世界遺産と世界史10.中国文明
シリーズ「世界遺産で学ぶ世界の歴史」では世界史と関連の世界遺産の数々を紹介します。
なお、本シリーズはほぼ毎年更新している以下の電子書籍の写真や文章を大幅に削ったダイジェスト記事となっています。
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1.古代編、2.中世編、3.近世編、4.近代編、5.世界大戦編
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<長江文明>
■長江流域の稲作文明
20世紀後半、それまで古代文明の存在が知られていなかった長江(揚子江)流域で次々と古代遺跡が発見されました。
メソポタミア、エジプト、インダス、黄河のいわゆる4大文明が乾燥地帯でムギ類やマメ類の畑作農業を生み出したのに対し、長江の諸文化は緑豊かな土地で稲作を行っていました。
長江の稲作(水田ではなく畑で行われる陸稲の栽培)は紀元前12000年にまでさかのぼると考える者もおり、その場合、世界最古の農耕跡になります。
そして紀元前5000~前3000年頃には人工的に水を引き入れる灌漑農業が展開されていました。
河姆渡(かぼと)遺跡や三星堆(さんせいたい)遺跡①、大渓遺跡①、良渚(りょうしょ)遺跡②など、紀元前10000年以前~前1000年に至る多数の遺跡が発見されており、しばしばこうした文化群はまとめて長江文明といわれています。
一説によると――
砂漠で生まれた民族は不安定なオアシスや水源や農地を確保するためにより広い土地・高い文化を欲し、より攻撃的になるといいます。
長江文明を築いた人々は砂漠で発達した黄河文明由来の民族の南下によって侵略され、東南アジアや東アジアに逃げ去りました。
こうしてアジアに稲作文化が広がり、その一派が日本で弥生時代を切り拓いた――のかもしれません。
※①中国の世界遺産暫定リスト記載
②世界遺産「良渚の考古遺跡群(中国)」
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<黄河文明>
■黄河文明
紀元前7000~前5000年頃、中国を貫くもうひとつの大河、黄河流域にも文化が誕生しました。
長江の文化群と違って乾燥地帯で発達したこの文化群は、主にアワやムギ類を中心とする畑作を行っていました。
シルクロード①②を渡って伝えられたのか、陶器や青銅器などにはメソポタミア文明やインダス文明の影響も見られます。
紀元前5000~前3000年頃の仰韶(ぎょうしょう)文化は彩文土器で知られ、アワ・ムギの栽培やヒツジの放牧が行われていました。
紀元前3000~前2000年頃の龍山文化は黒色土器で知られ、この頃には灌漑農業がはじまり、稲作も行っていました。
黄河流域には他にも多数の文化群が誕生しましたが、これらはまとめて黄河文明といわれます。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊(ウズベキスタン/タジキスタン/トルクメニスタン共通)」
■三皇五帝
世界中の伝説は、いずれも「神の時代→人間の誕生→人間の時代」と変遷してきたことを物語ります。
中国でも同様で、人間の時代の前に神々の時代があったことが伝えられています。
そして両者をつなぐのが三皇五帝です。
三皇五帝は諸説あって時代によっても異なりますが、一般的に三皇は神そのもので、天皇・地皇・泰皇(人皇)の3柱で、燧人 (すいじん) ・伏羲 (ふくぎ)・神農(しんのう)、あるいは伏羲・女媧(じょか)・神農とされています。
一方、五帝は半神の聖人・仙人で、5人の人選は書物によってさまざまですが、黄帝・顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・唐尭(とうぎよう)・虞舜(ぐしゆん)などが挙げられています。
特に五帝のひとりである黄帝は漢民族の始祖とされています。
彼が修業したと伝えられる聖山が黄山①です。
同じく五帝のひとりとされることもある夏(か)王朝の禹(う)は黄河の化身といわれ、彼が龍となって現れたのが黄龍②と伝えられています。
こうした伝説には「黄」がしばしば出てきます。
この黄はもちろん黄河の黄で、実際黄河を目にすると驚くほど黄色いことを実感します。
砂漠で巻き上げられた黄砂が混じることに由来するのですが、中原をはじめとする黄河中流域では上流から運ばれた黄砂と土が混じって保水力の高い黄土となり、豊かな農業生産が可能になりました。
黄色が皇帝の色であり、長い間「禁色(きんじき)」として庶民に使用が禁止されたのは、命を育む黄の川や土を尊んでいたからです。
※①世界遺産「黄山(中国)」
②世界遺産「黄龍の景観と歴史地域(中国)」
[関連サイト]
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<中国の古代王朝>
■殷
紀元前1600~前1000年頃、黄河流域に栄えた邑(ゆう)と呼ばれる都市を次々と侵略し、現在確認されている中国最古の王朝・殷(いん。当時は商と呼ばれていました)が成立します。
その主要都市である殷墟※の宮殿跡や王墓からは複雑な装飾を持つ陶器や青銅器が発掘され、亀の甲羅や獣の骨に刻まれた甲骨文字が発見されました。
この甲骨文字が漢字の起源です。
殷王で有名なのが最後の王・紂王(ちゅうおう)とその妻・妲己(だっき)です。
酒で池を作り、肉を林に吊し、全裸の男女を放った「酒池肉林」や、火の上に油を塗った銅の円柱を置き、罪人に歩かせた「炮烙(ほうらく)」といった傍若無人な振る舞いで知られる夫妻ですか、その真偽は定かではありません。
※世界遺産「殷墟(中国)」
■周、春秋戦国時代
紀元前1100年頃、殷の紂王を牧野の戦いで破ったのが周の武王です。
首都は中原の豊邑、あるいは対岸の鎬邑で、次の秦の時代には咸陽(かんよう)、漢代からは長安①、明代以降は西安と呼ばれることになる古都です。
この時代を西周と呼び、紀元前771年に鎬邑から洛邑(らくゆう。現在の洛陽)①に遷都して以降を東周といいます。
中華思想では、天に住む天帝の命を受けた者=天子(皇帝)が地上を治めるものとし、地の中心は中国、中でも黄河中流域の中原にあると考えられました。
中国の歴代王朝が中原の地を狙うのは世界の中心を手に入れるためです。
その中原の中心、つまりこの世の中心にそびえる山が嵩山(すうざん)②で、周の武王の弟・周公が世界の中心を定めるために造った天体観測施設が周公測景台②です。
逆に、この豊かな土地の周囲は遊牧民族が暮らす乾燥地か、山岳や森林が広がる野蛮の地。
そうした土地に住む民族は東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)と呼ばれて見下されました。
しかし洛邑に遷都して以降、東周は次第に衰退し、周辺諸侯よりも力を失ってしまいます。
逆に力を持った諸侯は「覇者」と呼ばれ、特に斉の桓公、秦の穆公、晋の文公、楚の荘王、越王勾践ら(異説あり)を「春秋五覇」と呼び、彼らが中心となった紀元前770~前403年までを春秋時代といいます。
当初諸侯たちは東周の王を立てていましたが、やがて自ら王を名乗り出します。
紀元前403~前221年にまたがる戦国時代の幕開けです。
斉・楚・秦・燕・韓・魏・趙は「戦国七雄」と呼ばれ、東周はそのひとつに数えられることさえなくなりました。
※①世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網(カザフスタン/キルギス/中国共通)」
②世界遺産「河南登封の文化財 ”天地之中”(中国)」
■秦
春秋戦国時代の勢力図。Zhou=周、Qin=秦。Chu=楚、Jin=晋、Song=宋、Qi=斉、Wu=呉、Yan=燕、Yue=越、Wei=魏、Zhao=趙、Han=韓
紀元前221年に中国を統一した秦王・政は三皇五帝から二文字をとって「皇帝」を名乗ります。
最初の皇帝=始皇帝の誕生です。
そして紀元前219年に泰山①を訪れ、天子=皇帝として天帝に感謝を知らせる封禅(ほうぜん)を行いました。
始皇帝は戦国時代の国々が築いていた匈奴(黄河上流を拠点とする遊牧民族)ら国外の敵に対するための堤=長城をつなぎ、増築しました。
その長さは司馬遷『史記』で「万余里」の長さと書かれたことから、後の時代に「万里の長城②」と呼ばれました。
これにならって清代までおよそ2,000年間にわたって万里の長城は築かれていきますが、古代の長城は馬の侵入を防ぐだけの簡単な土塁でほとんど残っていません。
さらに、始皇帝は首都・咸陽の近くに巨大な陵墓=秦始皇陵③を建てました。
東西・南北ともに約350m・高さ76mの截頭方錐形(頂部が切り取られたような四角錐)のピラミッドで、約70万人・40年を費やして築かれました。
※①世界遺産「泰山(中国)」
②世界遺産「万里の長城(中国)」
③世界遺産「秦の始皇陵(中国)」
[関連サイト]
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次回はエーゲ文明やギリシア文明を中心とした古代ヨーロッパ文明を紹介します。