世界遺産NEWS 16/05/30:気候変動下における世界遺産とツーリズム
5月下旬、UNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)はUNEP(国際連合環境計画)、USC(憂慮する科学者同盟)と共に "World Heritage and Tourism in a Changing Climate"(気候変動下における世界遺産とツーリズム)と題するレポートを発表しました。
いまや気候変動は世界遺産に対するもっとも重要な脅威となっています。
地上の平均気温や海水温の上昇は氷河や万年雪・ツンドラの融解、土地の乾燥化、海岸線や河川・湖沼の変化、洪水あるいは干ばつの多発、台風・ハリケーン・サイクロンの増加、海の酸性化等々、さまざまな形で環境や生態系に影響をもたらしています。
昨年12月に開催されたCOP21(気候変動枠組条約第21回締約国会議)では世界の気温上昇を2度以内、できれば1.5度未満に抑えるというパリ協定が採択されました。
世界遺産にとっても2度以内に収めることはきわめて重要だと言われています。
たとえば下の映像によると、2.9度の温度上昇があった場合、日本の世界遺産「白神山地」のブナ林の生息適地は山頂などを除いてほとんど消滅するとしています。
UNIC(国連広報センター)が公開している世界遺産への気候変動の影響を伝えるための映像ツール集より、「失われるブナ林・白神山地」
また、多くの世界遺産はツーリズム(観光産業)によっても多大な影響を受けています。
世界遺産リストに載ることでツーリストが増え、自然遺産や文化遺産の負荷が増しているのです。
たとえばツーリストは飛行機や車で目的地にやってくるわけですが、そのときの排気ガスが環境に直接的な影響をもたらすだけでなく、気候変動にも関係してきます。
顕著な普遍的価値を有する遺産を永遠に守るというのが世界遺産条約の目的ですから、ツーリズムはその目的に反しているように見えなくもありません。
しかしながら世界遺産と観光業は必ずしもトレードオフ(二律背反)の関係にあるわけではありません。
世界遺産になることで地域住民がその価値を再発見し、自然や遺跡に誇りを持ち、保護活動に積極的に参加するようになるケースも少なくないのです。
そのうえで地域が潤えば持続可能な観光になるでしょうし、世界遺産の危機をアピールすることで世界遺産条約や気候変動に対する取り組みへの啓蒙活動の拠点にさえなりうるのです。
"World Heritage and Tourism in a Changing Climate" では気候変動と観光を同時に扱い、対応することの必要性をアピールしています。
そして31件の世界遺産をケース・スタディとして提示し、気候変動とツーリズムがどのような影響をもたらしているか具体的に例示しています。
一例を示しましょう(以下はレポートの内容+私見です)。
■ヴェネツィアとその潟(イタリア)
ヴェネツィアは道路の代わりに運河が張り巡らされた水上都市ですが、年間1,000万人が訪れる人気の観光都市でもあります。
この街で深刻な問題になっているのが海水位の上昇です。
ぼくもヴェネツィアを訪れた際にアクア・アルタと呼ばれる高潮に出くわしたのですが、観光の中心となるサン・マルコ広場が完全に浸水し、周辺の土産物屋の内部にまで海水が浸入していました。
場所によっては平均水位は19世紀末と比べて30cm近くも上昇し、アクア・アルタの頻発や嵐の際の被害拡大をもたらしています。
被害はもっと日常的な部分でも見られています。
ヴェネツィアの伝統的な建物は潟に木の杭を打ち、ここに石を敷いて土台とし、その上にレンガや大理石を敷き詰めて建てられています。
石の層が海水に対するブロックとなっていたわけですが、水位上昇によってレンガや大理石層に到達あるいは室内にまで浸水し、塩によって建物が大きなダメージを受けているのです。
アクア・アルタに対して、2017年に潟とアドリア海をつなぐ3つの水路に水門となる可動式ゲートが完成する予定です(モーゼ計画)。
潟の環境や生態系を守るために水位が110cmを超えた場合にのみ稼働させるようですが、潟の水位自体は今後も上昇することが予想されるため、長期的な解決にはならないと言われています。
そしてまた、ヴェネツィアにはツーリズムの問題も横たわっています。
ヴェネツィアは年間1,000万人が訪れる観光都市でもあるわけですが、水上都市ですからインフラにも限界があり、利便性や物価面から不便が生じ、人口はここ30年で120,000人から55,000人に激減しています。
こうしたことからヴェネツィアでは「持続可能な観光」が危機に瀕しているのです。
■イエローストーン国立公園(アメリカ)
イエローストーンは世界初の国立公園であり、世界で初めて登録された世界遺産です。
こちらでは19世紀末に比べて平均気温が1.17度上がり、1948年以降は10年あたり0.17度上昇中で、春夏の平均気温については今世紀末までに4.0~5.6度もの上昇が見込まれています。
これによって低地の植物が高地にまで生息域を広げるなど、生態系の変化が観測されています。
特に顕著なのが湿地です。
積雪量はここ800年で最低を記録するほど減少し、雪解け水の水量が減って湿地に水が供給されにくくなっています。
今後40%もの湿地が姿を消すとされており、それに伴って数多くの動植物が影響を受けると思われます。
そしてまた、火事の増加も問題となっています。
ある種の植物は火事を機会に繁殖を開始するなど、自然の火事は森に不可欠なものです。
しかし、気温の上昇によって火事のシーズンが伸びており、火事の増加と大型化が深刻化しています。
延焼面積は今後6倍に増えることが予想されていますが、これは森の再生スピードを超えており、不可逆的な被害となる可能性が高いようです。
イエローストーンはアメリカの自然保護の象徴です。
年間400万人以上が訪れる人気の観光地で、環境に対する意識を高める啓蒙活動にも多大な貢献をしています。
その象徴を守ることができるか否か、アメリカが、世界が試されています。
■カディーシャ渓谷[聖なる谷]と神のスギの森[ホルシュ・アルツ・エル-ラーブ](レバノン)
人類最初の文明であるメソポタミア文明やエジプト文明でもっとも重用されていた木材がレバノンスギでした。
気温や湿度の変化に強く、防虫効果があって加工も簡単であることから、エジプトのファラオの棺や地中海を制したフェニキア人の船などにも多用され、神木として崇められました。
ところが半砂漠地帯に生える木ですから成長が遅く、伐採が続くと簡単に森は消えてしまいます。
紀元前のうちに多くの森が消え、現在まで残っているのはかつての生息地のたった5%と見られています。
そして現代におけるレバノンスギの最大の生息地がこの世界遺産なのです。
レバノンスギも気候変動の影響を受けており、気温の上昇によって生息域を山頂側に移していますが、すでに山頂付近に展開しているため行き場を失っている状態です。
また、湿度の変化や水不足の影響もあり、その繁殖にダメージを受けています。
森の喪失が人間の暮らしを破壊することは、環境破壊に関する世界最古の記述と言われる『ギルガメシュ叙事詩』に描かれています。
古代に絶滅しかけたレバノンスギが、現代においてふたたび危機に瀕している――
このままでは「文明には価値がない」ということにさえなってしまいそうです。
* * *
3件を例として挙げましたが、レポートでは以下31件の世界遺産を扱っています。
- オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地(イギリス)
- ストーンヘンジ、エーヴベリーと関連する遺跡群(イギリス)
- ヴェネツィアとその潟(イタリア)
- ワッデン海(オランダ/デンマーク/ドイツ共通)
- イルリサット・アイスフィヨルド(デンマーク)
- ニューカレドニアのラグーン:リーフの多様性と関連の生態系(フランス)
- アルタイのゴールデン・マウンテン(ロシア)
- コモド国立公園(インドネシア)
- 知床(日本)
- サガルマータ国立公園(ネパール)
- 古都ホイアン(ベトナム)
- フィリピン・コルディリェーラの棚田群(フィリピン)
- ワディ・ラム保護地域(ヨルダン)
- カディーシャ渓谷[聖なる谷]と神のスギの森[ホルシュ・アルツ・エル-ラーブ](レバノン)
- 東レンネル(ソロモン諸島)
- 南ラグーンのロックアイランド群(パラオ)
- イエローストーン国立公園(アメリカ)
- 自由の女神像(アメリカ)
- メサ・ヴェルデ国立公園(アメリカ)
- ルーネンバーグ旧市街(カナダ)
- ガラパゴス諸島(エクアドル)
- カルタヘナの港、要塞群と建造物群(コロンビア)
- ラパ・ヌイ国立公園(チリ)
- サウス-イースト大西洋岸森林保護区群(ブラジル)
- コロとその港(ベネズエラ)
- ワスカラン国立公園(ペルー)
- ブウィンディ原生国立公園(ウガンダ)
- キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群(タンザニア)
- マラウイ湖国立公園(マラウイ)
- ウワダン、シンゲッティ、ティシット及びウワラタの古い集落(モーリタニア)
- ケープ植物区保護地域群(南アフリカ)
それほど難しい英語ではないので、ぜひ読んでみてください。
"World Heritage and Tourism in a Changing Climate" のPDF(英語版)は以下で公開されています。
■World Heritage and Tourism in a Changing Climate(UNESCO公式サイト)
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