世界遺産と世界史24.イスラム教の拡散
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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<インドのイスラム教>
■世界のイスラム教徒
世界には約15億のイスラム教徒がいるといいます。
キリスト教徒の約23億に次ぐ数字で、ヒンドゥー教徒の約10億が続いています。
イスラム教徒の人口が多い国は、インドネシア>パキスタン>インド>バングラデシュ>エジプト>ナイジェリア>イラン>トルコ、となっています。
インドネシアは約2億、パキスタンとインドは約1.8億で、人口で見た場合、イスラム教徒は西アジアよりも東南アジアや南アジアに多いことがわかります。
ただ、人口に占めるイスラム教徒の割合で見ると西アジアはさすがに高く、サウジアラビアやUAE、オマーン、イエメンあたりはほぼ100%。
パキスタン、イラン、トルコで95%以上、インドネシアは90%弱、対してインドは11%少々です。
以下ではイスラム教のインド、東南アジア、東アフリカ、西アフリカへの展開を見てみましょう。
■ラージプート時代
この頃インドとパキスタン国境近く、現在のラジャスタン州に移住してきたのがラージプートと呼ばれる人々です。
もともと遊牧民族だったようで、独立志向が高く、戦闘にも強くて好戦的であったと伝えられています。
ヒンドゥー教を信奉しており、インド西部の乾燥地帯に強力な城塞を建設して城郭都市群①を築きました。
ラージプートの都市国家のいくつかは領域国家を構成し、たとえば10~13世紀に栄えたプラティハーラ朝などは一時インドの多くを支配しました。
しかし大きく安定した統一王朝はなかなか継続せず、チャウハン朝、チャンデッラ朝などの王朝が起こっては消えていきました。
ちなみに、チャウハン朝の首都遺跡がチャンパネール=パーヴァガドゥ②で、チャンデッラ朝の都が男女交合像ミトゥナやセクシーな女神像・女人像で知られるカジュラホ③です。
7~13世紀、ラージプートを中心とした群雄割拠の時代をラージプート時代と呼びます。
この時期、サーマーン朝やホラズム・シャー朝などイスラム王朝が盛んにインド進出を試みますが、それをインド西部で阻みつづけたのがラージプート諸国です。
※①世界遺産「ラジャスタンの丘陵要塞群(インド)」
②世界遺産「チャンパネール=パーヴァガドゥ考古公園(インド)」
③世界遺産「カジュラホの建造物群(インド)」
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■デリー・スルタン朝
デリー・スルタン朝の版図の推移
1117年、中央アジアにペルシア人王朝ゴール朝が興り、インドへ進出します。
チャウハン朝、チャンデッラ朝といったラージプート諸国を次々と倒し、ガンジス川流域を中心に北インドの大半を征服します。
13世紀初頭、ホラズム・シャー朝の圧力を受けてゴール朝はそのまま解体。
ゴール朝の総督として北インドを治めていたアイバクは、1206年、自らスルタンを名乗ってイスラム王朝を建国します。
このインド初のイスラム王朝は、アイバクがテュルク系(トルコ系)奴隷兵士マムルークであったことから奴隷王朝と呼ばれています
アイバクはヒンドゥー教寺院を改修してインド初のモスク、クワット・イル・イスラム・モスク※と、隣接してミナレットであるクトゥブ・ミナール※を建てています。
この後デリーを首都に、奴隷王朝→ハルジー朝→トゥグルク朝→サイイド朝→ロディー朝と、イスラム王朝が入れ替わります。
16世紀、ムガル帝国に統一されるまで続くこれらの王朝をまとめてデリー・スルタン朝と呼びます。
※世界遺産「デリーのクトゥブ・ミナールとその建造物群(インド)」
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■イスラム教勢力の南進
南インドに目を向けてみましょう。
ラージプート時代、南インドでもドラヴィダ人を中心とするヒンドゥー王朝が盛衰を繰り返していました。
一例としてはチャールキヤ朝、パッラヴァ朝、チョーラ朝などが挙げられます。
チャールキヤ朝の王族が暮らした都がパッタダカル①、パッラヴァ朝の首都がマハーバリプラム②、チョーラ朝の首都がタンジャーヴール③で、それぞれのヒンドゥー教の歴史都市が世界遺産に登録されています。
13世紀にデリー・スルタン朝が興ると、特にトゥグルク朝の時代に版図を広げ、南インドにまで進出します。
これに対して南インドのヒンドゥー王朝が集まって反イスラムで連合。
ヴィジャヤナガル朝を建て、国境付近に「勝利の都」を意味する首都ヴィジャヤナガル④を建設します。
この王朝は海のシルクロード⑤⑥を押さえて莫大な富を得、ヴィジャヤナガルはヨーロッパに鳴り響くほどに繁栄します。
しかし1565年、イスラム軍はターリコータの戦いでヴィジャヤナガル軍を破り、首都を徹底的に破壊。
まもなく王朝は滅亡し、ヒンドゥー諸国も次第にムガル帝国に吸収されていきます。
※①世界遺産「パッタダカルの建造物群(インド)」
②世界遺産「マハーバリプラムの建造物群(インド)」
③世界遺産「大チョーラ朝寺院群(インド)」
④世界遺産「ハンピの建造物群(インド)」
④世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
⑤世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
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<東南アジアの仏教国>
本章に関係するのはだいたい03:00~です。Pagan=バガン朝、Dali=大理、Sukothai=スコータイ、Mongol Empire=モンゴル帝国、Yuan=元、Khmer Empire=アンコール朝、Lan Xang=ラーンサーン王国、Lanna=ラーンナー王国、Ayutthaya=アユタヤ朝、Ming=明、Toungoo=トゥングー朝、Dan Viet=大越
■バガン朝と上座部仏教
インドシナ半島の歴史も見てみましょう。
1044年、それまで栄えていたピュー王朝の都市国家群①を滅ぼし、あるいは同化してビルマ人がバガン朝を建国します。
バガン朝はスリランカから僧を呼び寄せたり留学生を送ったりして交流を深め、上座部仏教を吸収しました。
信者たちは自分の財産をなげうってストゥーパや寺院を建立して寄進しました。
バガン朝の首都だったバガン②には3,000以上に及ぶパヤー(ストゥーパ)やパトー(寺院)が林立していますが、これらはこうして寄進されたもので、その数は現在も増えつづけているといいます。
ミャンマーの地ではこの後、アヴァ朝、タウングー朝、コンパウン朝と上座部仏教国が政権を取りつづけます。
※①世界遺産「ピュー古代都市群(ミャンマー)」
②世界遺産「バガン(ミャンマー)」
[関連サイト]
世界遺産と建築23 仏教建築3:上座部仏教編(スリランカ、東南アジア)
■タイ族の3王朝
13世紀、もともと中国の雲南省近辺で暮らしていたタイ人が、モンゴル帝国(元朝)の圧力を受けて南へと移動。
クメール人のアンコール朝の力が衰えると、12~13世紀に現在のタイ北部で上座部仏教国であるラーンナー王国(首都チェンマイ①)やスコータイ朝(首都スコータイ②)を建国します。
さらに南下したタイ人の一派は、1351年、チャオプラヤー川沿いにウートーン王を掲げてアユタヤ朝(首都アユタヤ③)を建国。
アユタヤ朝はアンコール朝を攻撃して首都ヤショダラプラ(アントール)④を落とし、1431年にアンコール朝は滅亡。
1438年にはスコータイ朝を吸収して現在のタイの原型を作りました。
これらの国々が採用した宗教が上座部仏教です。
14世紀、スコータイ朝のリタイ王は一時的に出家して「タンマラーチャー(仏法王)」を名乗ると、これ以降、タイの国王は仏教の守護者にして寺院の統括者であるという立場を確立し、現在に引き継がれています。
※①タイの世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「歴史都市スコータイと関連の歴史都市群(タイ)」
③世界遺産「歴史都市アユタヤ(タイ)」
④世界遺産「アンコール(カンボジア)」
[関連サイト]
世界遺産と建築23 仏教建築3:上座部仏教編(スリランカ、東南アジア)
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<海洋アジアのイスラム化>
■マレー半島とスンダ列島に広がるイスラム教
東南アジアにおいて、イスラム化が進むのは主にマレー半島(現在のシンガポール、マレーシアのある半島)やスンダ列島(マレー半島の先に連なる現在インドネシアに所属する島々)です。
マレー半島は太平洋とインド洋を分ける東南アジアの南端にあり、中国をはじめとする東アジアと、インド・中東などの南アジア・西アジアをつなぐ「海のシルクロード(シーロード)」の要衝として発達しました。
海のシルクロードが特に発達するのは7世紀以降、イスラム商人が絹を求めて大規模な貿易をはじめてからです。
13世紀にデリー・スルタン朝がはじまり、インドがイスラム化する過程でこれらの地域にもイスラム教が伝えられました。
ジャワ島では8~15世紀までヒンドゥー教国が続きますが、1478年にイスラム教を奉じるマタラム王国が建国されます。
スマトラ島では7世紀に興った大乗仏教国シュリーヴィジャヤ王国の時代が続いていましたが、14世紀にマジャパヒト王国の攻撃を受けて滅亡。
この頃イスラム教徒が勢力を伸ばし、地方にはアチェ王国などのイスラム王朝が成立しました。
シュリーヴィジャヤ王国最後の王パラメスワラはマレー半島に渡り、1402年、マラッカ王国(首都ムラカ※)を建国します。
1414年にはイスラム教に改宗してイスラム商人と手を結び、明の中国商人を優遇して取り込むことに成功。
海のシルクロードの実権を握ります。
こうしてマレー半島とスンダ列島の多くがイスラム化していきます。
※世界遺産「ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の歴史都市群(マレーシア)」
[関連サイト]
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<アフリカのイスラム教>
■インド洋交易
アフリカにおけるイスラム教拡大の様子を見てみましょう。
まずは東アフリカです。
この地域では、夏は東アフリカからアラビア半島に向けて、冬は逆にアラビア半島から東アフリカへとモンスーン(季節風)が吹きます。
紀元前10世紀頃にはこの風を利用して東アフリカと西アジアを結ぶインド洋交易が行われていました。
東アフリカ-アラビア半島-インド-東南アジア-中国は直接ではないにせよつながりを持っていました。
特に交易が盛んになるのは8世紀以降、アッバース朝がジェッダ①をはじめ各地に港を開き、インド洋交易を奨励して以降です。
アラブ人が大々的に交易を開始すると、東アフリカでも東南アジアと同様、港市(こうし)が発達します。
これらの都市ではアフリカから金や象牙を輸出し、アラブやインドからは陶磁器や織物・ガラス類・香辛料を輸入しました。
そしてアラブ人が入植をはじめ、アラブ文化とともにイスラム教が広がりました。
ザンジバルのストーンタウン②に見られる石造りの高層建築や、出窓やドアに見られるイスラム文様アラベスクの見事な装飾はアラブのイスラム美術を持ち込んだものです。
このように東アフリカで見られるイスラムと土着の融合文化をスワヒリ文化といいます。
※①世界遺産「ジェッダ歴史地区:メッカへの玄関口(サウジアラビア)」
②世界遺産「ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア)」
○東アフリカの港市と関係した世界遺産の例
- ラム旧市街(ケニア)
- モンバサのジーザス要塞(ケニア)
- ゲディの歴史地区と考古遺跡(ケニア)
- キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(タンザニア)
- ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア)
- モザンビーク島(モザンビーク)
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■サハラ交易
続いて西アフリカです。
3~4世紀にラクダの家畜化が普及するとオアシス都市を結んでサハラ砂漠の縦断が可能になりました。
特に重要な役割を果たしたのが遊牧民族ベルベル人です。
彼らがもっとも重視した交易品が塩と金。
サハラ砂漠北部の塩田で産出される塩は内陸部へ運ばれ、代わりに内陸部で産出する豊富な金が北へと運ばれました(塩金交易)。
7世紀、このサハラ交易によって栄えたのがガーナ王国です。
ガーナ王国はサハラ北部のオアシス都市と内陸部をつないで富を築きました。
北アフリカはウマイヤ朝が支配して以降、急速にイスラム化していきますが、この交易路を通って西アフリカにもイスラム文化がもたらされました。
11世紀にはベルベル人のイスラム王朝ムラービト朝が興り、ガーナ王国を攻めてこれを滅ぼします。
ベルベル人はイドリース朝、アグラブ朝、ムラービト朝、ムワッヒド朝などのイスラム王朝を建て、ムラービト朝やムワッヒド朝は西アフリカ深くまで版図を広げ、イスラム教を広めました。
サハラ砂漠のオアシス都市の特徴がよく表れているのがアイット=ベン=ハドゥ①です。
カスバと呼ばれる高層建築を並べて城壁とした城郭都市=クサルのひとつで、ベルベル人たちはこのようなクサルを要所に築いて交易路を確保しました(カスバ街道)。
シンゲッティ②もそんなクサルのひとつで、モスクやマドラサ(モスク付属の高等教育機関)が整備されて西アフリカの宗教と学問の拠点となりました。
※①世界遺産「アイット=ベン=ハドゥの集落(モロッコ)」
②世界遺産「ウワダン、シンゲッティ、ティシット及びウワラタの古い集落(モーリタニア)」
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■マリ王国、ソンガイ王国
マリ王国とソンガイ王国の版図の推移
この頃、サハラ砂漠の南端で栄えていたのがニジェール川流域にベルベル人の一派トゥアレグ人が建てた「黄金の都」トンブクトゥ①と、その上流約300kmに位置する「ニジェール川の宝石」ジェンネ②です。
両都市はガーナ王国やムラービト朝、ムワッヒド朝と盛んに交易を行って繁栄しました。
12世紀に入るとマンディンカ人がマリ王国を建国。
そしてトンブクトゥやジェンネを支配してサハラ交易の中心を担いました。
13世紀にはイスラム化が進み、トンブクトゥやジェンネは土着の文化とアラブ文化が融合した特有の景観を生み出しました。
マリ王マンサ・ムーサは人類史上最大の資産家といわれます。
1324~25年にかけて数千~数万の付き人を従えてメッカ巡礼を行いますが、カイロ③で莫大な黄金を寄付すると金相場は暴落し、以後10年にわたってインフレが収まらなかったといいます。
15世紀にはソンガイ人のソンガイ王国が興ってマリ王国を支配。
首都ガオはやはり塩金交易で繁栄し、国王アスキア・ムハンマドをはじめとする王墓群④が築かれました。
※①世界遺産「トンブクトゥ(マリ)」
②世界遺産「ジェンネ旧市街(マリ)」
③世界遺産「カイロ歴史地区(エジプト)」
④世界遺産「アスキア墳墓(マリ)」
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次回は隋・唐・宋の時代を紹介します。