世界遺産と世界史19.民族大移動と西欧の形成
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<西ローマ帝国の滅亡>
アジアの北方騎馬民族の動き。前半、匈奴とフン族の動きが本章と関係しています。Xiongnu=匈奴、Hunnic Empire=フン帝国、Turkic Khaganate=突厥
■匈奴とフン帝国
匈奴は紀元前4世紀頃、モンゴル高原に登場した遊牧民族です。
王を意味する「単于(ぜんう)」という君主が治める国で、紀元前3世紀には朝鮮半島の手前から中央アジアに至る広大な領域を支配しました。
秦の始皇帝による万里の長城①②は、この匈奴に対抗するものでもありました。
漢の高祖・劉邦は匈奴を率いる冒頓単于(ぼくとつぜんう)と戦い、紀元前200年、白登山の戦いで大敗を喫します。
以後、漢は匈奴の属州として扱われ、匈奴に朝貢するという屈辱を受けます。
この匈奴を討伐したのが前漢の武帝です。
武帝は衛青、霍去病(かくきょへい)といった将軍を率いて匈奴を討伐すると、河西回廊を得て西へ大きく領土を広げ、紀元前111年、敦煌③をはじめとする河西4郡を設置します。
漢に破れた匈奴は内紛などもあって次第に勢力を弱め、1世紀には南北に分裂。
北匈奴は鮮卑や後漢の攻撃を受けて滅亡し、人々は西へと敗走します。
この西に向かった北匈奴の一派がフン人ではないかと考えられています。
4世紀後半、中央アジアからヨーロッパに侵入したフン人は、カスピ海-黒海-東ヨーロッパ-北海にまたがる広大な国家を興します(フン帝国)。
5世紀にアッティラが王位に就くと最盛期を迎え、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を撃破。
西ローマ帝国が支配するガリアの地(現在のフランス)にまで侵入しますが、451年のカタラウヌムの戦いに敗れるとアッティラは453年に病死してしまいます。
以後フン帝国は後継者争いの果てに分裂を繰り返し、6世紀頭には崩壊します。
※①世界遺産「万里の長城(中国)」
②世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
③世界遺産「莫高窟(中国)」
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■ローマ帝国の東西分裂
フン帝国の西ヨーロッパに対する影響は、帝国に住む場所を奪われたゲルマン人たちによってもたらされました。
375年、フン帝国に押されてゲルマン系の東ゴート人が西へ移動すると、その圧力を受けて西ゴート人が南下を開始。
家族を引き連れ、命懸けで移動してくる人々に対し、ローマは必死で抵抗を試みます。
しかし、ローマ帝国軍にはゲルマン人傭兵も多く、士気の差は歴然。
ひとたびドナウ川を渡ってローマ帝国領に侵入すると、堰を切ったように数十万の西ゴート人が帝国領に押し寄せました。
ローマ皇帝ウァレンスは自ら軍を率い、378年、アドリアノープルの戦いで迎え撃ちますが、ローマ軍は散々に打ち破られ、ウァレンスは戦死。
西ゴート人のバルカン半島定着を許します。
西ゴート人の侵入によって東西に分裂してしまったローマ帝国は、統一を断念。
395年、皇帝テオドシウス1世は帝国をふたつに分割し、ふたりの息子に分け与えました。
こうしてローマ帝国は、ミラノを首都とする西ローマ帝国と、コンスタンティノープル※を首都とする東ローマ帝国=ビザンツ帝国に分裂します。
※世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
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■西ローマ帝国の滅亡
5世紀初頭、フン帝国が版図を広げると、それに押された西ゴート人はさらに西へ移動し、ついにイタリア半島に進出。
これに対して西ローマ皇帝ホノリウスは402年、海軍基地が隣接するラヴェンナ①に首都を遷し、守りを固めて引きこもります。
410年には西ゴートのアラリック1世がローマ②を攻略(ローマ略奪)。
もはや西ローマ帝国には対抗する力はなく、同盟を結んで侵入・建国を黙認することしかできませんでした。
ローマ陥落を機に西ローマ帝国は一気に弱体化。
異民族の侵入はもはや防げず、ブルグント人や北アフリカ・カルタゴ③を拠点とするヴァンダル人をはじめ、ゲルマン系諸民族の侵入を許します。
西ゴート人たちも押し寄せてくる東ゴート人やフランク人の圧力によって移動を繰り返し、イタリア→ガリア→イベリア半島と移動し、最終的にはトレド④を首都に現在のスペインからフランス南部に至る西ゴート王国を建国します。
ローマは476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって破壊され、皇帝ロムルス・アウグストゥスの退位をもって西ローマ帝国は滅亡します。
※①世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群(イタリア)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「カルタゴの考古遺跡(チュニジア)」
④世界遺産「歴史都市トレド(スペイン)」
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<西ヨーロッパの形成>
■東ゴートとランゴバルド王国
西ローマ帝国の滅亡後、オドアケルはラヴェンナ①を首都とするイタリア王国の国王として統治を開始します。
488年、今度は東ゴート人がイタリア半島に侵入。
オドアケルはヴェローナ②に要塞を建設してこれに対抗しますが、ビザンツ皇帝ゼノンの要請を受けた東ゴート王テオドリックに攻め込まれ、暗殺されてしまいます。
テオドリックはその勢いのままイタリアに居座って、493年、ラヴェンナを拠点に東ゴート王国を建国。
その東ゴート王国もビザンツ皇帝ユスティニアヌス1世とゲルマン系ランゴバルド人に討伐され、553年に滅亡します。
568年、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)が力を失うと、イタリア北部をランゴバルド人が奪ってランゴバルド王国を建国します。
ランゴバルドは次第に勢力を強め、8世紀にはイタリア半島の多くを征服。
その過程でイタリアとの同化が進み、ローマ帝国の跡を継ぐイタリア王国として振る舞いました。
イタリア化して2世紀近くイタリア半島を支配したランゴバルド王国ですが、773年、教皇ハドリアヌス1世の要請に応じたフランク王カール大帝の攻撃を受け、翌年滅亡します。
※①世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群(イタリア)」
②世界遺産「ヴェローナ市(イタリア)」
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■フランク王国
フランク王国の版図の推移
ゲルマン王国の多くを統一したのがフランク王国です。
ゲルマン系フランク人たちは5世紀にガリア(イタリア北部からフランス、スイス、ベルギーに至る地域)の地に移住していましたが、481年、クローヴィス1世が周囲を平定してフランク王国を建国します(メロヴィング朝)。
6世紀末には現在のフランスからドイツに至る広大な領域を支配します。
ゲルマン諸王国は多くが異端とされるキリスト教のアリウス派を信奉していましたが、フランク王国はローマ①が認めるアタナシウス派に改宗し、教皇の支持を得ました。
クローヴィス1世が洗礼を受けた教会堂がフランスのランス大聖堂(ランスのノートル=ダム大聖堂)②です。
この頃、西アジアから北アフリカにかけてイスラム教勢力のウマイヤ朝(アラブ帝国)が大帝国を築いていました。
ジブラルタル海峡を渡ってヨーロッパに進出したウマイヤ朝は711年、西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島(スペインのある半島)の多くを攻略。
718年にはビザンツ帝国の首都であるコンスタンティノープル③を包囲し、ヨーロッパは東西からイスラム教勢力の脅威にさらされました。
西からの脅威を一掃したのがフランク王国です。
732年、ピレネー山脈からガリアに侵入したウマイヤ朝の軍勢をフランク王国の宮宰カール・マルテルがトゥール・ポワティエ間の戦いで撃破。
ウマイヤ軍はフランス入りをあきらめてピレネー山脈の南に撤退します。
フランク王国はイスラム教勢力からヨーロッパを救ったことで立場を固め、751年にはカール・マルテルの息子ピピン3世(小ピピン)が王位に就きます(カロリング朝)。
ピピン3世は教皇ステファヌス2世から助けを求められると、これに応じてランゴバルド王国を打ち破り、ラヴェンナ④を教皇に譲り渡します(ピピンの寄進。教皇領の起源)。
※①世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
②世界遺産「ランスのノートル=ダム大聖堂、サン=レミ旧大修道院及びトー宮殿(フランス)」
③世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
④世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群(イタリア)
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■ローマ教皇
ローマ帝国が分裂すると、西ローマ帝国の首都はミラノやラヴェンナ①に遷されてローマ②の重要性は減少。
西ローマ帝国が滅亡するとローマ教会は後ろ盾となる国家を失ってしまいます。
古代のキリスト教世界には5つの総本山があり、ローマ、コンスタンティノープル③、アンティオキア、エルサレム④、アレクサンドリア⑤の長である「総主教」はキリスト教世界の指導者的な立場にありました。
この5大総主教座のうちヨーロッパに位置するのはローマとコンスタンティノープル(一部)だけで、西ローマ帝国領にはローマしかありませんでした。
しかもローマとコンスタンティノープル以外はやがてイスラム世界に取り込まれ、15世紀にはコンスタンティノープルもオスマン帝国の版図に入ります。
このためヨーロッパのキリスト教世界はローマ、あるいはコンスタンティノープルを中心に再編する必要性に迫られました。
この頃、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂②を総本山とするローマ総主教は「使途ペトロの後継」「イエス・キリストの代理者」を自負していました。
そのためローマ総主教は5大総主教を含む全司教の最高位を自認して「教皇(法王)」を名乗り、教皇首位権を主張します。
西ローマ帝国を失った教皇庁は西ヨーロッパで勢力を強めるゲルマン諸国に対して積極的に宣教を行いました。
最終的にほとんどのゲルマン王国がキリスト教を支持しますが、その多くは教皇庁が異端認定するアリウス派でした。
これに対してフランク王国がアタナシウス派に改宗するのは先述の通りです。
教皇庁はウマイヤ朝を破ったフランク王国に近づき、フランク王国も求めに応じてランゴバルド王国を攻撃してピピンの寄進を行い、関係を深めていきます。
こうした過程を経て、西ヨーロッパのキリスト教世界において教皇の権威が増していきます。
※①世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群(イタリア)」
②世界遺産「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ大聖堂(イタリア/バチカン共通)」
③世界遺産「イスタンブール歴史地域(トルコ)」
④世界遺産「エルサレムの旧市街とその城壁群(ヨルダン申請)」
⑤エジプトの世界遺産暫定リスト記載
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■東西教会の軋轢
726年にビザンツ皇帝レオン3世が聖像禁止令を発令します。
同じ根を持つユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3教は神を描いたり、神の像を作ることを禁じていますが、その根拠は『旧約聖書』にあります。
神が自ら記したという「十戒」に「偶像を作ってはならない」という一文があるためで、レオン3世もこれを根拠に聖像崇拝を禁止しました。
しかし、キリスト教はギリシアやローマで受け入れられる際に、ゼウスやアテネ、ポセイドン、アポロンといったギリシアやローマ神話の神像に対抗するため、あるいはなんらかの象徴を欲した庶民の求めに応じて、十字架やイエス像・マリア像・天使像などを盛んに作るようになっていました。
そのためレオン3世の聖像禁止令は教皇庁の強い反発を呼び、東西教会の対立が深刻化していきます。
■カールの戴冠
ピピン3世の跡を継いでフランク王国の王位に就いた息子カール大帝も、773年、教皇ハドリアヌス1世の援助要請に応じてランゴバルド王国を攻撃します。
そしてランゴバルド王国を滅ぼすと、イタリアの一部を教皇に寄進しました。
カール大帝はまたキリスト教を宣教するためにラテン語の普及に努め、文芸活動を奨励しました(カロリング・ルネサンス)。
その一例がアーヘンで、この街を整備してキリスト教宣教の拠点となるアーヘン大聖堂(当時はパラティン礼拝堂)①を建設しました。
アーヘン大聖堂はアルプス山脈以北の初の本格的教会堂であるだけでなく、10~16世紀の間、ドイツ王の戴冠式を行う聖地として扱われました。
また、ラテン語の写本を製作して文芸復興に貢献したのがロルシュ修道院②です。
800年、こうしたフランク王国の功績に対し、教皇レオ3世はローマ(バチカン)のサン・ピエトロ大聖堂③でカール大帝にローマ皇帝の帝冠を授けます。
この「カールの戴冠」によって地上を物理的に支配する「皇帝」と、精神的に支配する「教皇」という西ヨーロッパ社会の二面的な基礎が完成。
アーヘン大聖堂でドイツ王の戴冠を受けた後、サン・ピエトロ大聖堂でローマ皇帝の戴冠を受けて神聖ローマ皇帝になるシステムが生まれました。
※①世界遺産「アーヘン大聖堂(ドイツ)」
②世界遺産「ロルシュの修道院とアルテンミュンスター(ドイツ)」
③世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
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■フランク王国の分裂
カール大帝の跡を継いだルートヴィヒ1世(ルイ敬虔王)が死去すると、後継者争いによってフランク王国は分裂を余儀なくされます。
分割方法を定めたのが843年のヴェルダン条約で、条約に従ってフランク王国は東フランク、中部フランク、西フランクの3王国に分割されました。
また、中部フランク王国は855年のプリュム条約でロタリンギア、プロヴァンス、イタリアに再分割され、さらに870年のメルセン条約でロタリンギアとプロヴァンスが西フランク王国と東フランク王国に吸収されました。
こうして東フランク、西フランク、イタリアという3か国が誕生し、それぞれドイツ、フランス、イタリアの原型になっていきます。
※世界遺産「パリのセーヌ河岸(フランス)」
■神聖ローマ帝国の誕生
この時代に力を持っていたのは有力貴族である諸侯や騎士でした。
東フランク王国も同様で、10世紀にカロリング朝が終わると、そうした諸侯たちの選挙によって王を選出しました。
919年、ゲルマン系ザクセン人であるザクセン大公ハインリヒ1世が東フランク王に選出されます(ザクセン朝)。
王位がフランク人ではなくザクセン人に流出したのはマジャール人やスラヴ人の侵入(第2次民族移動)に対して強力な王が必要とされたためといわれています。
こうした期待に応えたのがハインリヒ1世の息子オットー1世です。
父の没後、アーヘン大聖堂①で戴冠式を行って東フランク王位に就くと、955年のレヒフェルトの戦いで侵入してくるマジャール人勢力を一掃し、王国の勢力拡大やキリスト教の宣教に貢献しました。
たとえばマジャール人たちはハンガリー大公国を建てていましたが、この戦いに敗れた大公タクショニュはローマ・カトリックに改宗しました。
1000年には教皇からキリスト教国として認められ、ハンガリー王国が成立しています。
こうした貢献に対して962年、教皇ヨハネス12世はサン・ピエトロ大聖堂②でローマ皇帝の帝冠を授け(オットーの戴冠)、ローマ帝国が復活します。
神聖ローマ帝国のはじまりです(カールの戴冠を神聖ローマ帝国のはじまりとする説も存在します)。
※①世界遺産「アーヘン大聖堂(ドイツ)」
②世界遺産「バチカン市国(バチカン)」
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次回は東ヨーロッパ世界の形成とビザンツ帝国を紹介します。