世界遺産NEWS 16/10/06:世界の記憶と慰安婦文書を巡る対立
5月31日、中国・韓国・日本をはじめとする9か国15の市民団体と博物館等が、いわゆる慰安婦関係の資料2,744点を集めた「慰安婦の声 Voices of the ‘Comfort Women'」を世界の記憶(ユネスコ記憶遺産/世界記録遺産)に推薦しました。
これに対して10月1日、登録阻止を掲げる民間団体・歴史認識問題研究会が発足し、反論書をまとめる意向を示しました。
かなり厄介な問題ですが、遺産事業を語るうえで避けて通れない話題だと思いますので、世界の記憶と慰安婦文書を巡っていま何が起きているのか、簡単に解説してみましょう。
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まず前提です。
世界の記憶 "Memory of the World" はUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)の三大遺産事業のひとつで、ユネスコ記憶遺産/世界記録遺産などとも呼ばれています。
その目的は、文書や石碑・地図・製図・絵画・音楽・口承・放送・映画・テープ・写真といった文物のデータの「記録」です。
記録ですから文物そのものを保護・保存するのではなく、内容をデジタル化して保存・公開・活用しようという活動です。
他の三大遺産事業と大きく異なるのは、世界遺産条約や無形文化遺産保護条約のような条約を持たず、したがって条約締約国も存在しないという点です。
ですから条約締約国の推薦である必要はなく、個人や団体の推薦でも構いません。
そしてリストへの登録は2年に一度開催されているIAC(国際諮問委員会)で審議されます。
現在、事務作業が追い付かないという理由で、推薦は毎回各国2件までとされており、個人や団体の推薦も含めて3件以上が推薦された場合は各国の国内委員会が選考を行って2件に絞ります。
ただし、複数国による共同推薦物件はこの枠に入れなくてもよいことになっています。
そして2017年に開催される第13回IACに、日本からは以下2件の推薦が決まっています。
- 上野三碑
- 杉原リスト -1940年、杉原千畝が避難民救済のため人道主義・博愛精神に基づき大量発給した日本通過ビザ発給の記録
国ではなく市民団体が「慰安婦の声」を推薦できるのは上のような事情からで、また日本としては3件目の推薦となるわけですが、共同推薦なので「問題なし」ということになるわけです。
なお、世界の記憶の詳細は最後にリンクを張った「UNESCO遺産事業リスト集 3.世界の記憶(ユネスコ記憶遺産/世界記録遺産)リスト」を参照してください。
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慰安婦関係の資料の推薦ですが、実はこれが2度目となります。
2015年の第12回IACに中国が「大日本帝国軍の性奴隷『慰安婦』に関するアーカイブ Archives about "Comfort Women": the Sex Slaves for Imperial Japanese Troops」を推薦しました。
このとき中国は同時に「南京虐殺のドキュメント Documents of Nanjing Massacre」も推薦していました。
日本政府はこれに反発し、資料が一部しか公開されていないうえに信頼性に欠けるということで、中国政府に情報開示と共同研究を提案し、申請の延期・取り下げを申し入れました。
先述のようにこの事業は記録の保存・公開・活用を目的としていますから、事実として拡散されることを恐れたためでしょう。
UNESCOに対しても「政治利用である」として登録に反対しましたが、2015年10月に「南京虐殺のドキュメント」のみ、登録が決定しました。
登録や登録失敗の過程や理由が公開されていないどころか、「南京虐殺のドキュメント」の内容の全貌さえ明らかになっていないということで、各所から非難が巻き起こりました。
日本政府はUNESCOに、作業指針に定められた真正性(ホンモノであること)の厳格な審査や選出過程の透明化・公平化などを求めており、現在も見直しが進められています。
というわけで、前回なぜ慰安婦関係資料が登録に失敗したのかよくわかりません。
それどころか「南京虐殺のドキュメント」の内容はいまだにすべてが公開されているわけではありません。
UNESCOの関係者が中国に対して、複数の被害国での共同推薦を勧めたなんていう話もあったりします。
そして今回の推薦です。
5月31日に推薦書を提出した主体となったのは中国・韓国・日本に加えてイギリス・インドネシア・オランダ・台湾・東ティモール・フィリピンの9か国15の市民団体・博物館です。
一例を挙げると、韓国の挺身隊ハルモニと共にする市民の集い、戦争と女性の人権博物館、中国の上海師範大学中国人慰安婦研究センター、日本のUNESCO世界の記憶共同推薦のための日本委員会、イギリスの帝国戦争博物館、オランダの対日道義的負債財団、台湾の台北婦女救援基金会などです。
これらに加えて中国・韓国・台湾・日本・オーストラリア・オランダ・アメリカの19団体とふたりの個人が文書の推薦を許可しています。
内容は以下となっています。
■タイトル
慰安婦の声 Voices of the ‘Comfort Women'
■構成
- 日本の従軍慰安婦制度に関する公的ならびに私的文書(563点)
- 慰安婦に関する文書(1,449点)
- 慰安婦問題を解決するための活動に関する文書(732点)
■慰安婦について
「慰安婦」とは、1931~1945年にかけて日本軍の性奴隷となることを強要された女性や少女の婉曲表現である。彼女らは多数のアジア諸国から連行され、日本軍キャンプ内外に設置された「慰安所」で奴隷とされた。
慰安婦の証言や写真・イラスト・裁判資料などの他に、韓国を中心とした近年の慰安婦問題に関する活動資料なども含まれており、推薦書では河野談話や世界各地で問題となっている慰安婦像などについても言及されています。
中国政府はこうした活動を歓迎し、被害国の民間団体による共同申請に対する支持を公式に表明しています。
韓国政府は2015年12月28日に結ばれた日韓合意があるためか公式にはコメントを控えているようで、支援もしていないと伝えられています。
日本政府はこうした動きを警戒し、5月に馳浩文部科学相、8月には変わった松野文部科学相がUNESCOのイリーナ・ ボコバ事務局長を訪ねて制度改革や適切な対応を呼び掛けています。
そして10月1日、この物件の登録を阻止しようとこちらも民間の歴史認識問題研究会が立ち上がりました。
最大の争点は「慰安婦」という存在の歴史認識です。
推薦書には明確に「性奴隷(sex slave)」と表記されており、8万~20万人が性奴隷となったことが記されています。
これに対して歴史認識問題研究会は強制連行や奴隷という状態、数十万人という数字等々は創作されたプロパガンダであるとして、客観的な資料をもって否定しようとしているようです。
こうした内容を記した反論書を11月末までに調えて、UNESCOに提出するとしています。
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慰安婦の認識は日本と中国・韓国とでは大きく異なるのですが、どうしてこんなことが起こるのでしょうか?
だって慰安所が設置されて慰安婦が動員されたのは1930年代~40年代で、たった70~80年ほど前の話ですよ?
以前も書きましたが、たとえば日本と中国は千年前とか二千年前の古代史に関してそれほど大きな対立はありません。
ある程度共通した歴史認識を確立できているのです。
なぜでしょうか?
それは両国が「科学的に」古代史を研究しているからです。
科学に必要な態度はいくつかありますが、重要な手法のひとつが論理実証主義的なアプローチです。
簡単に言えば、事実でもって実証すること、そして実証された事実を論理的に組み合わせて新たな事実を究明することです。
日本の古代史に関する史資料としては、日本の『古事記』や『日本書紀』、中国の『魏志倭人伝』や『後漢書東夷伝』などがあり、また同時代の遺跡から出土するさまざまな出土品があります。
こうした具体的な証拠でもって実証し、実証された事実を組み合わせて新たな事実を探究するのです。
「宇宙人がナスカの地上絵を描いた」ことを100%否定することはできません。
しかし、仮説に仮説を重ねる行為にはあまりに大きな飛躍があり、非論理的・非実証主義的で、つまり科学ではないということになります。
だって宇宙人という仮説を認めるのであれば、神様や妖精・地底人が造った可能性や、人類が同時に夢を見ている可能性、そもそもいまいる世界が幻である可能性なども検証しなくてはなりません。
可能性が少しも狭まっていません。
証拠でもって可能性を狭めて事実を絞るのが科学的手法であり、証拠によって実証できない仮説は空想にすぎないのです。
もちろん『古事記』や『日本書紀』もさまざまな神様が登場する物語で、それをそのまま事実であるとは到底考えられません。
しかし、それらの内容と遺跡や出土品を照合することで、背景にある事実を実証することができるのです。
こうした科学的態度のおかげで世界の歴史に対する認識はおおよそ一致しています。
では、なぜ慰安婦や南京問題については認識の一致ができないのでしょうか?
これ、非常に大きな問題ですから、みなさんもぜひ考えてみてください。
ぼくなりの考えもあるのですが、「世界遺産NEWS」で書くには重すぎるしスペースもないということで場を改めることにしたいと思います。
ただ、UNESCOや参加国はこの問いに回答する義務があるはずです。
UNESCOはふたつの大戦の反省の結果生まれた組織であり、「国際連合教育科学文化機関」の名前の通り、「教育」と「科学」と「文化」を高めることで国際平和と全人類共通の福祉に貢献することを目的としているからです。
そして世界の共通認識として「科学」を高らかに掲げているからです。
日・中・韓の対立はUNESCOの目的に明らかに反しています。
平和と福祉どころかアンチ平和・アンチ福祉な行動です。
UNESCOの遺産事業なんて所詮ファッションにすぎないのではないか――
この問題が解決しないようであれば、そう思われても仕方ないのではないかとさえ思えてしまうのです。
反対に、これを解決することができれば、UNESCOはこれまでになかったアプローチで世界を結び付けることができるはずなのです。
なんだか中途半端な終わり方になってしまいましたが、何かを考えるきっかけになれば幸いです。
自らの信仰や感情を対立させるのではなく、本質的な議論が行われることを期待しています。
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