の侵入によりコンスタンティノープルが落城して滅亡。
このためイヴァン3世の孫である雷帝イヴァン4世は東ローマ皇帝を継ぐ者として皇帝=ツァーリを名乗り、ロシア・ツァーリ国が成立します。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
③世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(モスクワ)」
④世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
[関連サイト]
■ロシア・ツァーリ国
イヴァン4世はわずか3歳でモスクワ大公に即位。
そのため貴族たちが開く貴族会議によって国家が運営され、貴族の力が強化されます。
成長するとイヴァン4世は貴族に反発し、親衛隊オプリーチニキを結成。
反発する貴族を次々と暗殺し、反乱の気配があったノヴゴロド①では3万人以上を殺害したといいます(ノヴゴロド虐殺)。
この頃、キプチャク・ハン国はカザン・ハン国(首都カザン②)、アストラハン・ハン国、シビル・ハン国、クリミア・ハン国の4か国に分裂していました。
イヴァン4世はクリミア・ハン国以外の3国を征服し、領土はシベリアにまで広がりました。
イヴァン4世死後の動乱期を経て1613年、議会でロマノフ家のミハイル・ロマノフが選出されてツァーリに即位し、ロマノフ朝がはじまります。
1682年にピョートル大帝(ピョートル1世)がツァーリに就くと、プロイセンの成功をまねて常備軍や官僚制を整備して中央集権化を進めました。
※①世界遺産「ノヴゴロドの文化財とその周辺地区(ロシア)」
②世界遺産「カザン・クレムリンの歴史遺産群と建築物群(ロシア)
■ロシア帝国の誕生
ロシア・ツァーリ国は北極海には港を持っていましたが、冬は完全に凍結してしまいます。
北海に通じるバルト海はスウェーデンに押さえられ、地中海を経由して大西洋に通じる黒海には港を持っていませんでした。
バルト海と黒海の不凍港を手に入れて大西洋まで進出すること――
これがロシアの長年の悲願となっていました。
当時バルト海の覇権を握っていたのはバルト帝国を率いるスウェーデンです。
三十年戦争以降、支配を固めて大国化するスウェーデンに対し、ロシア、ポーランド=リトアニア、デンマークは秘かに同盟を結び、大北方戦争(1700~21年)を展開します。
当初はスウェーデンの猛攻が続くも、ピョートル大帝は徴兵制によって大軍を編成して反撃を開始。
1712年、ピョートル大帝はバルト海沿岸に新しい首都を建設し、聖ペトロ(ペテロ)にちなんでサンクトペテルブルク※と命名。
湾内にバルチック艦隊を配置してバルト海に睨みを利かせました。
1714年、バルト海で勃発したハンゲの海戦でピョートル大帝はスウェーデン海軍を破ってバルト海の制海権を掌握。
まもなくバルト帝国は解体され、スウェーデンに代わってロシアがバルト海の覇者として名乗りを上げました。
そして1721年、ツァーリに代わってヨーロッパにおける皇帝の称号「インペラトル(インペラートル)」を名乗り、ロシア皇帝が治めるロシア帝国が成立しました。
※世界遺産「サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群(ロシア)」
■ロシア帝国の拡大
黒海方面において、1696年にピョートル大帝はオスマン帝国を破って黒海とつながるアゾフ海を占領します。
大北方戦争時の和解でアゾフ海はオスマン帝国に返還されますが、その後の戦闘と交渉によって1739年にロシア領に組み込まれました。
これによりロシアは地中海へ続く航路を確保します。
東アジアについてもピョートル大帝は1689年に清の康熙帝とネルチンスク条約を結んで国境を画定。
1727年には未確定だった西部の国境をキャフタ条約によって画定します。
さらにベーリングを派遣してオホーツク海やベーリング海を探検させ、1741年にアラスカに到達するとこれをロシア領に組み入れました。
ピョートル大帝は1725年に病没しますが、女帝エリザベータがプロイセンのマリア・テレジアやフランスのポンパドゥール婦人と結び(3枚のペチコート)、七年戦争(1756~63年)を戦うのはプロイセンの項で書いた通りです。
その後ピョートル3世がプロイセンと和解し、啓蒙専制君主政を推進します。
■ポーランド分割
ポーランド分割の様子。Polish-Lithuanian Commonwealth=ポーランド=リトアニア、Russian Empire=ロシア帝国、Bar Confederation=バール連盟、Habsburgs/Austria=オーストリア、Prussia=プロイセン、Pro-Kosciuszko Forces=コシューシコ軍
ロシア帝国の版図をさらに拡大したのがピョートル3世の皇后エカチェリーナ2世です。
ピョートル3世がクーデターで失脚するとエカチェリーナ2世が皇帝位を引き継ぎました。
黒海のクリミア半島にはオスマン帝国の下についていたクリミア・ハン国がありましたが、第1次ロシア=トルコ戦争(1768~74年。第1次露土戦争)によってクリミア・ハン国を独立させることに成功。
1783年にそのクリミア・ハン国を併合し、黒海に領土を確立します。
1787~92年、オスマン帝国はクリミア半島のタタール人(モンゴル系民族)の依頼を受けてロシアと再び開戦(第2次ロシア=トルコ戦争)。
ロシアがオーストリアの支援を受けて攻め込み、首都イスタンブール①に迫ると、オスマン帝国は講和に応じてロシアのクリミア半島領有を認めました。
この頃、ロシア、プロイセン、オーストリアによって「国王たちの菓子」といわれたポーランド=リトアニアの3度にわたる分割(1772年、1793年、1795年)が起きます。
ポーランド=リトアニアは大北方戦争でスウェーデン軍に攻撃され、その後もロシアやプロイセン、オーストリアなどの介入を受けて疲弊していました。
このような状況を見たエカチェリーナ2世がこの問題に介入。
プロイセンのフリードリヒ大王はロシア領になることを恐れ、オーストリアのヨーゼフ2世とともにポーランドに迫り、第1回ポーランド分割を認めさせます。
続いてエカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ・ウィルヘルム2世と謀り、フランス革命のドサクサに紛れて第2回分割を要求。
コシューシコが農民義勇軍を率いて蜂起しますが、エカチェリーナ2世がこれを鎮圧しました。
1794年にはオスマン帝国の要塞跡地に港湾都市オデーサ(オデッサ)②を建設しています。
そしてロシア、プロイセン、オーストリアの3か国によって第3回分割が行われ、ポーランドとリトアニアは消滅しました。
これによりロシアはウクライナやベラルーシを獲得し、黒海の基盤を固めました。
※①世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
②世界遺産「オデーサ歴史地区(ウクライナ)」
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次回は中国の明と清を紹介します。