久しぶりに新しいシリーズを立ち上げました。
LOGICカテゴリーの「哲学的探究:哲学入門」です。
このシリーズでは純粋に哲学をしたいと思っています。
「哲学するってなんなの?」「何を扱うの?」という話になるのですが、第1回の「哲学とは何か? ~哲学の定義~」ではここから出発しています。
「出発」と書きましたが、本当に哲学は旅のようです。
一つひとつ思考を積み上げていって、いったいどこに向かうのか、いったいどこに到達できるのか?
「世界を広げる」という意味で、ぼくは世界中を旅するより哲学をした方がよほど効果的だと思います。
というのは、多くの経験をしたからといって世界が広がるわけではないし、広い視野が持てるわけでもないからです。
たとえば海外旅行なんてまったく行くことができなかった戦中・戦後の作家や哲学者たち。
それでも世界の広さ・視野の広さを感じさせてくれる作品は数多く残っています。
現代は古代・中世・近代・近世のどの時代よりも手軽に海外に行くことができますし、情報の時代ですから海外に関する情報の量も他の時代に比べて圧倒的です。
しかし、現代の作品が必ずしも広い世界観と視野を持っているわけではありません。
そんなことと世界の広さはまったく一致しないのです。
そしてまた、「考える力を養う」うえで哲学は最高の学びです。
「『考える』ことを考える」のが哲学なので当然といえば当然で、それゆえ哲学は「諸学の学」と呼ばれ、「知を愛する=フィロ・ソフィア(哲学=フィロソフィー)」と名付けられているわけです。
世界の広さ、器の大きさ、考える力といった人間力は哲学によってこそ身に付くわけで、だからぼくは「日本の教育に導入すればいいのに」と思ってしまいます。
でも、別に皆に知ってほしいというわけではまったくありません。
哲学の目的は真理の探究にあります。
そして真理の探究は、それをしなければ生きていけない人がすればいい種類のものです。
ゴッホやゴーギャンがすべてを捨てて絵を描き続けたことと同じです。
そうしないと生きていけない――
だからやり続けるのです。
世界とは何か?
私とは何者か?
こうした問題を問いつづけないと生きていけない人が考えつづけているのです。
そしてそのような存在であればいいのです。
でも、文化や文明はいつだってそういう人たちによって切り拓かれたものなのではないでしょうか?
世界中のあらゆる場所に人が住んでいますが、それは多くの人が命を懸けて旅したことを意味しています。
世界には数え切れないほどの料理がありますが、これは命懸けで新しい食材を探究し、人生を懸けておいしいものを追究した人々がいたことを表しています。
一部の人間の狂気、あくなき探究心がこの世界を生み出しているのです。
哲学を必要としている人、哲学をしなくては生きていけない人は、そういう意味である種の「狂気」を持っています。
世界と自分との間にある「壁」を敏感に感じ、その差を埋めるため、あるいはその差を見極めるために「世界とは何か」「私とは何者か」を問いつづけているのです。
そして世界の探究、私の探究は、今現在の世界の否定、私の否定を意味します。
だから哲学や芸術を必要とする人、愛する人は、いつだって限りない痛みと悲しみの中に生きています。
そんな方々に届いたらいいなー。
そんな方々と一緒に旅立てたらいいなー。
なんて思っています。
では。
はるかなる思考の旅へ、いざ出発!
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