世界遺産と世界史27.モンゴル帝国
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<歴代の巨大帝国>
■史上もっとも広い領域を支配した国はどこか?
世界史上、もっとも広い領域を支配した国はどこでしょうか?
国や領土の捉え方でさまざまな見方ができるため、ひとつの答えを示すことはできません。
上の動画の場合、以下のような順番になっています。
- イギリス:最盛期は19~20世紀の第2帝国。カナダ、オーストラリア大陸、インド亜大陸、アフリカのエジプト~南アフリカに至るライン上の国々を支配し「太陽の沈まぬ帝国」を築きました
- モンゴル帝国:ユーラシア大陸の3割以上を占めた大帝国。陸続きの領土としては文句なしに史上最大ながら、最大版図を築いた13世紀後半には実質的には分裂していました
- ロシア帝国:現在世界最大を誇るロシア領に加えてウクライナやバルト3国、コーカサス諸国、中央アジアなどの旧ソ連領や、モンゴル、アラスカも治めていました
- ソビエト連邦:おおよそロシア帝国からアラスカやモンゴルを除いた大領域ですが、人口密度が低い北極圏やツンドラ、タイガなども少なくありません
- スペイン:特にスペイン・ハプスブルク家が築いた海上帝国の時代で、スペイン、ポルトガル、オランダ、シチリア等のヨーロッパ、北~南アメリカ、フィリピン等を領有して「太陽の沈まぬ帝国」といわれました
- ウマイヤ朝:中央アジア、西アジア、北アフリカ、ヨーロッパのイベリア半島を支配下に治め、イスラム教を広めました。イスラム諸国では最大を誇ります
- 元:1271年にフビライはモンゴル帝国の国号を中国風に元に改めました。この時代、すでに帝国は分裂しており、中国とその周辺に限られています
- 清:現在の中国に加えてモンゴルや中央アジアまで含まれます。中国最後の王朝で、最後は列強に切り刻まれて皇帝位は廃位されました。元より清の方が大きかったとする説もあります
- フランス:最大になったのはナポレオンやナポレオン3世没後、北・西・中央アフリカやマダガスカル、インドシナなどを押さえて第2植民地帝国を築いた時代です
- アッバース朝:ウマイヤ朝滅亡後のイスラム帝国で、中央アジア、西アジア、北アフリカの多くを押さえてアラブ人以外にもイスラム教を広めていきました
これらに続くのがポルトガル(ブラジルを領有)やロシア・ツァーリ国、突厥、アレクサンドロス帝国、大日本帝国といったところです。
多くの場合、超大国は先進的な文明がもたらした圧倒的な軍事力によって誕生します。
一例を挙げると、アレクサンドロス帝国の重装歩兵ファランクスや重装騎兵ヘタイロイ、大航海時代のスペイン帝国やポルトガル王国の大型船や銃・火薬・騎馬、産業革命以降の帝国主義国家であるイギリスやフランス、大日本帝国の重火器や大量生産された銃火器等々です。
では、陸続きの大地を史上最大規模で征服したモンゴル帝国の強さはどこにあったのでしょうか?
■モンゴル帝国の強さ
映画『チンギス・ハーン』予告編
モンゴル帝国の強さとして、よく挙げられるのは以下のような理由です。
○モンゴル帝国の強さを支えた要因
- ウマの質・量
- モンゴル弓の性能
- 騎兵の熟練度・作戦能力
- 中国や中東の先端技術
- 非情さと心理戦術
- 千戸制
モンゴル人が飼育していたウマは小さく短足である代わりに持久力にすぐれ、長距離移動に適していました。
これをひとり数頭持ち、ウマが疲れると乗り換えることでスピードを緩めずに移動しました。
1日の移動距離は平均的な軍隊の2~3倍に及ぶ約70kmで、場合によっては敵の伝令よりも早く到達したといいます。
そしてモンゴル人が使っていたのはコンポジット・ボウ(合成弓)と呼ばれる小型の弓で、木に動物の腱や皮を張っており、小さい割に非常に強力で軽い矢を遠くに飛ばして使用しました。
身軽なモンゴル騎兵や弓騎兵は準備が整う前に相手を取り囲み、ハイエナのように弱点を見つけ出してそこをいっせいに攻撃しました。
重装歩兵や重装騎兵のような強力な兵隊で守ろうとしても、やって来てはすぐに消え去る弓騎兵によって弓のいっせい射撃を浴び、動けば騎兵に容易に側面や背後を取られました。
子供の頃からウマとともに生活し、仲間同士以心伝心で動物たちを囲み、部族間闘争に慣れたモンゴル人は生まれながらの騎兵で、騎馬戦術の習熟度は他国の比ではありませんでした。
また、モンゴル人はシルクロード①②を介して中国や中東の文化をよく知っており、火薬やカタパルト(投石機)といった新兵器をいち早く導入しました。
ヨーロッパ戦線では神出鬼没の騎馬兵が謎の兵器(爆薬)を放ち、爆音と煙幕で敵を混乱に陥れたと伝えられています。
日本を襲った元寇で陶器に爆薬を詰めた鉄砲(てつはう)が用いられたのは有名です。
南宋攻略ではイスラム圏から技術者を呼び寄せて「回回砲」という当時世界最強を誇った火薬弾投石機まで投入しました。
また、モンゴル軍は残虐非道なことでも知られていました。
逆らった都市は徹底的に破壊し、住民を虐殺。
残った者を先頭に立たせて次の城に向かい、城の堀を死体で埋め尽くしてからその上を渡ることもあったといいます。
元寇の際も、その先頭に立っていたのは高麗や金・南宋の軍人でした。
こうした逸話が恐怖を生み、敵を恐れさせ、戦意を喪失させました。
1241年、リーグニッツでの戦いでモンゴルは10万以上のヨーロッパ兵を殺害したといわれます。
そのためこの戦はドイツ語で「ワールシュタット(死体の山)の戦い」とも呼ばれています。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
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<モンゴル帝国>
モンゴル帝国の版図の推移。分裂後、黄色のGolden Horde=キプチャク・ハン国、緑色のIl Khanate=イル・ハン国、青色のChagatai Khanate=チャガタイ・ハン国、色変化のないYuan China=元
■チンギス・ハン
女真族が建てた金の下で奴隷階級にあえいでいたモンゴル人たちは、部族の壁を越えて団結を進めていました。
その中で頭角を現したのがテムジンで、1206年にモンゴルの長老集会クリルタイでハン(汗。カン。君主)の地位に就き、チンギス・ハンを襲名しました。
チンギス・ハンはそれまでの部族制を改めて千戸制を敷きます。
千戸制では10戸ごとに十戸長を置き、10人の十戸長の上に百戸長、10人の百戸長の上に千戸長を設け、それぞれの責任を明確化しました。
規律は非常に厳格で、ミスに対して戸長は死刑をはじめとする厳罰に処され、団体責任も負わされた一方で、手柄は部族や人種に関係なく評価されました。
モンゴル高原を統一したチンギス・ハンは、まずは隣接する西夏・金と開戦。
1215年に金の首都・燕京を落としますが、金は直前に首都を開封に遷して難を逃れました。
チンギス・ハンは金攻略を部下に任せ、自らは大西征=シルクロード攻略を開始します。
まずは中央アジアの西遼(カラ・キタイ)を攻め、1218年に攻略。
続いてホラズム・シャー朝を攻め、首都サマルカンド①や旧首都クニヤ・ウルゲンチ②、ブハラ③を攻略すると跡形もなく破壊し、数百万の住民を虐殺します。
ホラズム・シャー朝の王族はロシアやインドへ逃走し、チンギス・ハン没後の1231年に滅亡しました。
ホラズム・シャー朝を攻略したチンギス・ハンは再び目を東に転じ、1227年にチベット系の西夏を滅ぼしますが、同年に急死します。
※①世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン)」
②世界遺産「クニヤ・ウルゲンチ(トルクメニスタン)」
③世界遺産「ブハラ歴史地区(ウズベキスタン)」
[関連サイト]
■バトゥの西征
チンギス・ハンの一族をまとめておきましょう。
丸数字がハンです。
○チンギス・ハン①の一族
- ジュチ[長男]-バトゥ[ジュチの次男]
- チャガタイ[次男]
- オゴタイ②[三男]-グユク③[オゴタイの長男]、ハイドゥ[オゴタイの五男カシの子]
- トゥルイ[四男]-モンケ④[トゥルイの長男]、フビライ⑤[同四男]、フラグ[同五男]、アリクブケ[同六男]
長男ジュチの父はチンギス・ハンではないという話があり、次男チャガタイは人望がなく、第2代ハンに就いたのは三男のオゴタイです。
この辺りは必ず長男が跡を継ぐ漢民族の王朝とは対照的です。
オゴタイはチンギス・ハンの遺志を継いで金を攻め、南宋と同盟して1234年にこれを攻略。
1235年には首都カラコルム①を建設します。
また、バトゥに命じてチンギス・ハンの西征を継続させました。
1236年、総司令官の地位を与えられたバトゥはカスピ海の北を通ってヨーロッパに侵入します。
この頃、キエフ公国は分裂して複数の公国・大公国が並立していましたが、これらルーシ諸国を次々と破って1240年にはルーシの中心キーウ(キエフ)②を攻略します。
その勢いのままバトゥはハンガリー王国、ポーランド王国に攻め込み、クラクフ③を占拠。
1241年4月9日、モンゴル軍はリーグニッツでポーランド王国、神聖ローマ帝国、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団といったヨーロッパ連合軍と対峙し、これを散々に打ち破りました(ワールシュタットの戦い/リーグニッツの戦い)。
このあとモンゴル軍はハンガリー王国の首都オーブダ(現・ブダペスト)④を落とし、神聖ローマ帝国の帝都ウィーン⑤に迫りますが、オゴタイ急死の報告を受けてバトゥは撤退します。
※①世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観(モンゴル)」
②世界遺産「キーウ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キーウ・ペチェールスカヤ大修道院(ウクライナ)」
③世界遺産「クラクフ歴史地区(ポーランド)」
④世界遺産「ブダペストのドナウ河岸とブダ城地区及びアンドラーシ通り(ハンガリー)」
⑤世界遺産「ウィーン歴史地区(オーストリア)」
■タタールの軛
オゴタイの死後、第3代ハンはなかなか決まらず、約5年後にグユクがその座に就きます。
グユク就任に反対していたバトゥはモンゴルに戻らず、病気を理由に東ヨーロッパ高原に滞留。
カスピ海の北、ヴォルガ川沿いの首都サライやブルガール①を拠点としたバトゥの支配地がキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)です。
キプチャク・ハン国は配下のルーシ諸国に納税させ、軍役を課しました。
これを行う限り干渉は少なかったのですが、怠れば即座に討伐されました。
このようなモンゴル人(タタール人)の支配体制を「タタールの軛(くびき)」といいます。
ちなみにこの頃、小さな地方都市ながらキプチャク・ハン国の徴税官として力をつけ、急速に力を伸ばしたのがモスクワ②で、1263年にはモスクワ大公国に成り上がりました。
グユクがわずか2年で死去すると、第4代ハンにモンケが就任します。
この時点で権力の座はオゴタイ家からトゥルイ家に移行。
中央アジアを拠点としていたオゴタイ家、チャガタイ家は次第に中央の統制から離れます。
国内を平定したモンケは、弟のフビライとフラグを総司令官にそれぞれ東アジア・西アジアの攻略を命じます。
※①世界遺産「ブルガールの歴史的考古学的遺跡群(ロシア)」
②世界遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場(ロシア)」
■フラグの西征
1253年に西征を開始したフラグはペルシアの勢力を次々と撃破すると、1258年には最大の標的であるアッバース朝の首都バグダード①を包囲。
イスラム教最高指導者でありアッバース朝の王であるカリフ、ムスタアスィムを殺害し、バグダードを徹底的に破壊・略奪・虐殺します。
さらにフラグはアッバース朝の軍隊やテュルク系(トルコ系)奴隷兵士マムルークの傭兵部隊を吸収してシリアに侵攻し、アレッポ②、ダマスカス③を攻略。
イスラム勢力最後の砦、エジプトのマムルーク朝攻略を目指して聖地エルサレム④の目前まで迫りましたが、モンケの病死によって撤退し、とりあえずタブリーズ⑤に引き返します。
フラグと本隊は撤退しましたが、その部下キト・プカはシリアに留まり、戦を継続。
マムルーク朝に戦いを挑みますが、1260年、アイン・ジャールートの戦いでマムルーク朝第4代スルタン・クトゥズとバイバルス(後の第5代スルタン)連合軍に敗れてしまいます。
これによりモンゴル帝国の不敗神話は破られ、西への勢力拡大は終了します。
フラグはこのあとタブリーズを首都にイル・ハン国を打ち立てます。
※①イラクの世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「古代都市アレッポ(シリア)」
③世界遺産「古代都市ダマスカス(シリア)」
④世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
⑤世界遺産「タブリーズの歴史的バザール複合体(イラン)」
■フビライの南征
続いてフビライ(クビライ)です。
フビライは南宋を包囲するために1254年にチベットと大理を攻略。
1259年には高麗を服属させて日本にも降伏を勧告しますが、鎌倉幕府の執権・北条時宗に拒否されます。
フビライの遅攻にしびれを切らしたモンケは自ら南宋の攻略を開始。
しかしながら1259年、病気を患って急死してしまいます。
モンケの弟であるフビライ、アリクブケはそれぞれクリルタイを開催してハンを名乗って対立。
結局アリクブケは降伏し、こちらもまもなく病死します。
1260年、正式に第5代ハンに就いたフビライは1264年に大都(現在の北京)に遷都し、それ以前に建設していた上都①を夏の離宮として両都を整備。
また、1271年には年号を中国風に元に定め、中国化を進めました。
モンゴルを統一したフビライは、再び南宋攻略に着手。
南宋最大の防衛拠点である襄陽(じょうよう)と樊城(はんじょう)攻略に手こずりますが、イスラムの軍事専門家を招聘して回回砲という当時最先端の火薬弾投石機を投入し、5年を経て攻略に成功します(襄陽・樊城の戦い)。
1276年に首都・臨安(現在の杭州②)を落とし、1279年に宋は滅亡しました。
この時代にモンゴル帝国最大版図が成立しています。
※①世界遺産「上都[ザナドゥ]の遺跡(中国)」
②世界遺産「杭州西湖の文化的景観(中国)」
■周辺諸国の反攻
少しさかのぼって1274年、配下に収めた高麗軍を先頭に日本を攻めるも(元寇:文永の役)、日本軍の抵抗と暴風の影響で遠征に失敗。
1281年には南宋軍を加えて攻め込みますが(元寇:弘安の役)、これも同様に退けられます。
フビライはベトナム北部の大越・チャン朝(陳朝)、ベトナム南部のチャンパー王国に対しても遠征を実施。
チャン朝は一時首都タンロン①(昇竜)を奪われますが、ジャングルやハロン湾②を利用したゲリラ戦を展開してこれを奪還。
チャンパーは海から攻撃を受けますが、チャン朝と同盟して打ち破ります。
元軍はインドネシア方面にも進出してジャワ島のシンガサリ王国を滅ぼしますが、元に協力して成立したマジャパヒト王国の裏切りにあって敗退。
ロシア北部のノヴゴロド公国攻略ではタイガやツンドラに、インド北部のデリー・スルタン朝との戦いではヒマラヤ山脈と熱帯雨林に、インド西部では砂漠とラージプート族の要塞群に前進を阻まれます。
ただ、ミャンマーのバガン朝(首都バガン③)はモンゴル軍の侵入を防いだものの、内部分裂によって滅亡しています。
※①世界遺産「ハノイ-タンロン王城遺跡中心地区(ベトナム)」
②世界遺産「ハロン湾=カット・バー群島(ベトナム)」
③世界遺産「バガン(ミャンマー)」
[関連サイト]
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<モンゴル帝国の分裂>
■4国分裂
中央アジアのオゴタイ家、チャガタイ家はフビライの指示を聞かず、ほとんど独立していました。
第5代ハンの後継者争いではアリクブケを支持し、フビライがハンを継承すると1261年にオゴタイ家のハイドゥが反旗を翻します(ハイドゥの乱)。
ハイドゥはオゴタイ家、アリクブケ家、モンケ家などの支持を得てフビライに抵抗。
フビライは討伐を行いますが、1294年に亡くなるまでハイドゥを討つことはできませんでした。
1301年にハイドゥが亡くなるとチャガタイ家が一帯の支配を継ぎ、アルマリクを首都にチャガタイ・ハン国が成立。
この時点でモンゴル帝国は元、キプチャク・ハン国、イル・ハン国、チャガタイ・ハン国の4か国に分裂します。
以下、それぞれその後を見ていきましょう。
<元>
フビライの死後、孫のテムルが跡を継ぎますが、そのテムルもまもなく死去。
このあと血で血を洗う後継者争いが勃発し、各地で反乱が相次ぎます。
最大の反乱が1351年、仏教の一派である白蓮教徒の起こした紅巾の乱で、反乱軍は首都・大都を占領して元軍を北へ追い出しました。
白蓮教徒のひとり、朱元璋(しゅげんしょう)は各地の反乱を平定し、1368年に皇帝位に就いて明を建国します。
<キプチャク・ハン国>
キプチャク・ハン国でも時間が経つごとに統制は緩み、15世紀にはカザン・ハン国やクリミア・ハン国といった国々が独立。
モスクワ大公国も貢納を停止し、遠征を行いましたがイヴァン3世に退けられました。
急速に弱体化したキプチャク・ハン国は1502年にクリミア・ハン国に吸収されて滅亡します。
<イル・ハン国>
次第にペルシア化が進み、1300年前後、カザン・ハンの時代にイスラム教に改宗し、イスラム王朝となります。
カザン・ハンの弟・オルジェイトゥは首都をソルターニーエ※へ遷都。
その後イル・ハン国は分裂しますが、これらの国々はティムールによって統一されます。
※世界遺産「ソルターニーエ(イラン)」
<チャガタイ・ハン国>
時間が経つにつれて土着の文化との融合が進んでトルコ化・イスラム化が進み、中央の統制が緩むと14世紀に東西に分裂します。
14世紀、西チャガタイ・ハン国に登場するのがティムールです。
幼少期からその才能を見出されていたティムールは、フサインとともに1364年に共同ハンに就任。
フサインが失脚するとティムール朝を建て、東西チャガタイ・ハン国を統一します。
■ティムール朝
ティムール朝の版図の推移
ティムールは世界中から優秀な建築家や学者を集め、チンギス・ハンによって廃墟となった首都サマルカンド①を再興しました。
また、ティムールが生まれた第2の都市シャフリサブス②はサマルカンドの「青の都」に対して「緑の都」と呼ばれ、ティムール最大の建造物といわれる夏の離宮アク・サライが建てられました。
ティムールが目指したのはモンゴル帝国の再興です。
外征に乗り出し、ペルシア(現在のイラン)をほぼ制圧。
インドに攻め入ってモンゴル帝国も手こずったデリー・スルタン朝(トゥグルク朝)を打ち破り、首都デリー③を占領します。
さらに、東ヨーロッパではキプチャク・ハン国に侵入して首都サライを破壊しました。
西アジアでは1402年に小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島)のオスマン帝国、バヤジッド1世を撃破(アンカラの戦い)。
後に大帝国を築くオスマン帝国ですが、このときは滅亡寸前に追い込まれました。
さらに、南下してエジプトのマムルーク朝と対峙。
しかしながらこの頃体調が悪化し、国内の反乱も増えたため、ここで撤退。
1405年に病没し、遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に葬られました。
このあとティムール朝は次第に細分化し、1507年に滅亡します。
※①世界遺産「サマルカンド-文化交差路(ウズベキスタン)」
②世界遺産「シャフリサブス歴史地区(ウズベキスタン)」
③世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド)」
[関連サイト]
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次回はオスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国を紹介します。