世界遺産NEWS 19/10/23:カタルーニャのバルセロナで大規模デモ
10月14日にスペインの最高裁判所が12人の独立運動指導者らに言い渡した厳しい判決に反発してカタルーニャ州各地でデモが発生しています。
特に州都バルセロナでは18日に50万人超が集まり、世界遺産のサグラダ・ファミリアが閉鎖され、50便以上のフライトがキャンセルされました。
■Amid turmoil in Barcelona, ex-Catalan president says of independence push: ‘We went too fast’(The Guardian。英語)
今回はこのニュースをお伝えします。
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10月14日、スペイン最高裁は2017年にカタルーニャ州(人口750万人)の独立を問う国民投票を強行して民衆を扇動したとしてプッチダモン前首相をはじめ幹部9人に対して暴動罪で9~13年の禁固刑、3人に対して不従順の罪で罰金刑を言い渡しました。
2017年当時、スペイン政府は違法行為であり反乱であるとして投票の中止を求め、自治体に圧力をかけ、国家警察や治安警察を投入して阻止しようとしました。
数百人の住人が負傷する衝突を経て10月1日に投票は強行され、投票所の閉鎖といった妨害のため投票率は42.3%と低迷しましたが、独立支持が90%超と圧倒しました。
これを受けて当時首相だったプッチダモン氏は「独立の権利を得た」と勝利を宣言。
スペイン政府がカタルーニャ州の自治権停止を発表したのに対し、州議会はカタルーニャ共和国の独立を宣言しました。
ただ、独立宣言は直後にスペインの憲法裁判所によって無効を宣告されており、国際社会の同意も得られませんでした。
プッチダモン前首相は逮捕を恐れてベルギーに出国しています。
スペイン憲法では州政府の独立活動を禁じているため、プッチダモン前首相をはじめとする政府幹部は反乱罪に問われ、裁判となりました。
そして先述したように10月14日、前首相に対する13年の禁固刑を筆頭に最高裁で厳しい判決が言い渡されました。
この判決を受けて各地でデモやストライキが発生。
「自由のための行進」と称して各地のデモがバルセロナへと集結し、18日にデモ隊は推定52.5万人に達しました。
幹線道路や高速道路にも詰めかけたため道路がマヒし、公務員の3割がストライキに参加したため役所や交通機能の一部が停止。
鉄道や空港も影響を受け、遅れが多発し、50以上の便がキャンセルになりました。
カタルーニャ芸術の象徴である世界遺産のサグラダ・ファミリアにも多くの人々が集結し、教会は安全が保証できないとして急遽閉鎖されました。
基本的にデモは平和的に行われていますが、道路を封鎖したり火を着ける過激なグループに対して警察は催涙弾やゴム弾を使用しているようです。
散発的にこうした混乱が生じており、ケガ人も出ている模様です。
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そもそもカタルーニャはなぜ独立を求めているのでしょうか?
簡単にその歴史を紹介しましょう。
8世紀末、イスラム教を奉じるウマイヤ朝(アラブ帝国)がイベリア半島を侵略して現在のフランスに攻め入ります。
フランク王国がこれを阻止し、ピレネー山脈南部、ウマイヤ朝との間に緩衝地帯としてスペイン辺境伯領を設けます。
イベリア半島ではイスラム教徒の支配に対してレコンキスタ(国土回復運動)を展開し、キリスト教徒たちは次々と領土を獲得して独立していきます。
987年にはスペイン辺境領からバルセロナを中心とするカタルーニャ君主国が独立。
多くのキリスト教国が林立しましたが次第に統一が進み、カタルーニャ君主国もアラゴン王国と結んでアラゴン=カタルーニャ連合王国が成立します。
1469年、アラゴン王フェルナンドはカスティリャ女王イザベルと結婚して連合が成立し、共同君主となって両国は統合。
1479年にはカタルーニャを含む形でスペイン王国が成立します。
スペインはアメリカをはじめ新世界を支配し、大国化して中央集権を強めていきますが、カタルーニャは自治を認められてはいたものの貿易からは排除され、力を失っていきます。
1701~1714年のスペイン継承戦争ではスペインの王位を巡ってフランス・ブルボン家とオーストリア・ハプスブルク家が争います。
ブルボン家が勝利してスペイン・ブルボン朝がスタートしますが、ハプスブルク家を支援したカタルーニャは弾圧を受け、自治が廃止されてカタルーニャ語が禁じられました。
その後、オランダやイギリスに追い落とされてスペインは没落しますが、18~19世紀、いち早く産業革命に成功したカタルーニャは「スペインの工場」と呼ばれてスペイン経済をリードし、「カタルーニャ・ルネサンス」と呼ばれる華やかな芸術文化を生み出します。
ところが20世紀に入ると軍事政権の支配下に入り、1936年にはじまるスペイン内戦では独立を恐れてふたたび自治が停止され、独立運動家は厳しく弾圧されました。
1970年代にスペインは民主化され、1979年にカタルーニャ自治憲章が制定されてカタルーニャ自治州が成立します。
1986年にスペインがEC(ヨーロッパ共同体)に加盟すると、外国企業が次々とカタルーニャに進出。
スペインには17の自治州がありますが、カタルーニャ1州でスペインのGDPの20%前後を占めるほどに成長しました。
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2012年10月7日のエル・クラシコ。人々が手に持っているのはカタルーニャ独立旗「アスタラーダ」
イギリスがイングランド、ウェールズ、北アイルランド、スコットランドの連合王国であるように、カタルーニャの人々にとってスペインも昔から連合国です。
カタルーニャがスペインになったことはないわけで、「自分たちはカタルーニャ人であってスペイン人ではない」という主張につながります。
だからといって以前から独立一辺倒だったわけではありません。
1970年代から選挙ではつねに独立賛成派は少数で、議会でも多数を占めることはありませんでした。
しかし、スペインが経済危機を迎える2007年以降、次第に流れが変わります。
2012年にスペインはEU(欧州連合)の支援を受けますが、悪化する経済に対してカタルーニャの人々の中には「スペインに搾取されている」という意識を持つ人が増えはじめます。
実際、他の地域の税が軽減されたのに対し、多くの税を支払っているはずのカタルーニャ州には重税が課されたままでした。
独立運動家らは「独立することで生活が豊かになる」との主張を強めていきました。
スペイン政府としては経済的にカタルーニャを独立させるわけにはいきません。
独立運動を牽制する中で対立は深刻化し、カタルーニャでは独立を支持する層が増加し、2010年ほどから過半数を占めるとの調査結果が増えていきます。
対立の象徴に祭り上げられたのがサッカーのリーガ・エスパニョーラ、FCバルセロナ-レアル・マドリードの伝統の一戦「エル・クラシコ」です。
カタルーニャの州都であるバルセロナと、カスティリャやスペインの首都であるマドリードとの対戦ということで、バルセロナのカンプ・ノウスタジアムではカタルーニャ独立旗「アスタラーダ」を持った人々が "Libertad"(自由)を大合唱するようになりました。
2017年10月の国民投票は先述しましたが、同年12月に行われた州議会選挙では独立賛成派が135議席中70議席(52%)を獲得して勝利しました。
ただ、こうした政情不安から外国企業が拠点をマドリードや海外に移しはじめており、カタルーニャ経済は縮小し、ただでさえ悪い景気がさらに悪化しています。
急な独立に反対する意見も依然として根強く、先が見通せない状況です。
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バルセロナには「アントニ・ガウディ(アントニオ・ガウディ)の作品群」と「バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院」というふたつの世界遺産がありますが、いずれも先述したカタルーニャ・ルネサンスの時代に築かれたものです(サグラダ・ファミリアは現在も建設中)。
スペイン版アール・ヌーヴォーといわれる芸術様式・モデルニスモの作品群ですが、華やかな色彩や柔らかな曲線はカタルーニャの明るい太陽や自然から来ていると言われています。
カタルーニャの太陽は明るく暖かいものですが、レコンキスタの時代から育まれてきた何ものにも屈しない熱い情熱を秘めています。
カタルーニャが独立、あるいはより高度な自治をあきらめることはないと思われますが、モデルニスモが目指したような人を思いやるやさしい移行であってほしいと願います。
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