姪に本を贈ろうかと思っていろんな絵本を読みました。
でも結局自分の好きな作品がいいだろうと、以前から知ってる絵本を何冊か選びました。
今回選んだのはすべて荒井良二さんの作品です。
好きなのですよね、絵も、文章も。
特にぼくはキュートナがお気に入り。
他にもレオ・レオニやシルヴァスタイン、絵本といえるかどうかわかりませんがサン・テグジュペリなんか大好きです。
でもね。
絵本を贈ることがいいことなのかどうか、正直ぼくにはわかりません。
文学がとても美しいものであるのと同時に、とても危険な存在でもあるからです。
親が子に教えるもっとも大切なことは、人と人との関係、つまり社会性なのではないでしょうか。
ところが、その社会をも一種の先入観と断罪し、人の根源へと進んでいくのが芸術であり哲学です。
そして文学は、共に中途半端ではありますが、芸術と哲学を兼ね備えた活動です。
魅入ってしまったら、魅入られてしまったら、社会をはるかに越えた視線を手にする代わりに、常識を常識とさえ考えない価値観を手にします。
そしてそこから逃れることはとても難しい。
だから文学者、芸術家、哲学者はドロップアウトしたり自殺したりしてしまうわけで。
「視野を広げろ」とよく言われます。
でも、実際には視野が狭い人の方が幸せになれるはずです。
「人の根源」なんか無視して、流通している価値観に順応して生きた方が健全に決まってます。
だから学校では言葉とは裏腹に、教科書や道徳で一つの価値観を正義であると仮定して、視野を狭める方法を教えているのです。
人が人らしくあるために。
でもまぁ絵本は純文学と違って極端を避ける方法をも教えてくれます。
釈迦の言う「中道」ですね。
今回選んだのはそんなすばらしい絵本たちだと思っています。
人らしく生きてほしい。
そんな願いを込めて。
「私はお前たちを愛した。そして永遠に愛する。それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。お前たちを愛する事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取ってもらいたいという事だけだ。お前たちが一人前に育ち上った時、私は死んでいるかもしれない。一生懸命に働いているかもしれない。老衰して物の役に立たないようになっているかもしれない。しかしいずれの場合にしろ、お前たちの助けなければならないものは私ではない。お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩わされていてはならない。斃れた親を喰い尽して力を貯える獅子の子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい」
「よく眠れ。不可思議な時というものの作用にお前たちを打任(うちま)かしてよく眠れ。そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって寝床の中から跳り出して来い。私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。私の一生が如何に失敗であろうとも、また私が如何なる誘惑に打負けようとも、お前たちは私の足跡に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。きっとする。お前たちは私の斃れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。しかしどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前たちは私の足跡から探し出す事ができるだろう。
小さき者よ。不孝なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は遠い。そして暗い。しかし恐れてはならぬ。恐れない者の前に道は開ける。
行け。勇んで。小さき者よ」
(有島武郎『小さき者へ』より)
そしてまた、世界の片隅でひっそりと人間を守っている者のいることをぼくは忘れません。
「『あとは、心配ないぞ!』と叫んだ。これからT君と妹との結婚の事で、万一むずかしい場合が惹起したところで、私は世間体などに構わぬ無法者だ、必ず二人の最後の力になってやれると思った」
(太宰治『東京八景』より)