世界遺産と世界史37.三十年戦争とイギリス革命
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<三十年戦争>
30年戦争の勢力の推移。Pro-Habsburg states=ハプスブルク側、Anti-Habsburg states=反ハプスブルク側
■旧教と新教の対立
ボヘミア(ベーメン)は現在のチェコの西部にあたる土地で、神聖ローマ帝国内の王国です。
首都はプラハ①でクトナー・ホラ②が第2の都となっています。
1555年のアウクスブルク③の和議で諸侯の信仰の自由が認められており、ボヘミアの領主はルター派を奉じるプロテスタントでした。
しかし、17世紀はじめに就任したボヘミア王フェルディナント2世が熱心なカトリック教徒でプロテスタントの弾圧を開始。
これに対して1618年、ルター派とカルヴァン派が連合(ユニオン)を組んでプラハ城を襲撃し、反乱を起こします。
この内戦に対して国外からの干渉が相次ぎ、フェルディナント2世側にはハプスブルク家のオーストリアやスペイン、旧教派諸侯がつきました。
一方、ユニオン側にはデンマークやスウェーデンといった新教派諸国に加えて、ハプスブルク家打倒を目指すフランスが旧教国ながら参戦し、さらに資金面でイギリス、オランダが協力しました。
内戦から世界戦争に発展した三十年戦争(1618~48年)は文字通り30年のあいだ続きましたが、戦いつづけていたわけではありませんでした。
戦闘が起こるたびに傭兵たちを雇い入れて戦うわけですが、傭兵は金さえ稼ぐことができればいずれの陣営にも従いました。
戦闘が終わって仕事がなくなると傭兵たちはドイツの国土を略奪して回ったため、戦争で荒廃した国土がさらに荒れ果て、人口は1/3まで急減したといわれます。
※①世界遺産「プラハ歴史地区(チェコ)」
②世界遺産「クトナー・ホラ:聖バルボラ教会のある歴史地区とセドレツの聖母マリア大聖堂(チェコ)」
③世界遺産「アウクスブルクの水管理システム(ドイツ)」
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■ウェストファリア体制
結局一進一退のまま三十年戦争は1648年に終結します。
ウェストファリア条約では大まかに以下が確認されました。
○ウェストファリア条約の確認事項
- 諸侯の主権
- カルヴァン派を含む信仰の自由
- スイス、オランダの独立
- スウェーデンのポンメルン領有
- フランスのアルザス領有
これまでも神聖ローマ帝国は領邦(諸侯や都市による領土・国家)の集まりでしたが、諸侯の主権の確認により300以上の領邦が独立し、神聖ローマ皇帝はほぼ象徴君主となりました。
この結果、中央集権化が進んでいる他の大国とは反対に、ドイツでは解体が進みました。
信仰の自由についてはルター派のみならずカルヴァン派の信仰も認められました。
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<イギリス革命>
■イギリスの絶対王政
マゼランに次ぐ世界周航を成し遂げたフランシス・ドレークのルート
イギリスの絶対王政はテューダー朝の下で進められました。
全盛期を築いたのはエリザベス1世です。
生涯独身を貫いたエリザベス1世は「処女王」と呼ばれ、「私はイングランドと結婚した」と語ったと伝えられています。
エリザベス1世は就任早々、新教・旧教問題に決着をつける必要に迫られました。
1559年、ヘンリー8世が制定した首長法を再制定し、イングランド王が唯一の首長であり、教会の統治者であることを確認。
国王を頂点とするイングランド国教会の優位が確定しました。
エリザベス1世はスペインのフェリペ2世に結婚を迫られますがこれを拒否。
世界最強の海上帝国に対抗するため、海賊たちに私掠特許状を与えてイギリス以外の船舶に対する海賊行為を認めます。
この頃、海賊として活躍していたのがフランシス・ドレークとその従兄弟ホーキンスです。
ドレークは1577年にエリザベス1世の支援で世界一周の航海に乗り出し、1580年に帰還。
マゼラン隊以来となる人類史上2例目の世界周航に成功しています(といっても世界一周したのはマゼラン隊で、マゼラン自身は途中で亡くなっています)。
※世界遺産「カンタベリー大聖堂、聖オーガスティン大修道院及び聖マーティン教会(イギリス)」
■イギリス=スペイン戦争
海賊行為や世界周航はスペインの海上覇権を妨害し、またオランダ独立戦争でも両国は対立していたことから断続的に戦闘が行われ、やがてイギリス=スペイン戦争(1585~1604年。英西戦争)に発展します。
1588年、アルマダ海戦において常備軍を持たないイギリスは圧倒的に不利でしたが、エリザベス1世はドレークを司令官に起用して戦い、スペインの無敵艦隊を破って奇跡的な勝利を収めます。
1600年にはイギリス東インド会社を設立して植民地の開発・経営を委託。
これによってイギリス財政は向上し、アジアにおける優位を勝ち取ります。
この頃、イギリスでは羊毛業が急速に発達して基幹産業になっていました。
領主は農地を取り上げて生垣や塀で囲い込み(第1次エンクロージャー)、羊を育ててその羊毛をフランドルやネーデルラントに売ることで莫大な利益を上げました。
こうした中、地方で力を握っていたのがジェントリ(郷紳)と呼ばれる地主層です。
第1エンクロージャーを主導したのも彼らで、ピューリタン(清教徒。カルヴァン派)が多かったことからイギリス革命(ピューリタン革命+名誉革命)でも大きな役割を果たします。
これに対して独立自営農民を「ヨーマン」と呼び、小作を使って農業を行いました。
第1エンクロージャーによって農民としての立場を失った小作人たちは都市に流れて工場労働に従事し、やがて産業革命の担い手となっていきます。
■ピューリタン革命
エリザベス1世は1603年に亡くなりますが子供がいなかったことから後継者選びに難航し、結局スコットランド王ジェームズ1世が王位に就いてステュアート朝が成立します。
この頃、イングランド王はアイルランド王を兼ねていたことから、イングランド・アイルランド・スコットランドが同君連合となりました。
ジェームズ1世が進めたのは専制政治で、王権神授説を唱えて議会を無視する行動が目立ちました。
また、自分が統治するイングランド国教会を強制し、勢力を増していたカルヴァン派プロテスタント=ピューリタン(清教徒)を否定しました。
跡を継いだ息子・チャールズ1世もこうした政策を継続。
議会無視とピューリタン弾圧に対して1628年、議会は「法の支配」を提唱して「権利の請願」を可決し、議会の承認なしでの課税を戒めました。
これに対してチャールズ1世は議会を解散し、以後11年間、議会の開催を拒否します。
そんな最中の1630年代、カルヴァン派が多勢を占めるスコットランドで反乱が勃発。
チャールズ1世は鎮圧に乗り出しますが、戦費不足もあって敗退してしまいます。
1640年、スコットランドに対する賠償金支払いのため、新たな課税を行おうと久々に議会を招集(短期議会)。
開催されるや否や議会は王を激しく非難します。
王はすぐに議会を解散しますが、再び召集(長期議会)。
ここでも非難されると対立は激化し、王党派と議会派の間で内戦が勃発します(1640~60年、ピューリタン革命/清教徒革命)。
■クロムウェル独裁
ケン・ヒューズ監督『クロムウェル』予告編
議会にはさまざまな派閥があり、長老による統制を求める長老派や、それぞれの教派の独立を認める独立派、参政権などの平等を求める水平派などが鎬を削っていました。
当初は軍を持つ王党派が優勢でしたが、独立派のクロムウェルがピューリタンを集めて鉄騎隊を編成すると立場が逆転。
クロムウェルはチャールズ1世を処刑して王政を終わらせ、イギリス史上で唯一の共和政(君主を置かない政体)を立ち上げます。
クロムウェルはこの勢いのまま長老派と水平派を弾圧。
カトリック教徒と王党派が多勢を占めるアイルランドを占領し、土地を収奪したうえに虐殺を敢行します。
また、同時期にスコットランドも占領して支配下に収めています。
クロムウェルはまた重商主義を推し進め、オランダと対立して第1次イギリス=オランダ戦争(1652~54年。英蘭戦争)が勃発。
この戦いでも勝利を収めます。
1653年、クロムウェルは終身の護国卿となり、共和政の中で軍事独裁体制を確立します。
1658年のクロムウェル没後、息子リチャードが護国卿を継ぎますが、議会は独裁制に反対してチャールズ1世の息子チャールズ2世を担ぎ出し、1660年に王政を復活させます(王政復古)。
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■名誉革命
王政復古を果たしたチャールズ2世は議会の意に反してローマ・カトリックを擁護し、王権神授説を掲げて絶対王政の復活を図ります。
これに対して議会は1673年に審査法を制定して官僚をイングランド国教会の者(国教徒)に限定し、1679年の人身保護法では法による裏づけのない不当な逮捕や処罰を禁じます。
また、チャールズ2世は議会の承認のないままオランダとの間で第2次イギリス=オランダ戦争(1665~67年)、第3次イギリス=オランダ戦争(1672~74年)を起こします。
第2次ではアメリカにおいてオランダの植民地ニューネーデルラントを侵略してニューアムステルダムをニューヨークと改称。
第3次ではフランスのオランダ侵略戦争(ネーデルラント戦争)と呼応してオランダを攻撃。
オランダ総督オラニエ公ウィレムの活躍もあって進撃は阻まれ、予算不足もあって撤退しました。
この後、ウィレムはチャールズ2世の弟であるジェームズ2世の娘メアリと結婚して関係改善を図っています。
続いて王位に就いたジェームズ2世もローマ・カトリック寄りで王権神授説の支持者。
議会はジェームズ2世の排除を決め、1688年にジェームズ2世の娘メアリと、その夫であるウィレムをオランダから迎え入れます。
ふたりはオランダ軍とともに上陸し、ジェームズ2世がフランスに亡命したため無血革命となりました(名誉革命)。
メアリはメアリ2世、ウィレムはウィリアム3世としてともに王位に就いて共同統治を開始します。
■権利の章典とイングランド銀行
1689年、ふたりは議会の示した「権利の宣言」を承認し、翌年これをまとめた「権利の章典」を公布します。
権利の章典は国民の権利と自由を成文化したもので、立法権や徴税権・王の任免権などが議会にあることを記しています。
この頃のイギリスは相次ぐ戦争のため財政状況は非常に悪いものでした。
この資金難に対処するために、1694年にイングランド銀行を創設します。
政府が発行する国債をイングランド銀行が引き受け、その代わりに金(きん)ではなく、金と交換可能な兌換紙幣(交換できる紙幣)=銀行券を発行しました。
1833年には銀行券が法廷紙幣となり、1844年には銀行券発券の独占権を得ます。
このようにイングランド銀行は現在の中央銀行の役割を担い、財政は安定し健全化していきました。
その結果、ロンドンは世界金融の中心となり、イングランド銀行は「世界の銀行」と評されました。
この資金力が植民地戦争におけるイギリスの勝利と産業革命のベースとなります。
■王は君臨すれど統治せず
メアリ2世、ウィリアム3世没後、メアリ2世の妹にあたるアン女王が王位に就きます。
1707年、イングランドとスコットランドの間で合同法が成立し、同君連合ではなく、議会や行政組織をひとつにする合同が成立。
実質的にイングランドによる併合でしたが、グレートブリテン王国が誕生して現在のイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)に一歩近づきました。
1714年、アン女王が亡くなるとステュアート朝が断絶。
議会は遠縁にあたるドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒを呼び寄せてジョージ1世として即位させます(ハノーヴァー朝)。
ジョージ1世はすでに50を超えており、ハノーヴァーが大北方戦争の最中であったためドイツ滞在が長く、英語も話せませんでした。
そのためイギリスには関心が薄く、やがて内閣に政治を委任。
内閣は国王ではなく議会に対して責任を負う責任内閣制が浸透し、「王は君臨すれど統治せず」というイギリス型の立憲政体が定着していきます。
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<英仏植民地戦争/第2次百年戦争>
■英仏のアメリカ入植
17~18世紀にかけてポルトガル→スペイン→オランダに続く海上帝国の覇権を争ったイギリスとフランスの新世界における争いを見てみましょう。
フランスはカナダのケベック①やグラン・プレ②などに入植すると、ルイ14世の時代にアメリカ南部~中部~西部に至る広大な土地を獲得し、ルイの名前にちなんで「ルイジアナ」と命名します。
一方イギリスは、アメリカ東岸にヴァージニアを開拓。
このヴァージニア植民地を目指し、迫害を受けていたピューリタンたちがイギリス本土を捨ててアメリカ移住を開始します。
その発端が1620年にメイフラワー号に乗ってニュープリマスに到着したピルグリム・ファーザーズです。
移民たちは理想的なキリスト教国家の創設を目標に、先住民との戦いや交渉を繰り返して領地を拡大。
これがニューイングランドをはじめとする植民地のベースとなります。
17世紀、第2次イギリス=オランダ戦争に勝利すると、イギリスはオランダの植民地ニューネーデルラントを獲得し、中心都市ニューアムステルダムをニューヨークに改称。
こうしてアメリカ東岸はほぼイギリスが奪い、13の植民地が南北に連なります。
※①世界遺産「ケベック旧市街の歴史地区(カナダ)」
②世界遺産「グラン・プレの景観(カナダ)」
■アメリカを巡る植民地戦争
三角貿易 "Triangular Trade" の概説
両国の戦いが本格化するのが17世紀後半以降です。
ヨーロッパでプファルツ戦争(1688~97年。大同盟戦争)が戦われている最中にアメリカでウィリアム王戦争(1689~97年)が勃発。
続いてスペイン継承戦争(1701~13年)のときにアン女王戦争(1702~13)が起き、1713年のユトレヒト条約でイギリスはニューファンドランドやアカディア、ハドソン湾などを獲得しました。
この結果、アメリカ大陸に関してイギリスは黒人奴隷貿易をほぼ独占。
イギリスで工業製品や武器を積み込み、アフリカで黒人奴隷に換え、さらにアメリカで綿花やタバコ・砂糖・コーヒーに交換してイギリスに運ぶ「三角貿易」によって莫大な利益を上げました。
さらに、オーストリア継承戦争(1740~48)時にはジョージ王戦争(1744~48年)が勃発。
七年戦争(1756~63年)の際にはフレンチ=インディアン戦争(1754~63年)を争いました。
フレンチ=インディアン戦争でフランスは先住民を味方につけてイギリスと交戦。
当初は戦況を優位に運ぶも、イギリスが本格的に軍を投入すると形勢は逆転し、1763年にイギリスが勝利しました。
同年のパリ条約においてイギリスはカナダとミシシッピ川以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガルを獲得。
スペイン領であるハバナ①やマニラ②も占領していましたが、これらをスペインに返還する代償としてフロリダを手に入れました。
一方、スペインはフランスからミシシッピ川以西のルイジアナを獲得し、この結果フランスはアメリカ大陸のほとんどの植民地を失いました。
※①世界遺産「オールド・ハバナとその要塞群(キューバ)」
②世界遺産「フィリピンのバロック様式教会群(フィリピン)」
■インドを巡る植民地戦争
両国の争いはインドでも起こっていました。
イギリスはアンボイナ事件で東南アジアから撤退して以来、インドの経営に集中していました。
一方のフランスも1664年にコルベールがフランス東インド会社を再建してインドに進出していました。
ムガール帝国が弱体化すると内紛・反乱が頻発し、両国の進出・対立も深まります。
南インドでは3度にわたるカーナティック戦争が勃発(第1次:1744~48年、第2次:1750~54年、第3次:1758~61年)。
第1次、第2次はフランスがイギリスを圧倒しますが、第3次はイギリスの勝利に終わります。
1757年にはベンガル地方でプラッシーの戦いが起こり、クライヴ率いるイギリス東インド会社の傭兵部隊がフランス軍を打ち破ります。
この一連の戦いでフランスはインド支配から脱落し、フランスは世界貿易から大きく後退します。
一方、イギリスはベンガル地方の支配を固めて徴税権を獲得し、インドの植民地化を進めていきます。
18世紀のこうした戦いによりイギリスは英仏植民地戦争(第2次百年戦争)に勝利して、ヨーロッパ、アメリカ、インドにおける覇権を確保。
フランスの第1植民地帝国が終了する一方で、イギリスは植民地のいずれかには日が照っているという「太陽の沈まぬ帝国」=第1帝国を完成させました。
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次回はプロイセンとロシアの台頭を紹介します。