世界遺産NEWS 23/11/03:世界遺産の「負の遺産」「記憶の場」とは何か?
2023年9月に開催された第45回世界遺産委員会で「記憶の場」と呼ばれる世界遺産が3件登録されました。
これらは公式に近年の紛争に関する「記憶の場」であるという理由で世界遺産リストに登録された最初の例となりました。
- 第1次世界大戦[西部戦線]の葬祭と記憶の場(フランス/ベルギー共通、文化遺産(iii)(iv)(vi))
- ESMA博物館と記憶の場-拘禁・拷問・絶滅のための旧秘密センター(アルゼンチン、文化遺産(vi))
- ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ(ルワンダ、文化遺産(vi))
※世界遺産名にある「記憶の場」の英語は "memory sites" "Site of Memory" "memorial sites" とそれぞれ異なります
上の3件は日本では「負の遺産」と呼ばれるジャンルであることがわかります。
近年の紛争に関する「記憶の場」は2023年1月の世界遺産委員会臨時会合で採用された概念で、9月の世界遺産委員会でさっそく適用される形となりました。
ただし、同様のコンセプトを有する世界遺産は過去にも存在し、18件の負の遺産が例示されています。
一例がセネガルの「ゴレ島」ですが、1978年に登録された最初の世界遺産12件のひとつです。
また、翌1979年には有名なポーランドの「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」が登録されています。
世界遺産登録が開始された当初から記憶の遺産という概念自体はあったのに、定義づけられたのは2023年です。
なぜこんなに時間が掛かったのでしょうか?
いまだ課題は解決されていないようですが、何が問題視されているのでしょうか?
今回は「記憶の場」の内容と問題点を中心に、「負の遺産」や「良心の場」「近年の紛争」といったキーワードを解説します。
※本記事に登場する主な国際機関
- UNESCO:ユネスコ=国際連合教育科学文化機関。世界遺産条約を管轄する国連の専門機関
- ICOMOS:イコモス=国際記念物遺跡会議。文化遺産の保存を専門とするNGOで、世界遺産委員会の諮問機関
- ICSC:国際「良心の場」連合。世界の人権の促進と保護を目的に史跡・博物館・記念碑の保存を行う国際組織。「良心の場」は「記憶の場」を発展させた概念で、世界遺産の「記憶の場」に関する議論にも参加しています
※本記事はUNESCOやICOMOS、ICSCが作成した資料や、世界遺産委員会・世界遺産委員会臨時会合、世界の記憶(ユネスコ記憶遺産/世界記録遺産)の決定や資料を元に構成しています
※勘違い等の可能性があるので論文や試験・検定等で参考にする際は該当する資料に当たることをお勧めします
※特にベースとなった資料は以下
- International Coalition of Sites of Conscience. INTERPRETATION OF SITES OF MEMORY. 2018
- International Council on Monuments and Sites. SITES ASSOCIATED WITH MEMORIES OF RECENT CONFLICTS AND THE WORLD HERITAGE CONVENTION. 2020
- Olwen Beazley PhD and Christina Cameron PhD. STUDY ON SITES ASSOCIATED WITH RECENT CONFLICTS AND OTHER NEGATIVE AND DIVISIVE MEMORIES. 2020
- Decision 18 EXT.COM 4. REPORT OF THE WORLD HERITAGE CENTRE ON ITS ACTIVITIES AND THE IMPLEMENTATION OF THE WORLD HERITAGE COMMITTEE’S DECISIONS. 2023
* * *
■「負の遺産/負の世界遺産」と「記憶の場」
日本ではよく「負の遺産」と呼ばれるジャンルがあります。
おおよそ「人類の過去の過ちを記憶した遺産」という意味で解釈されていますが、関係の公的機関でキチンと定義された言葉ではありません。
それどころか定まった英語すらなくて、"Legacy of Tragedy" とか "Negative Legacy" "Sites with Negative Memories" "Sites of Dark History" 等々、さまざまな言葉が使用されています。
世界遺産では負のイメージの言葉が使われることは少なく、代わりに「記憶 "Memory"」という言葉がしばしば登場するため、「記憶の遺産 "Sites Associated with Memories"」などと呼ばれることが多くなっています。
たとえば1978年に登録されたセネガルの「ゴレ島」は奴隷貿易を象徴する「記憶の島 "Memory Island”」、1979年登録のポーランドの「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」は「記憶の鍵場 "Key Place of Memory"」と書かれています。
負の場であるという過去の事実よりも、「記憶すべき」という現在の意志に重きが置かれていることがわかります。
そして記憶すべき遺産は次第に「記憶の場 "Sites of Memory"」という言葉で示されるようになりました。
「記憶の場」は必ずしも戦争や紛争・対立関係の負の遺産ばかりでなく、発見や発明といったポジティブな遺産や、天災や事故に関する遺産でもありえます。
世界遺産関連では、ヨーロッパ人がはじめてアメリカ大陸を発見して入植した「ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ)」や、自由と民主主義の普遍原則を宣言した「独立記念館(アメリカ)」、世界最悪の炭鉱事故を記念した「ノール=パ・ド・カレーの炭田地帯(フランス)」のクリエールの惨事記念碑、世界遺産登録活動を進めているウクライナのチョルノービリ(チェルノブイリ)原子力発電所などの例が挙げられます。
しかし、ポジティブな遺産や天災・事故関連の遺産は保存されやすく反対も少ないのに対し、負の遺産は破壊されたりして残りにくいうえに、対立が背景にあるためことさら記憶が強調される傾向にあります。
* * *
■「記憶の場」と文化遺産の登録基準(vi)
明確に「記憶の場」といえる世界遺産は2020年までに18件あると指摘されています。
「明確に」というのは、戦争や紛争・犯罪などに巻き込まれた文化遺産は少なくありませんが、その中で否定的・対立的な記憶の価値が評価されているといった意味です。
4件に付いている「★」は「近年の紛争」に関する物件です。
○「記憶の場」に関する世界遺産18件
- ゴレ島(セネガル、1978年、文化遺産(vi))
- ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群(ガーナ、1979年、文化遺産(vi))
- アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]★(ポーランド、1979年、文化遺産(vi))
- 国立歴史公園-シタデル、サン・スーシ、ラミエ(ハイチ、1982年、文化遺産(iv)(vi))
- 広島平和記念碑[原爆ドーム]★(日本、1996年、文化遺産(vi))
- ロベン島★(南アフリカ、1999年、文化遺産(iii)(vi))
- ザンジバル島のストーンタウン(タンザニア、2000年、文化遺産(ii)(iii)(vi))
- マサダ(イスラエル、2001年、文化遺産(iii)(iv)(vi))
- クンタ・キンテ島と関連遺跡群(ガンビア、2003年、文化遺産(iii)(vi))
- モスタル旧市街の古橋地区★(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2005年、文化遺産(vi))
- アプラヴァシ・ガート(モーリシャス、2006年、文化遺産(vi))
- ル・モーンの文化的景観(モーリシャス、2008年、文化遺産(iii)(vi))
- シダーデ・ヴェリヤ、リベイラ・グランデの歴史都市(カーボベルデ、2009年、文化遺産(ii)(iii)(vi))
- オーストラリア囚人遺跡群(オーストラリア、2010年、文化遺産(iv)(vi))
- ビキニ環礁核実験場(マーシャル諸島、2010年、文化遺産(iv)(vi))
- グラン・プレの景観(カナダ、2012年、文化遺産(v)(vi))
- ブルーマウンテン山脈とジョン・クロウ山地(ジャマイカ、2015年、複合遺産(iii)(vi)(x))
- ヴァロンゴ埠頭考古遺跡(ブラジル、2017年、文化遺産(vi))
これに2023年登録の3件を加えると21件になります。
3件はいずれも「近年の紛争」に関する物件でもあります。
そしてこの21件に共通するのが10ある登録基準の内の「登録基準(vi)」を満たしているという点です。
世界遺産とは、人類全体にとって現在および将来世代に共通した重要性、すなわち「顕著な普遍的価値」を持つ遺産を示します。
そして顕著な普遍的価値の評価基準として(i)~(x)まで10項目の登録基準が示されており、少なくとも1項目は満たしていなければなりません。
そのうち登録基準(i)~(vi)を1項目以上満たすものを文化遺産といいますが、「記憶の場」は文化遺産に含まれています。
そして世界文化遺産は記念工作物・建造物群・遺跡という有形の不動産を対象にしており、儀式や舞踊などの無形文化財や、美術品や遺物といった動産は対象外となっています。
登録基準(vi)は以下のような内容です。
○登録基準(vi)
顕著で普遍的な価値を有する出来事や現在存続する伝統で、思想・信仰・芸術作品・あるいは文学作品と直接に、または実質的に関連があるもの(本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている)
登録基準(vi)が他の5項目の基準と異なるのは、記念工作物・建造物群・遺跡や自然といった物理的な物に顕著な普遍的価値が認められる必要はないという点です。
その場所に関係した出来事や伝統などに顕著な普遍的価値があればよいのです。
負の遺産に登録基準(vi)が適用されるのは、そこで起きた悲劇が顕著な普遍的価値を持つ出来事であるからです。
ただ、1979年に「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]」が登録された際に、基本的に記念工作物・建造物群・遺跡自体が顕著な普遍的価値を持つべきであり、出来事のみを理由に世界遺産登録することは極力避けられるべきであるとされました。
その結果、翌1980年に登録基準(vi)に「本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている」との一文が添えられることになりました(この一文は7回修正されています)。
2023年11月現在、世界遺産リストには1,199件が記載されていますが、登録基準(vi)を満たす物件は280件存在します。
この中で、登録基準(vi)のみで登録された世界遺産は14件しかなく、そのうちの9件は先述の「記憶の場」に関連したものとなっています。
★は「記憶の場」関連の遺産です。
○登録基準(vi)のみで登録された世界遺産
- ゴレ島★(セネガル、1978年、文化遺産(vi))
- ランス・オ・メドー国定史跡(カナダ、1978年、文化遺産(vi))
- ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群★(ガーナ、1979年、文化遺産(vi))
- アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945]★(ポーランド、1979年、文化遺産(vi))
- 独立記念館(アメリカ、1979年、文化遺産(vi))
- ヘッド-スマッシュト-イン・バッファロー・ジャンプ(カナダ、1981年、文化遺産(vi))
- リラ修道院(ブルガリア、1983年、文化遺産(vi))
- プエルト・リコのラ・フォルタレサとサン・ファン国定史跡(アメリカ、1983年、文化遺産(vi))
- 広島平和記念碑[原爆ドーム]★(日本、1996年、文化遺産(vi))
- モスタル旧市街の古橋地区★(ボスニア・ヘルツェゴビナ、2005年、文化遺産(vi))
- アプラヴァシ・ガート★(モーリシャス、2006年、文化遺産(vi))
- ヴァロンゴ埠頭考古遺跡★(ブラジル、2017年、文化遺産(vi))
- ESMA博物館と記憶の場-拘禁・拷問・絶滅のための旧秘密センター★(アルゼンチン、2023年、文化遺産(vi))
- ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ★(ルワンダ、2023年、文化遺産(vi))
そして2010年代に各国で近年の紛争に関する記憶の遺産の登録活動が活発化したことから、世界遺産条約が記憶の遺産を扱うべきか否か、扱うのであればどのように扱うのかの判断が問われることになりました。
各国の世界遺産暫定リストに記載されている関連の遺産だけでも以下のような例が挙げられます。
○各国の暫定リストに記載された近年の紛争に関する記憶の遺産の例
- アルプスからアドリア海に至る平和の行進-第1次世界大戦の遺産(スロベニア)
- チャナッカレ[ダーダネルズ]とゲリボル[ガリポリ]、第1次世界大戦の交戦地帯(トルコ)
- ノルマンディーのランディング・ビーチ(フランス)
- グダニスク-記憶と自由の都市(ポーランド)
- スターリングラードの戦いの英雄たちに捧げるママエフ・クルガン記念建造物群(ロシア)
- アンダマン諸島のセルラー刑務所(インド)
- サティヤーグラハの地-インドの非暴力自由化運動(インド)
- 旧M-13刑務所/トゥール・スレン・ジェノサイド博物館[旧S-21]/チェン・エク・ジェノサイド・センター[旧S-21処刑場](カンボジア)
- 解放と独立の地、クイト・クアナバリ(アンゴラ)
- タラファル強制収容所(カーボベルデ)
- 人権・解放闘争および和解:ネルソン・マンデラの遺産の地(南アフリカ)
そして2019年にポーランドの「グダニスク-記憶と自由の都市」やルワンダの「ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ」が推薦されると、こうした近年の紛争に関する記憶の遺産が政治利用されかねないとの懸念が表明されました。
特に前者については社会主義政権が倒されたポーランド民主化運動の関連遺産であったため、登録を進めたいポーランドとそれを支持するボスニア・ヘルツェゴビナやハンガリーなどと、反対するロシアや中国との間で対立が起きました。
そこでその方向性を定めるためにこれらの登録を一時中断し、記憶の遺産の扱いを決めることとなりました。
今年登録された3件もペンディングされていた物件です。
* * *
■「記憶の場」の定義と運用方法
こうして今年の第18回世界遺産委員会臨時会合で「記憶の場」として定義付けられることになりました。
その内容を紹介しましょう。
まず、「記憶の場」の対象ですが、基本的には負の遺産でなくても構いませんし、記憶が刻まれた場所については文化遺産か自然遺産かも問いません。
ただ、今回は主に「近年の紛争 "Recent Conflicts"」を想定したものとなっています。
負の遺産が中心であるのは記憶の遺産の多くを占めていて問題となっているからであり、また近年であるのは、たとえばローマ時代や中世の合戦跡のように遠い過去の悲劇の場合、通常の歴史遺産になってしまうからです。
「記憶の場」は悲劇に関連した直接の記憶を持つ人々がいなくなると次第に風化して「歴史の場」となり、一般的な歴史遺産になります。
「記憶の場」として価値を持つためには、両者の境である「記憶の端 "Edge of Memory"」を越える前に適切に保存する必要があるのです。
このため「近年の紛争」は一般的に20世紀以降に起こった戦争や紛争・戦闘・虐殺・ジェノサイド(ある集団の抹殺を意図した虐殺)・拷問・軍事征服・民族自決運動・レジスタンス運動・植民地解放運動・人種差別・占領・国内追放・国外追放・大規模な人権侵害・領土問題等に関連した出来事とされています。
「記憶の場」についてはその定義を引用しましょう。
○「記憶の場」の定義
記憶の場とは、国とその国民(少なくともその一部)あるいはコミュニティが記憶に留めておきたい出来事が起こった場所を示す。近年の紛争に関連する場とは、世界遺産条約第1条および第2条※に準拠した物的証拠のある特定の場所、またはそれらの記憶の側面に関連付けられ、紛争の犠牲者を追悼する役割を果たす景観を特徴としている。こうした場は一般に公開されていたりアクセス可能で、和解や記憶・平和を代表しており、平和と対話の文化を促進するために教育的な役割を果たす必要がある。
※世界遺産条約第1条は文化遺産、第2条は自然遺産を定義しています
そして「記憶の場」を推薦する際は登録基準(vi)について以下3つの評価を行う必要があります。
- 顕著な普遍的価値の証明
- 記憶と場所との具体的な関係の説明
- 類似の遺産との比較分析
そして一般的な推薦と異なり、以下が要請されます。
- すべての利害関係者が参加する対話の場であること
- 異議申し立てを認めること
こうした活動は正確であるだけでなく、UNESCO設立の平和構築の使命にかなうものでなければなりません。
そのために対立する国・地域・コミュニティ・権利者も含めてすべての利害関係者を参加させ、「記憶の場」の意味・価値・解釈に関する合意を確保する真剣な努力が払われたことを示す必要があります。
たとえすべての利害関係者が共通の意味・価値・解釈を見出せなかったとしても、対話と和解のプロセスを促す場でなければなりません。
そうでなければ「記憶の場」がある一部の集団の意味・価値・解釈のみを強化し、むしろ分断と対立を助長して排除と不正義の象徴にさえなりうるからです。
また、「記憶の場」では異議申し立てが認められます。
各国の暫定リスト記載物件については、UNESCOの世界遺産センターに異議申し立てを行うと、その物件に関して関係国間での対話が促されます。
毎年2月1日までに推薦される新登録候補に対しては、6月30日までに世界遺産センターに異議を申し立てると、9月30日までに推薦国からの回答を受け取ることができます。
翌年2月28日までに異議申立国と推薦国の合意が得られた場合は、その旨を示す文書を世界遺産センターに提出します。
合意に至らなかった場合、世界遺産委員会は基本的に対話の継続を促し、次回の世界遺産委員会で再審査されることになります。
* * *
■UNESCOの平和の使命と「記憶の場」
実は、世界遺産委員会の諮問機関で文化遺産の専門家集団であるICOMOSは近年の紛争に関する「記憶の場」を世界遺産リストに登録することに関して否定的でした。
2020年のレポートでは結論として、「近年の紛争に関連した物件は、現在規定されている世界遺産条約のキー・コンセプト(主要概念)に適合せず、UNESCOの平和への使命にも合致せず、世界遺産条約の目的にも含まれない」とし、そうした活動はUNESCOの事業である世界の記憶や無形文化遺産、ICSCなど、他の条約や組織に任せるべきとしています。
いったい何が問題とされたのでしょうか?
まず、UNESCOが近年の紛争と記憶に関する遺産を取り扱うこと自体はその理念にかなっているとしています。
それはUNESCO憲章の前文や第1条から導くことができます。
○UNESCO憲章前文より
戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。
相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。
ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代わりに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。
文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。
政府の政治的及び経済的取極のみに基く平和は、世界の諸人民の、一致した、しかも永続する誠実な支持を確保できる平和ではない。よって平和は、失われないためには、人類の知的及び精神的連帯の上に築かなければならない。
○UNESCO憲章第1条より
この機関の目的は、国際連合憲章が世界の諸人民に対して人種・性・言語又は宗教の差別なく確認している正義、法の支配、人権及び基本的自由に対する普遍的な尊重を助長するために教育、科学及び文化を通じて諸国民の間の協力を促進することによつて、平和及び安全に貢献することである。
世界遺産条約もこの文脈上にあり、UNESCOの平和カリキュラムの1要素と考えられます。
世界遺産活動のひとつの強みは、新たな価値観を吸収してリストに反映させることができる点です。
一例が1992年に定義された「文化的景観」です。
しかし、記憶の遺産については不動産という物理的特性よりも出来事との関連性が重視されており、世界遺産をその範囲にまで拡大した場合、際限がなくなって信頼性が損なわれる危険性が指摘されています。
それが登録基準(vi)の「本基準は他の基準と関連して適用されるべき基準と考えられている」という一文の追加につながったことは先述の通りで、この一文は現在も維持されています。
さらに大きな問題は、平和を掲げながらも、むしろ分断と対立を導きかねなという危険性です。
1996年に日本の「広島平和記念碑[原爆ドーム]」が世界の恒久平和への希望を象徴するものとして登録されましたが、中国はこの登録が有害な目的に利用される可能性があるとし、アメリカは戦争関連の物件は条約の範囲外にあるとの声明を発表しました。
日本のアジアにおける侵略を矮小化し、世界ではじめてとなる核兵器の使用がことさら悪事として強調される可能性が考慮されたわけです。
そしてこのような物件が登録された場合、それを政治的に利用するために記憶の遺産の登録活動が活発化することが予想されました。
実際に世界の記憶では負の遺産に関して深刻な問題が起きています。
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■「世界の記憶」を巡る対立
世界の記憶は文書や石碑・地図・製図・絵画・音楽・口承・放送・映画・テープ・写真等に記録されたデータを適切に撮影・録音・録画して保存し、記録された遺産を公開しながら、記録遺産という概念を世界に普及させることを目的としています。
詳細は「UNESCO遺産事業リスト集3.世界の記憶リスト」を参照してください。
プロパガンダとして利用される懸念は以前からあったのですが、2015年に中国が以下2件を推薦したことで大問題に発展しました。
- 南京虐殺のドキュメント
- 大日本帝国軍の性奴隷「慰安婦」に関するアーカイブ
日本は内容を問い合わせると同時に反論書簡を送って登録に反対しましたが、前者については登録が決定してしまいました。
しかも登録の過程は非公開で、詳細な内容も公開されず、「記録遺産の公開」という目的から逸脱しているのは明らかでした。
さらに、翌2016年には後者の慰安婦の件に関して、中国・韓国・日本・イギリス・インドネシア・オランダ・台湾・東ティモール・フィリピンの9か国15の市民団体と博物館が資料2,744点をまとめた「慰安婦の声」を再推薦しました。
これに対して日本はUNESCO分担金の拠出凍結という形で圧力をかけ、制度改革の実現に至りました。
これにより新規登録は2018年から停止されました。
世界の記憶ではこれ以外にも負の遺産に関する登録活動が各地で活発化しました。
確認できたものだけでも、ユダヤ人虐殺、アルメニア人虐殺、カンボジア虐殺、ルワンダ虐殺、中国の文化大革命・大躍進政策、通州事件などが挙げられ、慰安婦問題に関しては人道的だったとする側の推薦活動まで行われています。
そして2021年4月、登録プロセスに関して以下の変更が承認され、今年2023年から新規登録が再開されています。
こちらでも異議申し立てが認められていますね。
- 推薦は各国政府が行う(以前は個人や組織でも可能でした)
- 事務局は推薦された物件を各国に提示する
- 政府は他国の推薦物件に対して90日以内に異議を申し立てることができる
- 異議申し立てがなければIAC(国際諮問委員会)が審査・勧告を行う
- 異議申し立てがあった場合、事務局の仲裁で当事国が期限を設けず合意形成を行い、合意があったものについてIACが審査・勧告を行う
- 最終的に執行委員会がIACの勧告を承認する(これまではUNESCO事務局長が行っていました)
しかし、現在も「慰安婦の声」をはじめ、負の遺産に関する登録活動は続いています。
そしてその多くで加害者側と被害者側の事実認識に大きな隔たりがあり、それが対立を引き起こしています。
平和の理念を掲げながら、分断と対立の原因になっているのです。
なお、世界の記憶の問題については多くの過去記事で書いていますので、詳細はそちらを参照してください。
最後にリンクを張っています。
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■「記憶の場」の矛盾と問題点
ICOMOSは近年の紛争に関する「記憶の場」について、そのような分断と対立の原因になりうることを指摘しています。
世界遺産リストへの登録を通して一方的な意味・価値・解釈が固定化され、それを根拠に他の見解が否定されるという懸念です。
利害関係者はそれぞれ自分の真実を語りますが、ICSCは真実には4つの段階があることを示しています。
- 公式の真実:起こった事柄についての公的かつ公式に承認または否定された真実
- 物語の真実:加害者・被害者・目撃者によって語られる物語の真実
- 社会的真実:すべての利害関係者間の公的交流を通じて確立される真実
- 癒しの真実:被害を修復し、民間に対する暴力の再発を防ぐために役立つ真実
そもそも「絶対的な真実」など存在せず、人が完全に客観的であることもできません。
ひとつの真実はひとつの解釈にすぎず、変化するものです。
しかし、世界遺産は人類全体にとっての「顕著な普遍的価値」を提示しなければなりません。
変化する真実と普遍的な価値――
ICOMOSはこれを「根本的な矛盾」と表現しています。
ただ、歴史には大きな物語があり、多くの人に了承された「パブリック・ヒストリー/公的な歴史 "Public History"」があります。
歴史はつねに世界観に左右されるもので、真実は存在しないのかもしれませんが、できる限り科学的・客観的な方法で確立された歴史概念があります。
加えてUNESCOの平和の使命は人権概念のように人類全体を通じて普遍性を与える努力がなされています。
世界遺産の顕著な普遍的価値はこうした原則の上に立つもので、だからこそ登録基準(i)~(v)には大きな論争はありません。
しかし、「記憶の場」については生々しい記憶が生きており、事実にさえ論争があって、客観性を確立するのがきわめて困難です。
南京事件や慰安婦問題を思い起こせばわかるように、日本と中国・韓国の間では数百年前・数千年前の歴史的事実よりも、100年以内に起きた近年の事実の方が認識に大きな差があるのです。
こうした問題に対処するためにICSCやICOMOSなどはいくつかの条件を満たす必要があるとしています。
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■「記憶の場」に求められるもの
○顕著な普遍的価値と、記憶と場所のつながりの明示
その出来事の記憶が人類全体にとって顕著な普遍的価値があることがおおよそ証明されなければなりません。
それは世界遺産リストがそれぞれの分野を代表する選択的なリストであり、そこにこそ価値があるからです。
「記憶の場」の顕著な普遍的価値の証明が難しいことは先述しましたが、そもそも記憶や悲劇・教訓・和解・平和・理解・寛容・団結・再建といった概念に価値の大小があるのかといった問題も内在しています。
そして一応は証明された顕著な普遍的価値についても、それが変化しうるものであり、絶対的なものではないことを確認しておく必要があります。
さもなければ「記憶の場」が一部の集団が主張する意味・価値・解釈のみを固定化して相違を強調し、かえって分断と対立を招く恐れがあるからです。
そしてまた、世界遺産が有形の不動産を扱う限りにおいて、こうした記憶の価値は物理的な場所と直接的・具体的に結びついていなければなりません。
○全利害関係者が参加し、対話と和解、教育と良心の場であること
絶対的な真実が存在しないのであるから、あらゆる意味・価値・解釈を拾い上げておく必要があります。
そのためにすべての利害関係者が参加し、「記憶の場」の意味・価値・解釈について合意を引き出す努力が払われなければなりません。
重要なのは、単に過去を記念するのではなく、未来のための対話と和解の場であることです。
ICSCは「良心の場 "Sites of Conscience"」と呼ばれる活動を行っており、これが参考になります。
「良心の場」は、被害者・生存者・政府を含む関係する社会のすべてのメンバーが「過去と現在、記憶と行動を結びつける」決意を示す場所です。
過去に起こった悲劇を思い学び、それらの出来事が現在どのような課題を引き起こしているのかを探究して、正義と普遍的な人権文化を促進することを目的としています。
そして出来事に結びついた場は人々が広くアクセスできるオープンな場として公開されており、教育や対話を促すプログラムが用意されています。
こうして過去から学ぶことで、「二度と繰り返さない "Never Again"」という決意を固めるのです。
「記憶の場」は未来への確固たる取り組みを伴うことで「良心の場」となります。
「良心の場」は現在350件以上が登録されていますが、この中で世界遺産リストと重複しているのは以下3件に限られています。
- 「ゴレ島(セネガル)」のメゾン・デ・エスクラーヴ(奴隷の家)
- 「ESMA博物館と記憶の場-拘禁・拷問・絶滅のための旧秘密センター(アルゼンチン)」のESMA「記憶の場」博物館
- 「ジェノサイドの記憶の場:ニャマタ、ムランビ、ギソチ及びビセセロ(ルワンダ)」のキガリ虐殺記念館
ちなみに、日本の物件としては唯一「アクティブ・ミュージアム 女たちの戦争と平和資料館(wam:Women’s Active Museum on War and Peace)」が登録されています。
この資料館は公式サイトで「戦時性暴力、『慰安婦』問題の被害と加害を伝える日本初の資料館」を謳っているように、先述した世界の記憶における慰安婦資料の登録活動にも参加しています。
「良心の場」であっても議論があることがわかります。
世界遺産条約は教育・広報を重視していますが、「記憶の場」は分断と対立を避けるためにもいっそうの努力が要請されています。
場合によってはICSCなどのプログラムとの連携も考慮する必要がありそうです。
○比較分析
世界遺産リストの代表性・選択性の信頼性を高めるために類似の物件との比較分析が必要になります。
ただ、負の遺産に優劣を付けることの困難は想像に難くありません。
たとえば、世界規模の戦争は地域紛争や内戦と比較してより重要と言い切れるのでしょうか?
建造物の破壊状況や犠牲者の数で比較するべきでしょうか?
悲劇を体験した人の記憶の質を比較することが認められるのでしょうか?
どうしたら分断と対立でなく、対話と和解のベースとなるでしょうか?
いずれにせよ世界遺産リストに登録するためには必要な過程であり、その精度が求められることになります。
* * *
■世界遺産の挑戦と「戦争の世紀」
戦争でもっとも多くの人が犠牲になったのは終了した最新の世紀である20世紀です。
人類史上もっとも人権概念が発達した20世紀の先進国で2度も世界大戦が勃発しました。
その犠牲者は5,000万とも1億超とも言われています。
第1次世界大戦後には戦争の放棄を謳った不戦条約(戦争放棄に関する条約/パリ不戦条約)が成立し、63ヵ国が締結しました。
現在も190以上の国と地域が参加する国連の憲章において、武力行使は国連の武力制裁・個別的自衛権・集団的自衛権の3つしか認められておらず、自衛以外の戦争や紛争は違法化されています。
それにもかかわらず、いままさにウクライナやパレスチナ、アフガニスタン、シリア、リビア、ソマリア、イエメンなどを筆頭に、50以上の戦争や紛争が戦われています。
ICOMOSは「アウシュヴィッツ-ビルケナウ、ナチスドイツの強制絶滅収容所 [1940-1945](ポーランド)」や「広島平和記念碑[原爆ドーム](日本)」などで示されたポジティブなメッセージは現状、無視されていることに注目すべきである、と記しています。
正義を推進し、人権概念を普及させることで平和を実現するというアプローチは成功しうるものなのでしょうか?
戦争は所詮、正義VS正義の争いです。
しかし、虐殺やジェノサイド、民族浄化、絶滅収容所、人種隔離といった極端な例については人類全体の同意が得られるかもしれません。
では、「記憶の場」はどこまでを範囲とするべきなのでしょうか?
近年の紛争に関する「記憶の場」を世界遺産リストに登録することは、かえって分断と対立を助長し、世界遺産リストの信頼性を毀損することになるかもしれません。
しかし、それでも世界遺産委員会はこれを前進させることを選択しました。
教育・科学・文化という道具を手に、人の心に平和のとりでを築いて平和を構築する――
この実現に向けて、世界遺産の新たな挑戦がはじまります。
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